第21話 噂の火種は内側か
同僚書記官が卓に置いた紙は、昨日から今日にかけて聞かれた噂を整理したものだった。3か所。同じ言い回しが、同じ順で並んでいる。
「……誰が、配った?」
指先で文言を追った。「追伸帳面は私信」「特使様の近くにいる理由」「会談までの間に立場を決める」。同じ形で、同じ距離で、言葉が揃っている。自然に広がった噂なら、表現はばらつくはずだ。言葉が整いすぎている。それは作られた形だった。
同僚書記官は静かに立っていた。覚書を差し出した手が、わずかに震えている。
「噂は自然に広がります。——同じ文で揃ったら、作業です」
声は低かった。声だけは感情を伏せていた。でも揺れた手が、全部を言っていた。
「伝令詰所で確認しました。噂の文言が紙片から広がった可能性があります」
廊下を回ると、伝令詰所に足を向けていた。自分で動かなければ、安心できないということを知っていた。6年間で学んだやり方だった。
伝令詰所は朝日が当たる場所だった。机の上には、手紙の大きさを揃えるための定規が置かれている。整然とした書類の山。その片隅で、若い伝令が貼り札を付けている最中だった。
「クレスト様、おはようございます」
彼は視線を上げずに言った。
「昨夜、面会簿の更新に来た方からの伝言を、何人かに回した、と聞きました。その際、何か紙片が渡ったか、どうか」
口調を公式のものに整えた。同僚書記官は傍らに立って、息をしていない。
「……面会簿の内容が、紙で配られたのか」
伝令の頬が、わずかに強張った。
「昨夜は」と彼は慎重に言葉を選んだ。「面会簿の新しい名前について、何人かに『追加された方がいるのか』と聞かれました。で、『名前は出ていますが、まだ肩書は記入待ちです』と、答えました」
「その後は」
「その後、その言葉がどう広がったのか、私は知りません。——でも、知ってしまったのかもしれません」
見上げた視線が、机の上の紙片を指した。小さく切られた白紙に、黒い字が書かれていた。字跡は伝令のものではない。正体不明の手による追記だった。
「これ、でしょうか。昨日、誰かが机上に置いて去ったんです。返そうと思ったんですが……返す先が、分からなかった」
紙片には「帳面は私信、面会簿は隠蔽」と書かれていた。
胸が冷えた。指先の温度が下がるのを感じた。これは——噂ではない。これは「なぞらえ」だ。意図されたすり替え。
厩舎から門番詰所まで、同僚書記官と逆走した。噂の最速ルートを辿りながら。
厨房の給仕頭は「朝食時に聞きました」。洗濯場の女官は「その言葉を次の茶会で聞くつもりでした」。厩舎の馬番は「門番から聞いた」と指を立てた。
門番。ここで途切れる。
門番詰所に着くと、門番は机で記録をつけていた。その男は私を見て、すぐに立ち上がった。
「クレスト様。おはようございます」
静かな声だった。罪悪感に浸った声だった。
「昨夜、どなたに『噂』をお話しになりましたか」
「……してません。——聞かれたことは、お答えしました」
「その『答え』の形を、覚えていますか」
門番は少し考えて、小さくメモ帳を取り出した。其処に書かれていたのは、正確な言葉だった。精密な記録だった。
「噂は紙より軽いですから」と彼は言った。
「記録に残すのは、失礼だと思って」
なのに懐からそのメモを出して、静かに畳んで、また戻した。その動作を見て、呼吸が戻った。矛盾の中に、正直さを見た。
「何をお記録になりましたか」
「……話した内容を、その都度、メモに取ってます。報告書の添付用です。ただ」と彼は目を落とした。「渡す前に、誰かがそのメモを見て、更に簡潔にしたものを配ったんです。私の記録より、ずっと整った形で」
——渡す前に。
誰かが、門番の記録を見て。それを「整え」て、配った。
胸の奥が、静かに沈んだ。
同僚書記官と文書庫の前に立った時、言葉が出なくなっていた。
「触れてください」
彼は静かに言った。鍵穴の縁を。
指先をそっと当てると、粉が残っていた。鉛筆の芯のような粉。それは——守秘札の欠けた部分だった。札を無理に外そうとした痕跡。札自体は張り替えられている。新しいものが、今朝、誰かの手で貼られたばかりだ。
「開いていません」と同僚書記官は言った。
「だから怖いんです。鍵は、開いていない。でも——触れられた」
その言葉で、初めて自分の恐怖が外に出た。
「触れられた'気配'だけで、胸が冷える」
声を出すと、それが全部だった。書簡箱の中の控えが、数が合うかどうかより前に。誰かが近づいて来た、という事実だけで。心臓が止まりそうになった。
執務室に戻った時、レオン様はもう来ていた。
「内側を疑いたくない、と言いたいのですね」
公式の言葉で始まった。公用語だけの会話。
「でも外に売られる方が怖い。——ここまで来たら、どちらを選びます」
私は答えられなかった。どちらも恐ろしかった。
「守りを作ります」
レオン様は卓の書類に目を向けたまま言った。
「彼女を私信に落とせば、誰かが体面を守れる。——そういう匂いがします。だから守りを。公式な手順で」
「でも、手順を増やすほど……」
「ええ。増えます」と彼は静かに言った。「噂は。でも記録も増える。どちらが重いか」と視線が上がった。「それは後で判断する方が、いい」
その視線に、何か言いかけたのをレオン様が遮った。
「次の会談までに。——いや、それまでに」
長く、間があった。
何か言いたい言葉が、口の中を幾度も往復しているのが分かった。折り目を整える指が、その証拠だった。でも言葉は出ず、代わりに声だけが逆流した。
「『守る』と言いかけました。——言う手前で、止まりました」
小さく笑った。苦い、短い笑いだった。
「職務で塗りつぶしました。——その方が」と目が別の場所へ向いた。「その方が、あなたも安全ですから」
夜の回廊で、レオン様は護衛隊長に指示を出していた。
「出入り簿の写しを。——全部と、欠けている箇所がもし在れば、その記録を」
護衛隊長は「かしこまりました」と頭を下げた。
その報告書は、明朝までに出来上がるはずだった。欠けている箇所があるなら。誰が、いつ、どの形で侵入を試みたのか。それが輪郭を持つまで、その夜のうちに決まるはずだった。
私は廊下の角で、息をしていなかった。
「『守る』と言いかけた声を、彼は職務で塗りつぶした」
その事実が、全部だった。
守りたいのに守りと言えず。言葉が公用語に固定され。言う前に、身分と立場で押さえられる。
——それでも、ここにいる。
その選択が、最後の綱だった。
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