第23話 鍵穴に残る気配
文書庫の扉の前で、同僚書記官が両膝を立てて鍵穴を覗き込んでいた。
「これ、見てください。フィリーネ」
朝の光が細く差し込む廊下の中で、彼の声だけがやけに低い。私は歩を進めて、その後ろに立った。
鍵穴の縁――銅で作られた、円形の枠――の下側に、粉状の痕跡が残っていた。白く、細かい粉。封蝋の欠けたものに似ていたが、量が多い。まるで、何かを無理に詰め込もうとして砕けたかのように。
「触ってみてください。――指でなぞると、感触が分かります」
私は右手の人差し指を立てて、その粉の上を静かになぞった。
ざりりとした感触。細かい粉が指先に付着した。これは――鍵穴を試行錯誤で触った者の痕跡だ。正しい鍵を挿すはずの滑らかな動きではなく、もっと迷いながら、試行錯誤し続けた痕跡。何度も何度も、違う角度から試した人の手の跡。そして失敗の記録だ。
私の息が、1瞬止まった。
「夜間の巡回記録と照合しました。2時46分から3時2分の間、誰かが鍵穴に手を加えています。記録上の巡回は3時15分から再開。――16分間の空白です」
同僚書記官が立ち上がった。彼の顔が、朝日に陰を落とした。
「鍵は開いていません。――だから怖いんです」
その言葉は、優しい言葉だったのに、私の胸を激しく冷やしてしまった。何かが侵入してくる恐怖よりも、その者の失敗を目の当たりにする恐怖が。次に来るのは、成功するツールを持った同じ者かもしれないという、淡い予感が。そして最も怖いのは――この侵入者が誰なのか、何を狙っているのか、すべてが暗いままだということだ。
文書庫の内部は、薄暗い空間だった。窓がなく、灯火も限定的で、控えの書簡は書架の最奥にある。私は廊下から1人中に入って、左奥の棚の前に立った。
控えの書簡は、発送日順に、月ごとの綴じ紐で束ねられている。6年分の全ての封蝋が、そこに在った。6年間の追伸。6年間の、私の手書きの温度。それは私が書いた最後の矜持だった。
私は指先で数えた。何度も。1回目。2回目。3回目。
1月分。2月分。3月分。4月分。――止まった。
4月の綴じ紐の側面に、小さな傷がついていた。新しい傷だ。ナイフで切られかけたような痕で、刃が引っかかり、弾いたような跡が残っていた。誰かが、この綴じ紐を切ろうとしたのだ。中の書簡を取り出そうとした。そしていったん、やめた。
「何を数えているんですか」
背後からレオンの声がした。足音もなく、彼が文書庫に入ってきていた。護衛が彼を通したらしい。
「……数を確認しています。消えていないか」
「全て残っていますか」
「はい。――けれど」
私は指先をもう1度、4月分の綴じ紐の上に置いた。その紐の側面に、刃物の跡が明確に在った。何度も擦られたのではなく、1度、強く。それからすぐに、切るのを放棄した。
「この傷は、今夜できたものではありません。3日前から4日前。紙の劣化速度と、空気酸化の色合いを考えると、その程度の経年です。封蝋の厚さの変色具合も合わせて判断すると、3日から4日」
私は指を立てたまま動かさずに、その傷を見つめていた。
「敵は――何度も来ている。複数度、ここに」
後ろでレオンが息をのむのが聞こえた。
「誰かが、中身を見ようとした。――そして、やめた」
「なぜ」
「わかりません」
答えられなかった。邪魔が入ったのか。それとも別の理由があったのか。それとも――最初から盗むつもりではなく、中身を確認するだけのつもりだったのか。それなら、誰が何の目的で。何を確認する必要があったのか。私が書き残したどの言葉が、そこまでの危険を冒してまで、確認する価値があるというのか。
「敵は複数度、ここに来ている。――ということですね」
レオンがそう言った時、私は初めて振り返った。
