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「連載版」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第3章 招聘状に書けない条件

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第16話 「もう頑張れません」——続くはずの言葉

「フィリーネ・クレスト様。本日付の帰還命令です」


 使者が差し出した封書の封蝋は、まだ角がわずかに温かかった。

 急いで送り出してきたのだ、と一目で分かった。


 私は受け取らなかった。


 使者の眉がわずかに持ち上がる。背後でレオンが静かに立ち上がる気配がした。広間の壁時計だけが、変わらず時を刻んでいた。


「帰還の理由を、確認させていただいてよろしいですか」


 レオンの声は穏やかで、揺らがなかった。


「……外交案件の処理のため、と文面にはございます」


「具体的にはどの案件でしょう。クレスト嬢が対応できるか確認が必要です」


 使者は口ごもった。レオンはそれ以上追わなかった。ただ視線だけが、静かに答えを待っていた。


 私は封書を受け取り、文面を読んだ。エドワルド殿下の名で帰還を命じる、という内容だった。理由の欄には「外交案件の処理のため」と一文だけあった。残りは余白だった。


 驚かなかった。

 来るとは分かっていた。ただ、封蝋がまだ温かいのが少しおかしかった。こんなに急いで送っておいて、理由は一行しか書けなかったのか。

 6年間、この場所で書いてきた書簡の分量を思うと、余白がひどく広く見えた。


 胸の中で何かが静かに冷えた。怒りではなかった。確信だと気づいた。

 6年間、もう少し頑張れば認めてもらえると自分に言い聞かせてきた。足りないのは努力だと、ずっとそう思っていた。

 違う。足りなかったのは、私の努力ではなかった。


「少々お時間をいただいてよろしいでしょうか」


 私が口を開くと、使者が視線を向けた。


「確認したいことがございます」


 立ち上がり、部屋の端の棚から一束の紙を取り出した。6年分の申請書の控えだった。予算申請。人員補充の申請。翻訳補助具の購入申請。辞典の更新申請。そのすべてに「却下」か「保留」の朱印が押されていた。


 テーブルに、音を立てないように置いた。


「こちらが、私が6年間に提出した申請書の控えです。件数は47件。承認されたものは、ございません」


 使者が目を落とした。


「ザーレン語の暗号辞典の購入申請は、4年前に初めて提出しました。毎年申請しましたが、一度も承認されませんでした。私は余白に手書きで補足を書き足した辞典1冊で、その間の暗号書簡をすべて処理してきました。その辞典は私物です。既に持ち出しております」


 1拍置いた。


「私の後任に送られる方は、同じ環境でお仕事が可能でしょうか」


 部屋が静かになった。

 使者は申請書の束を見て、私を見て、また束を見た。視線が机の上で動かなくなった。

 言えないのだ、と分かった。言えるはずがなかった。


「……それは、上への確認が——」


「申し訳ございません」


 声が揺れた。


 揺れたのに、止めなかった。


「私は、もう頑張れません」


 声に出した途端、両手が震えた。

 押さえても止まらなかった。6年間飲み込んできた言葉が、こんなにも静かに出てきてしまった。叫ばなかった。泣いてもいなかった。ただ体の芯から力が抜けるような感覚があって、ずっと張り続けていた何かが、音もなく緩んだ。

 泣くとか怒るとかではなかった。ただ事実を並べて、そこに立っていた。それだけのことが、6年かかった。どうして6年もかかったのかは、もう考えなかった。


 使者はしばらく黙っていた。申請書の束の厚みをもう1度見てから、静かに頭を下げた。


「……御意を、上に伝えます」


 それだけ言って、退室した。


 扉が閉まった。


 私はしばらく、テーブルの上に残った申請書の束をぼんやりと見つめていた。47件分の紙の厚さが、思っていたよりずっと薄かった。6年分にしては、と思った。6年分の申請が、これだけの重さしかない。

 それが少し、可笑しかった。笑い方を忘れていると思っていたが、可笑しいとは思えるのか。そういうものらしかった。


 レオンは何も言わなかった。

 ただ、テーブルの端に目を落としていた。申請書の束の、一番上の紙の角がわずかに折れていた。彼の指先がそこをそっと撫でた。何度も手に取ったものに触れる時の、染み付いたような仕草だった。

 気づいていない顔で、ただそこだけを撫でていた。


「……よく言えました」


 低い声だった。静かで、それだけだった。


 胸の奥に刺さった。

 仕事の結果を褒められることには慣れていた。「助かりました」も「ご苦労でした」も知っていた。でも「言えた」ことを認められたのは、初めてだった。仕事の成果ではなく、言葉を出したことを、と。

 目の奥が少し熱くなった。泣かなかった。ただ何かが、少しだけ解けた気がした。


「……ありがとうございます」


 自分の声が、いつもより少し低かった。震えの名残だと思った。


 ふと気づいた。レオンの耳が、わずかに赤い。本人はそれに気づいていないようで、向こうを向いたまま静かに何かを考えていた。

 しばらく間があった。言葉を探すような静けさだった。


「——非公式には、私からも1つ、お伝えしたいことが」


 そこで扉が鳴った。


「失礼します、書記長。ヴァイス本庁より至急の書簡が届いております。暗号便のため、直接お渡ししたいと」


 レオンの言葉が、宙に止まった。

 彼は一瞬だけ私に視線を向けた。言いかけた口が、静かに閉じられるのが分かった。


「……分かった。通してくれ」


 私は申請書の束を引き出しへ戻しながら、彼が言いかけた続きを静かに頭の中で転がした。


 非公式には——。


 その先は来なかった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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