第18話 窓のある机に、次の手は来るか
ヴァイス侯国の官舎廊下は、静かだった。
「通行札は首から外さないでください。面会記録は毎朝、こちらの台帳へ記入します」
案内の護衛が台帳を示し、私は黙って頷いた。監視と呼ぶには整然としすぎている動線が、廊下の左右に行き届いている。扉ごとに記録用の棚が据えられ、通行を妨げるためではなく守るために設計されたものだ、と1歩目で気づいた。王宮のそれとは、質が違う。圧がない。代わりに、穏やかな密度がある。
執務室の扉の前で立ち止まり、取っ手に手をかけた瞬間、呼吸が1拍だけ遅れた。
窓が、大きかった。
机の正面に、外の光が真っすぐ落ちている。
反射で目を逸らしかけて――そこで、私は止まった。
見てはいけない、と思った。
6年間、窓はいつも斜め後ろにあった。王宮の執務室では光の向きを確かめることは余分な時間だったから、いつの間にか窓に向き直ることを自分の中で禁じていた。急ぎの翻訳が積まれているうちは、外を見るのは怠惰だった。窓を見る暇があるなら1行多く訳せ。そう自分に言い聞かせ続けた。
だが、ここは違う。
止まっていいはずなのに、止まれない。体の奥がまだ走ったままで、窓を正面から見ることを「許可」として受け取れなかった。許してもらっていいのかどうか、確かめる術がない。振り向けばそこに光があるのに、足が動かなかった。
喉の奥が、小さく締まる。
息を吐いて、それでも目線は窓から逸れたままだった。
そこへ扉が内側から開いた。
「クレスト顧問。机で食べないでください」
同僚書記官が入り口に立ち、真顔でこちらを見ていた。手には空の書類挟みを持っている。
「……食べていませんが」
「今は。ですが携帯食が荷物の上に見えます。食堂は2階です。班全員で摂るのが規定です」
「まだ封も切っていません」
「開けてから言う人はいません。どうぞ」
有無を言わさない誘導で、廊下に押し出された。
2階の食堂では、班の書記官が3人、木の椅子を引いてパンを並べていた。挨拶の型は誰も教えてくれなかったが、席が詰められて空きが作られた。私はそこに座り、差し出された温かいスープを受け取った。隣の書記官が「初日は量が多いですが、慣れます」と言い、それ以上は何も聞かなかった。
窓のことを、ずっと考えていた。あの大きな窓と、逃げかけた自分の目線と。
6年分の習慣は、許可を1つもらっただけでは動かないらしかった。
だがこういうことなのかもしれない、とも思った。頑張る意志ではなく、仕組みで止まれる場所。私が気合を入れなくても、定時になれば鐘が鳴り、机に食べ物があれば食堂に連行される。倒れる前に制度が先に動く。6年間、私が自分自身に課し続けた規律とは、根本から違う種類のものだった。
空のスープ皿を見ながら、それでも少しだけ、腹の底が温かかった。
食後、執務室へ戻る廊下で、外の光が窓から長く伸びているのに気づいた。昼間の光だと、少し遅れて理解した。
午後、執務室で書類を広げていると、レオンが扉の傍らに立っていた。
「遅くなりました。……ここは、窓があります」
声が低く、静かだった。報告でも慰めでもない。ただそれを言うべきだと思って言った、という間合いだった。
「……はい」
それだけ言って、私は窓を見た。今度は逃げなかった。
午後に傾いた光が机の上に細く落ちている。空が青く、遠くに木の梢が揺れていた。それだけのことが、どうしてか喉の奥を圧した。あの窓の向こうに、明日もある。明後日も、たぶんある。それを確かめてもいい。止まっても、ここにいていい。
目が熱いのに気づいて、私は書類の束に目線を落とした。視界の端で、レオンが窓の方を1度だけ見た。
レオンが机の上に1冊の帳面を置いた。布張りで、角が擦れている。鞄から取り出す手がごく自然だったから、長く大切に扱われてきたことが分かった。革の留め具を締め直す音が、静かな室内に小さく響いた。
「追伸の管理台帳を、こちらに移します。……1文だけ、読んでもいいですか」
問いというより確認だった。私は頷く。
レオンは帳面を開き、最初のページを静かに読んだ。
「――追伸は、書いた者の手に返る」
それだけで、帳面は閉じられた。
鍵がかかるわけでも、封がされるわけでもない。ただ静かに閉じられ、机の端に置かれた。
私の指先が、万年筆のひびをそっと探した。触れた。押さえた。指の腹に馴染んだひびの感触が、今日に限って少しだけ違うものに感じた。
言葉の意味がまだ体の中で形を決めていないのに、目の奥が熱かった。
廊下で足音がした。扉の外を通り過ぎる気配が、机の方で1歩だけ遅れた。去り際に、帳面の表紙へ向いた目線が空気の中に残った気がした。私は振り向かなかった。振り向いて確かめてしまうのが怖かった。
気のせいかもしれない。
気のせいではないかもしれなかった。
夕刻、定時の鐘が鳴った瞬間、同僚書記官が灯りを消した。
「定時です。命令です」
「清書があと少し――」
「明日があります」
返す言葉が見当たらない。私は立ち上がるほかなかった。
廊下に出ると、レオンも立っていた。書類を抱えたまま押し出されたらしく、封蝋を指で弄りながら廊下の窓を眺めている。
「閣下も例外ではありません」
「……分かっています」
分かっていないような封蝋の弄り方だった。
私は少し笑った。声になったかどうか分からないくらいの笑い方だったが、レオンが1度だけこちらを見た。口元がかすかに動いたが、何も言わなかった。
執務室の灯りが消え、廊下だけが薄く明るかった。
明日もここに来ていい。
その事実がまだ信じられなくて、私は廊下に立ったまま窓の外を見た。空の端が夕色に染まり、遠くの梢が昼より濃く見えた。
翌朝、机の上に1通の書状があった。
封蝋の色を見た瞬間、手が止まった。
昨夜は何もなかった。護衛の通行記録にも、廊下の面会台帳にも、この部屋への入室は記されていない。整然とした守りの仕組みを、誰かがすり抜けた。
封を開けなくても分かった。封蝋の深い赤は、王宮でしか使わない色だった。
その書状は――確かに私の机の上にあった。
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