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【書籍化決定】「連載版」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第5章 神殿公証と契約条項

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第25話 返還期限つきの要求

 朝の光が廊下を細く照らしていた。ヴァイス侯国の執務室は、毎朝この時刻には仕事の準備が整っている。机上には、いつもの書簡が4通。返信期限は明日。返信の日程。破棄の日程。見慣れたペースだ。見慣れた仕事だ。同僚書記官は既に机上を整理し、朝の業務記録帳に目を通していた。


 けれど、その下に何かがあった。


 同僚書記官の手が止まった。顔色が、一瞬、変わった。私も気づいた。机の右奥に、1枚の封書が置かれている。ほかの書簡とは違う質感。紙が厚い。重い。それだけでなく、封蝋の色が違う。


 検閲色だ。


 あの赤紫は、王宮の機密指定文書に押される色だ。6年間、王太子付きの書簡官として多くの書簡を触ってきた色だ。返信の返信、修正の修正。その全部を見てきた。だが、あの色が「書く側」の私宛てに来たのは、初めてだ。その差は大きかった。


「机で開けないでください」


 同僚書記官の声が、硬かった。右手を前に出して、その封書を差し止めた。「噂より先にパン屑が残ります」と言い加えた。軽い言葉の裏に、警告が隠れていた。


 私は頷いた。


 机を離れた。同僚書記官も護衛も、黙って後ろに下がった。


 執務室の隅にある読書椅子。そこで、私は初めてその封書を手に取った。


 厚紙。正式な命令文の感触だ。親指で封蝋を触れた。未開封。完全に整った状態。何かが、胸の奥で一拍だけ止まった。


「……開けます」


 声に出したのは、自分のためではなく、二人のためだった。——今、開けます。準備してください。そういう合図だ。


 刃を封蝋に沿わせた。きりりと、紙を傷つけないように切り込む。6年の癖が指に残っていた。


 中身を取り出した。


 1枚。公式文書のそれ。「本国王宮より」と刻まれた頭括り。その下に、文言が並んでいた。


 読んだ。1行目。


「外交顧問・フィリーネ・クレストが保管する書簡箱は、国家機密保持の名目において、本国への返還を求める」


 文字が、滑った。目の焦点が合わない。次の行を読もうとしても、前の行が頭を離れない。書簡箱。国家機密。返還を求める。


 その言葉の何もかもが、数日前まで自分が「守ろう」と決めたものだった。複製管理表、面会枠の最適化、手順の全て。それらは全部、この瞬間のために整えていたのだろうか。


 そして、その下。


「返還期限は、明日の日暮時刻」


 1語だけが、光って見えた。


「明日」


 その下の全ての文言が、光った「明日」の重さに圧し潰されていた。他に何が書いてあるのか、もう見えない。どんな理由が列挙されているのか。どんな条件が提示されているのか。それより先に、「明日」という短い言葉が、額の奥まで刺さっていた。


「明日……」


 声が出た。か細い。


 読み返した。確認した。誤字ではない。日暮時刻。明日のそれだ。つまり、24時間以内に。


「フィリーネ」


 レオンの声がした。いつの間に、隣に立っていたのか。護衛が通したのだろう。


 書簡を見ている。内容を読んでいる。顔が、徐々に硬くなっていく。


「ただちに——」


 レオンが言った。「ただちに対応を通告します。手続きの異議申し立てを」


 歩き始めた。護衛に向かって何か言いかけている。指を立てて、指示を準備している。その速度は、いつもの「守り」の速度だ。素早く、完全に、逃げ道を塞ぐように。


「記録が残る場でお願いします」


 その言葉だけが、口から出た。


 レオンが、止まった。


「異議申し立ても、通告も、大事です。でも」


 私は、その紙を握ったままだった。指先に、感触が残っている。厚紙のざりりとした感触。


「ここで話せば、誰かが聞いている。記録されない言葉になる。それは」


 私は、紙を見た。「次の『異議申し立てが通らない』という言い訳に使われます」


 レオンが、眉を動かした。分かった。そういう顔だ。


「記録が残る場で、初めて、こちらの返答も有効になります」


 同僚書記官が、後ろで息を吸った。何も言わなかった。ただ、砂時計を机の上に置く手の速度が、いつもより速くなった。その砂が落ちるペースで、何かを計測し始める準備だ。


「わかりました」


 レオンが言った。声も、変わっていた。公用語。個人の温度ではなく、「明日までの24時間を数える」という音になっていた。


「神殿公証室の面談枠を押さえてください。可能な限り早い時間」


 指示は、護衛に向かったのではなく、同僚書記官に向かった。制度の隙間を知っている者にしか言えない指示だ。システムの上を歩ける者にしか通じない。


「了解です」


 同僚書記官の返答は、即座だった。砂が落ちている速度を、感じているのだ。


 その時だけが、私の中で一瞬だけ静かになった。


 保管庫への道は、廊下の奥だ。そこにはいつも、書簡箱を置いている。セキュリティの層の向こう側。誰も勝手には開けられない、その深さ。護衛が扉を開けた。


 鍵穴の前で、私は初めて立ち止まった。


 小さな銅色の円。いつもの鍵を差し込む場所。6年間、毎朝。その反復の中で、どうして私の手が忘れなかったのか。機械的に、鍵が開く。機械的に、箱が開く。機械的に、記録を整える。その全部が、「返還」という言葉の前では、無意味に変わっていた。


 手を伸ばした。指が触れた。冷たい。いつもの冷たさだ。6年間、毎朝触ってきた冷たさ。でも今日は、その冷たさが違う意味に変わっていた。期限を切られた物。返還対象。国家機密。それに指が触れるたびに、権利は「私のもの」から「返すべきもの」へ、音もなく反転した。


 その箱の中身を、一度数えてみた。書簡の数が合うか。改ざんされていないか。全ページ揃っているか。封蝋は完全か。


 全て、完璧だった。


 数字の上では、何もなかった。でも、何か失われている気がした。「守られている」という感覚が、「守らねばならない」に変わった。その重さが、両腕に乗った。保管庫の冷たい空気が、頬に触れた。


 廊下の掲示板に、面談枠が貼られていた。神殿公証室の予約状況だ。明朝、最初の枠は9時。次の枠は10時。その次が10時30分。


 レオンが、その掲示板を見ていた。隣に、同僚書記官が立っていた。


「最初の枠を取ります」


 同僚書記官の声が、宣言のように聞こえた。


「公証は——記録です。記録は逃げません」


 その言葉だけが、廊下に残った。


 明日の日暮時刻。期限が、空気を圧している。


 それでも、私たちは記録を選ぶ。紙で、台帳で、手順で、守るしかない。返すのではなく、記録なら逃げないと、誰かが言った。その言葉が本当かどうか。その答えは、これからの24時間で出る。


 その言葉を信じるために、私たちは夜を徹するのだろう。


 ただ一つ、疑問だけが残っていた。


 要求書の細部。返還対象の欄に、「書簡箱」と並んで書かれていた別の品目。「追伸帳面」。


 その名称は、誰に向かって、どこで、いつ渡されたのか。


 外部にしか知られない、その呼び方。ここで初めて、この名前を聞いたはずだ。誰が「追伸帳面」という言葉を知っているのか。誰が王宮まで、その情報を運んだのか。


 その問いだけが、廊下の光の中で、小さく光っていた。


読んでいただき、ありがとうございます。


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