彼の顔が、蒼白だった。いつもの冷静な表情が、微妙に歪んでいた。彼の両手が、握られていた。
レオンが私に向き直ると、彼の目が、何度も何度も、その傷を見る。私の背後にある傷を見つめていた。
「触れられた気配だけで、胸が冷える」
私がそう呟くと、彼はゆっくり手を挙げて、書架の上を撫でた。指の側面で、ほこりを払うように。その手は、何かを確かめるような、そしてとても悔しい動きをしていた。その手は震えていた。
廊下に戻ると、私は壁に背を預けた。
「戻ってはいかがですか」
レオンが、その言葉だけをくれた。
「戻れば、静かになります。――王宮に」
私たちを狙う理由が消えてしまえば、おそらく、ここでの執拗な侵入未遂も止む。お金の代わりに、安心を買う。そういう選択肢が、確かに在った。安全は必ずしも、ここでなくてもいい。王宮に帰れば、王太子の下なら誰も手を出せないのではないか。そういう計算さえ、頭の片隅で回っていた。
「可能ですか」
「……」
返答できなかった。それが精いっぱいだった。言葉にすれば、現実になってしまう怖さがあった。
「彼女を戻さしめる命令は、私は出しません」
レオンが、とても静かに言った。その声には、硬さがあった。それは堅い決意というより、むしろ何かを必死に押さえ込もうとしている人間の、息遣いだった。
「ですが。――戻すのではなく、見守るなら」
「何を」
「この侵入者を。――出入り簿の写し、全てを要求します」
彼が廊下の奥を向いて護衛に目を向けると、すぐに人が動いた。出入り簿を取りに。これは――公式の調査だ。非公式ではなく。
「明日の夕刻までに、記録の異常を全て洗い出す。――守りの手順が間に合うのかは、それ次第です」
レオンがそう言った時、私の耳に入ったのは彼の言葉の最後ではなく、最初の部分だけだった。
「彼女を戻さしめる命令は、私は出しません」
その言葉が、何度も何度も、私の中で繰り返された。私をここに留める、その1点だけを為に。自分の立場も、国の面子も、すべてを度外視して。
その夜、私は窓を開けたまま、ずっと机に向かっていた。
追伸帳面を、もう1度、全ページ数えた。異なる筆跡がないか。切り取られた痕跡がないか。スキャンされた形跡がないか。何度も何度も、指でなぞった。
全て無かった。ただ、無いというだけで、安心できなかった。誰かが既に手を付けているなら、次はどんなツールを持って来るのか。そして、次の侵入は今夜かもしれない。明日の夜かもしれない。1週間後かもしれない。その不確実性だけが、ずっと私の胸を押し潰していた。
「定時です」
同僚書記官が鐘を鳴らした。声がとても厳しかった。それはいつもの机から無理やり引き剥がすのではなく、もっと根詰まった顔だった。彼が何を感じているのか、すぐにわかった。
「手順も定時です。手順を整える前に、次の正式な紙が来たら――間に合いますか?」
私は顔を上げた。
同僚書記官の目が、何か重いものを言い切るための、覚悟を孕んでいた。彼は警告しているのだ。敵はもう動きかけているのだと。
「――間に合う条件を、整えておきましょう」
彼がそう言った時、廊下の奥からレオンが姿を見せた。彼の手には、出入り簿の写しが握られていた。その厚さから察するに、1日分ではなく、数日分だ。
誰かが、複数日にわたって、文書庫へ足を運んでいたということだ。不規則に。隠れるように。何かを探すように。
守りの手順を整える前に、敵が次の正式な紙を持ってきたら。――その時、私たちは間に合うのか。
私とレオンは同時に、出入り簿の写しを見つめた。そこに在るはずの敵の足跡を追い詰める、ただ1つの記録を。
その問いだけが、夜明けまで、私の頭を離れなかった。
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