第20話 次の会談までに、立場を決める
昨夜の祝宴が終わったのは夜半を過ぎたころで、廊下の灯りはまだ薄かった。
翌朝、書類を抱えて執務棟へ向かう途中、角を曲がったところで声が聞こえた。
「あの帳面、やっぱり私信だったらしいですよ。使者の方から直接預かった、って」
足が止まった。
給仕が2人、廊下の端で小声を交わしていた。こちらに気づいていない。続く言葉が、耳の中で妙に鮮明になった。
「それで特使様がいつもそばにいる、ということですよね――」
私は歩調を変えず、角を曲がった。
立ち止まれば「動揺した証拠」になる。外交書簡官として、立ち止まる場所は文書の前だけだ。
昨夜の茶会で、貴族の方が笑顔で言った。「交換日記みたいね」と。あの言葉が、もうこんなにも広がっている。
24時間も経っていない。
会議室には、レオン様と同僚書記官と、上役の方が揃っていた。
私が席に着くと、上役が書類をひとつ卓上に置いた。
「次の会談は3日後です。そこまでに、フィリーネ様の顧問としての席を正式に固めなければなりません」
「……はい」
「守るなら、名を出しなさい。隠すなら、守れません」
上役の言葉は正確だった。外交の机で、あいまいな立場の人間は保護できない。私はそれを6年間かけて知っている。
――分かっている。
でも分かっていることと、受け入れられることは、まだ別の話だ。
レオン様は何も言わなかった。卓の端で書類の角を揃えながら、視線だけが静かにこちらへ向いていた。公的な場では公用語しか出さない方だ。感情を礼儀に包む方だ。それが今日は、いつもより静かに見えた。
同僚書記官が手を挙げた。
「噂対策はまず昼食です。食べないと顔色で燃えます」
沈黙が落ちた。
レオン様がぴたりと止まった。
私は書類に目を落として、唇を引き結んだ。笑いそうになってはいけない。ここは会議室だ。
「……それは別の議題ですね」
上役が静かに言い、会議が続いた。
廊下に出ると、面会簿が壁に掛かっていた。
今朝更新されたばかりの紙が、窓からの光の中で白く光っている。
フィリーネ・クレスト。顧問候補。
自分の名前がそこにある。
見た瞬間、胸が詰まった。
名前が出ることを、ずっと望んでいたはずだった。6年間、どれほど望んだか分からない。なのに今、この1行が重くなっている。
名前が出れば、噂の的になる。名前が出れば、レオン様との距離が「証拠」として読まれる。面会簿に載るということは、この侯国に公的に存在させられるということで――それは誰もが見られる場所に立つということだ。
それは「守られる」とは、少し違う形をしていた。
「……名を出すのが怖いのは」
小声でつぶやいた。
私のせいでは、ないのに。
執務室で書類を整えていると、レオン様が入ってきた。
護衛は廊下に残っている。公開面談でない限り、2人になることは少ない。今日の議事録にも、この面談の記録が載る。そういう日になっていた。
「昨夜の件について」
先に切り出したのは私だった。
レオン様の目が、わずかに細くなった。
「仕事で返します。私にできることで、顧問の席の意味を作ります」
「……フィリーネ様」
「噂は仕方ありません。でも仕事の記録なら、残せます。それが最も確かです」
レオン様は少し黙った。
卓の端に置かれた書簡の折り目を、無意識に指が整えている。何度も繰り返す動きで、私はそれをもう知っていた。言葉が遅れるときの仕草だ。外交の席では揺れない方が、ここでだけ遅れる。
「守ります」
短く、言った。
「と言うと、命令に聞こえるのは、分かっています」
私は返事をしなかった。
――「命令は、もう足りました」という言葉が、喉の手前まで来ていた。
6年間で数えきれないほどの命令を受け取った。声には出さなかったが、体の中に積み上がっている。この方の「守る」が命令とは違うと、頭では分かっている。でも形が似ていると、息が浅くなる。それは私の傷で、この方のせいではない。だから言えなかった。
レオン様は何も言わなかった。
ただ書簡の折り目を整える指が、1度だけ止まった。
夕刻、仕事を終えて窓の前に立った。
ヴァイス侯国の空は広い。この窓が好きだった。着任してから、ここに立つ時間を少しずつ取り戻していた。
――でも今日は、見られている気がした。
窓の向こうに人がいるわけではない。けれど「フィリーネ・クレストが夕方に窓の前に立っている」という事実が、どこかで言葉になるような気がした。顧問候補の翻訳官が、特使様の執務棟の窓のそばに。
昨日まで、この窓は自由だった。光が入るだけの、ただの窓だった。
今日からは、見られる場所になった。
立場が上がることは、守られることだと思っていた。面会簿に名前が載れば公式に存在を認められる。顧問の席があれば、不確かな立場ではなくなる。そう、ずっと思っていた。6年間かけて、そう信じてきた。
違った。
立場が上がるほど、噂の材料が増える。見える場所に立つほど、言葉が貼り付けられる。名前が出るほど、動きが証拠になる。
守られるために名前を出すのに、名前を出した瞬間から目に晒される。
昨夜の貴族の方が「紙は軽いのに、噂は重いのね」と言った。
私は「軽いのは紙だけです」と答えた。
正確だった。でも今は、その正確さが少し怖い。
万年筆を取り出して、軸のひびを親指でなぞった。
6年間、替えを申請するたびに予算が下りなかった万年筆だ。それでも手放せない。書くことだけが、今も確かだった。あの王宮では名前も功績も消えたけれど、書いた言葉だけは消えていない。追伸帳面の中に、控えの書簡箱の中に、ちゃんと残っている。それを誰かが今、奪おうとしているとしても。
それを信じて、今日もここにいる。
翌朝、机の上に同僚書記官がまとめた覚書が置かれていた。
昨日から今日にかけて侯国内で聞かれた噂を整理したものだった。文言を見た瞬間、指が止まった。
3か所。同じ言い回しが、同じ順で並んでいる。
自然に広がった噂なら、表現はばらつくはずだ。
言葉が整いすぎている。
「……誰が、配った?」
声は出なかった。
唇だけが動いて、問いだけが宙に残った。
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