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【書籍化決定】「連載版」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第4章 噂は紙より軽い

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第19話 追伸帳面は、どう映る

 朝、机の上に王宮の封蝋があった。


 封を切ったのは茶会に向かう1時間前だった。中身は短かった。「ご回答を求む」とだけ書かれ、差出人の署名はない。王宮の印だけが封蝋の下に押されていて、返事の形が見当たらないまま、私は紙を折り直して書類袋の底に入れた。帳面も同じ袋に押し込んで廊下に出た。手が少し冷たかった。指先でひびをなぞったが、今日は感触が遠かった。


 応接間の席順は、あらかじめ決まっていた。


 花形の菓子皿が各席に揃い、林檎の紅茶が静かに運ばれる。レオンは私の席から3つ離れた上座に着いた。護衛が壁際に2人、動線を守るように立っている。給仕が菓子の補充で動き、誰の声も低く、笑顔が室内に満ちていた。歓迎の席だ、と思った。菓子も茶葉も丁寧に選ばれている。こういう席が居心地よいとは言えないが、少なくとも悪意はない。そう判断した時点で、私は肩の力を少しだけ抜いた。


 それが間違いだった、と気づくのに、最初の菓子皿が来るほどの時間もかからなかった。


 笑顔の向こうに、目線の速度があった。給仕が菓子皿を置き、夫人が紅茶に口を付けた。その動作の隙間に、計測がある。


 正面の貴族夫人が柔らかく微笑む。左の壮年の男性が軽く首を傾ける。誰の顔も礼儀正しく、誰の言葉も丁寧だった。それでも、話しながら、全員が何かを測っていた。私の袖口のインク染みを確かめる視線。席の間隔を測る目つき。レオンが私の方を向くまでの秒数を、会話の端で数えている空気。歓迎は歓迎だった。ただしそれは同時に、観察の席だった。


 王宮でも似た目線を受けたことはある。だがあちらは「書簡官のフィリーネ」への視線だった。ここは違う。「レオン・ヴァイスの隣にいる、この女は何者か」という目線だ。肩書の前に、私そのものが値踏みの対象になっている。気合いで書類を完成させてきた6年間では、こういう測られ方をしたことがなかった。喉の奥が1度だけ、静かに固くなった。


 歓迎と値踏みは、別ものだと思っていた。しかし今この室内では、どちらも同じ顔をして同じ紅茶を注いでいる。歓迎してくれている、そのことは本当だ。だがその歓迎の裏側に、品定めが貼り付いている。どこの誰で、何者で、レオン・ヴァイスにとってどういう存在か。答え合わせをするための席に、招いてもらったのだとすれば――歓迎は最初から、観察の包み紙でしかなかった。それを最初から知っていれば、せめて肩の力を抜かずにいられた。判断を誤った分の冷えが、腹の底にじわりと残っていた。書類袋の底の王宮の封蝋が、わずかに重かった。


「あら、素敵な帳面ね」


 正面の夫人が、ふと声をかけてきた。


 書類袋の留め具が緩んでいたらしく、帳面の角が2センチほど顔を出していた。布張りで角の擦れた帳面。昨夜レオンが机の端に置いたものを、回収しようとして誤って袋に入れてしまったのだ。取り出す間もなく来てしまった。


「交換日記みたいね。羨ましいこと」


 夫人の声に、悪意はなかった。本当にただ、思ったことを言っただけの顔だった。


 それが最も的確に刺さる。


 私は帳面を袋の奥に押し戻しながら「業務用の台帳です」と答えた。声の速度は保てたと思う。


 上座からレオンが言った。


「ヴァイス侯国が管理する外交記録です。個人的な書簡の類いではありません」


 声が硬かった。公用語で正確に、ひと言の揺れもなく。正しい言い方だった。ただ、正確に否定するほど「なぜそこまで否定するのか」が空気の中に積まれた。夫人は「まあ」と言って笑い、その笑顔が1拍だけ余分に長く残った。隣の男性が微妙に視線の角度を変えた。誰も何も言わなかった。言わないことが、この場で最も重かった。


 そのとき、壁際から同僚書記官が小声で耳に来た。


「顧問。菓子皿を書類置き場にしないでください」


 気づかないうちに、書類袋の端が菓子皿の縁に乗っていた。私は袋を静かに引いた。皿の縁が磁器の音を小さく立て、隣の給仕が2歩下がった。室内の視線が、また1度だけ揃った。


 夫人がふふ、と笑って言った。


「紙は軽いのに、噂は重いのね」


 上手いひと言だ、と思った。悪意ではない。だからこそ返せない。


「……軽いのは、紙だけです」


 私が言えたのはそれだけだった。


 夫人は声を立てて笑い、座の空気が少し和らいだ。菓子の皿が回され、誰かが季節の話を始めた。私は紅茶を口に運び、カップの温度を確かめながら、万年筆のひびを親指でなぞった。触れるつもりはなかったのに、指先が先に動いていた。歓迎だ、と判断した自分の甘さが、腹の底でまだ冷めずにいた。値踏みと歓迎が同じ顔をしている場所で、私はどう振る舞えばよかったのか。紅茶の熱が喉を通っても、答えは出てこなかった。


 茶会が終わり、廊下に出ると、同僚書記官が並んで歩いた。


「うまく切り返していましたが」


「うまくは、ありませんでした」


 声に出してから気づいた。喉の奥がまだ緊張したままだった。


「帳面の角が出ていた段階で、誤解の素材は揃っています。顧問が何を言っても火種は消えない」


「分かっています」


 廊下の窓の外で、梢が揺れていた。今朝と同じ光の量なのに、重さが違う気がした。


「誤解されることが……こんなに怖いとは、思っていませんでした。ここに来る前は、もっと単純に考えていました。仕事をきちんとやれば、それで足りると」


 言ったら少し楽になるかと思ったが、そうでもなかった。同僚書記官が半歩分だけ歩調を遅らせ、正面を向いたまま言った。


「記録で返せます。時間はかかりますが、紙は残ります」


 返す言葉が見当たらなかった。それが今の私にできる最善の手順なのだとは分かっていた。ただ、手順を積み上げている間にも、噂は動く。紙の速度と噂の速度は、同じではない。同僚書記官はそれを知りながら「記録で返せます」と言う。その言葉の揺れのなさが、少しだけ羨ましかった。


 廊下の角を曲がると、上役が立っていた。茶会の締めの挨拶をしたきり立ち去らず、私たちが近づくと礼儀正しく微笑んだ。笑顔だった。穏やかな笑顔で、声もゆっくりだった。


「次の会談までに――彼女の立場を、正式に決めていただけますか」


 笑顔のまま、期限だった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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