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【書籍化決定】「連載版」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第4章 噂は紙より軽い

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第21話 噂の火種は内側か

 同僚書記官が卓に置いた紙は、昨日から今日にかけて聞かれた噂を整理したものだった。3か所。同じ言い回しが、同じ順で並んでいる。


 「……誰が、配った?」


 指先で文言を追った。「追伸帳面は私信」「特使様の近くにいる理由」「会談までの間に立場を決める」。同じ形で、同じ距離で、言葉が揃っている。自然に広がった噂なら、表現はばらつくはずだ。言葉が整いすぎている。それは作られた形だった。



 同僚書記官は静かに立っていた。覚書を差し出した手が、わずかに震えている。


「噂は自然に広がります。——同じ文で揃ったら、作業です」


 声は低かった。声だけは感情を伏せていた。でも揺れた手が、全部を言っていた。


「伝令詰所で確認しました。噂の文言が紙片から広がった可能性があります」


 廊下を回ると、伝令詰所に足を向けていた。自分で動かなければ、安心できないということを知っていた。6年間で学んだやり方だった。



 伝令詰所は朝日が当たる場所だった。机の上には、手紙の大きさを揃えるための定規が置かれている。整然とした書類の山。その片隅で、若い伝令が貼り札を付けている最中だった。


「クレスト様、おはようございます」


 彼は視線を上げずに言った。


「昨夜、面会簿の更新に来た方からの伝言を、何人かに回した、と聞きました。その際、何か紙片が渡ったか、どうか」


 口調を公式のものに整えた。同僚書記官は傍らに立って、息をしていない。


「……面会簿の内容が、紙で配られたのか」


 伝令の頬が、わずかに強張った。


「昨夜は」と彼は慎重に言葉を選んだ。「面会簿の新しい名前について、何人かに『追加された方がいるのか』と聞かれました。で、『名前は出ていますが、まだ肩書は記入待ちです』と、答えました」


「その後は」


「その後、その言葉がどう広がったのか、私は知りません。——でも、知ってしまったのかもしれません」


 見上げた視線が、机の上の紙片を指した。小さく切られた白紙に、黒い字が書かれていた。字跡は伝令のものではない。正体不明の手による追記だった。


「これ、でしょうか。昨日、誰かが机上に置いて去ったんです。返そうと思ったんですが……返す先が、分からなかった」


 紙片には「帳面は私信、面会簿は隠蔽」と書かれていた。


 胸が冷えた。指先の温度が下がるのを感じた。これは——噂ではない。これは「なぞらえ」だ。意図されたすり替え。



 厩舎から門番詰所まで、同僚書記官と逆走した。噂の最速ルートを辿りながら。


 厨房の給仕頭は「朝食時に聞きました」。洗濯場の女官は「その言葉を次の茶会で聞くつもりでした」。厩舎の馬番は「門番から聞いた」と指を立てた。


 門番。ここで途切れる。


 門番詰所に着くと、門番は机で記録をつけていた。その男は私を見て、すぐに立ち上がった。


「クレスト様。おはようございます」


 静かな声だった。罪悪感に浸った声だった。


「昨夜、どなたに『噂』をお話しになりましたか」


「……してません。——聞かれたことは、お答えしました」


「その『答え』の形を、覚えていますか」


 門番は少し考えて、小さくメモ帳を取り出した。其処に書かれていたのは、正確な言葉だった。精密な記録だった。


「噂は紙より軽いですから」と彼は言った。


「記録に残すのは、失礼だと思って」


 なのに懐からそのメモを出して、静かに畳んで、また戻した。その動作を見て、呼吸が戻った。矛盾の中に、正直さを見た。


「何をお記録になりましたか」


「……話した内容を、その都度、メモに取ってます。報告書の添付用です。ただ」と彼は目を落とした。「渡す前に、誰かがそのメモを見て、更に簡潔にしたものを配ったんです。私の記録より、ずっと整った形で」


 ——渡す前に。


 誰かが、門番の記録を見て。それを「整え」て、配った。


 胸の奥が、静かに沈んだ。



 同僚書記官と文書庫の前に立った時、言葉が出なくなっていた。


「触れてください」


 彼は静かに言った。鍵穴の縁を。


 指先をそっと当てると、粉が残っていた。鉛筆の芯のような粉。それは——守秘札の欠けた部分だった。札を無理に外そうとした痕跡。札自体は張り替えられている。新しいものが、今朝、誰かの手で貼られたばかりだ。


「開いていません」と同僚書記官は言った。


「だから怖いんです。鍵は、開いていない。でも——触れられた」


 その言葉で、初めて自分の恐怖が外に出た。


「触れられた'気配'だけで、胸が冷える」


 声を出すと、それが全部だった。書簡箱の中の控えが、数が合うかどうかより前に。誰かが近づいて来た、という事実だけで。心臓が止まりそうになった。



 執務室に戻った時、レオン様はもう来ていた。


「内側を疑いたくない、と言いたいのですね」


 公式の言葉で始まった。公用語だけの会話。


「でも外に売られる方が怖い。——ここまで来たら、どちらを選びます」


 私は答えられなかった。どちらも恐ろしかった。


「守りを作ります」


 レオン様は卓の書類に目を向けたまま言った。


「彼女を私信に落とせば、誰かが体面を守れる。——そういう匂いがします。だから守りを。公式な手順で」


「でも、手順を増やすほど……」


「ええ。増えます」と彼は静かに言った。「噂は。でも記録も増える。どちらが重いか」と視線が上がった。「それは後で判断する方が、いい」


 その視線に、何か言いかけたのをレオン様が遮った。


「次の会談までに。——いや、それまでに」


 長く、間があった。


 何か言いたい言葉が、口の中を幾度も往復しているのが分かった。折り目を整える指が、その証拠だった。でも言葉は出ず、代わりに声だけが逆流した。


「『守る』と言いかけました。——言う手前で、止まりました」


 小さく笑った。苦い、短い笑いだった。


「職務で塗りつぶしました。——その方が」と目が別の場所へ向いた。「その方が、あなたも安全ですから」



 夜の回廊で、レオン様は護衛隊長に指示を出していた。


「出入り簿の写しを。——全部と、欠けている箇所がもし在れば、その記録を」


 護衛隊長は「かしこまりました」と頭を下げた。


 その報告書は、明朝までに出来上がるはずだった。欠けている箇所があるなら。誰が、いつ、どの形で侵入を試みたのか。それが輪郭を持つまで、その夜のうちに決まるはずだった。


 私は廊下の角で、息をしていなかった。


 「『守る』と言いかけた声を、彼は職務で塗りつぶした」


 その事実が、全部だった。


 守りたいのに守りと言えず。言葉が公用語に固定され。言う前に、身分と立場で押さえられる。


 ——それでも、ここにいる。


 その選択が、最後の綱だった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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