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「連載版」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第3章 招聘状に書けない条件

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第14話 署名の裏――別の筆跡は誰のもの

 昨日の続きが、朝になっても消えていなかった。

 彼が追伸を暗唱した声は、今も耳の端に貼りついている。公式招聘状の文言より先に、私が書いた言葉が出てきた。しかも1字も違えずに。それだけのことで1晩眠れなかったと言ったら嘘になる――嘘ではないけれど、認めるのが怖くて目を開けていた、というのが正確だった。


 応接間のテーブルには書簡が几帳面に重なっていた。レオンは昨日と変わらない外套のまま向かいに座っている。執事が旅塵を払おうとしたらしいが、折り目だらけの書簡だけは手から離していなかった。外套の肩についた土埃の跡が、彼がいかに急いで来たかを黙って示している。


「なぜ、分かったのですか」


 声が震えていなかったのは、問いを1晩繰り返していたからだ。驚きが擦り切れるまで撫でると、言葉だけが残る。


 レオンは答える前に、卓上の書簡をひとつ手に取った。本文のある頁と、追伸の頁を、音もなく並べて置く。


「読み比べると、はっきりします」


 視線が落ちた。同じ封に入っていた2枚だ。本文の文字は鋭く、角が流れる。追伸の字は違った。迷いながらも丁寧で、最後の1字だけが少し右上がりになっている。あれは万年筆の軸を握り直すときに出る癖だった。私だけの癖だ。


「殿下の署名は軽い。――あなたの文は、軽くない」


 1行で言われると、思ったより刺さった。


 軽くない。6年かけて書き続けた文章が。外交の場に置いてきた温度が。殿下のものとして束ねられ続けてきたものを、彼は最初から私の側に置いていた。奪われたはずのものが――まだここにあった。


 胸の中で、何かが静かに揺れた。怒りでも悲しみでもない。もっと古いものが動く感触だ。ずっと重かったのに、名前をつけていなかったもの。引き継ぎ不要と言われた日に切れたと思っていたのに、繋がったままだったもの。


 その感覚をどう扱えばいいか分からないまま、手が動いた。向かいの湯呑みを少しだけ動かしていた。茶の熱さがちょうどいい角度に来るように。気づいたのは、レオンが受け取ろうとして手が止まったからだ。


「......慣れている」


 呟きは低くて、問いの形をしていなかった。


 慣れている。そうだ、慣れている。来客の飲み物の温度を気にするのは、6年かけて体に刻まれた動作だ。もはや意思ではなく呼吸に近い何かとして。気づかずにやってしまう、というのが最も困る。


 肯定も否定もできないでいると、彼は黙って湯呑みを両手で包んだ。その手がひどく丁寧だったので、私はどこを見ればいいか分からなくなり、インク染みを袖の陰に引っ込めようとした。間に合わなかった。


 右の中指の付け根、いつも乾き切らない黒が、そこにある。


「......私の癖は、隠せませんでしたか」


「最初から隠れていませんでした」


 迷いのない答えに、少しだけ笑いたくなった。笑わなかった。笑えば崩れると分かっていたから。


 けれど彼は正しい。隠れていなかった。3年分の追伸も、文字の傾きも、万年筆の握り直しも、全部最初からそこにあった。殿下の名の下に押し込めていただけで、私の文章は、ずっと私のものだった。


 それが今さら、恐ろしかった。そして少しだけ、痛かった。痛いというのは傷ではなく、長い間閉じていた場所を開けたときの、あの感覚に近い。鍵をなくしたと思っていたのに、ずっと自分の手の中にあった、という種類の痛さだ。


「控えは......」


 レオンが言いかけて、止まった。


 続きを待ったが、来なかった。視線だけが書簡箱の方へ1瞬流れて、戻る。言い切らないまま、彼は湯呑みを置いた。控えとは、書簡の写しのことだ。私が手元に残した、あの束のことを言おうとしたのだと分かる。でも彼は言い切らなかった。それが何を意味するのかを、私はまだ整理できていない。


 控えが残っていることを、彼は知っている。それだけは分かった。問い返せなかった。それがどれほど重い事実なのか、正しく飲み込めないまま、執事が廊下の鐘を1度鳴らした。


 話が切れた。


 レオンが立つ前に、私は自分の指先を見た。インク染みが、まだある。ずっと答えを持っていた手だった、と思った。誰の名前も冠していないときでも、紙は、誰が書いたか知っていた。筆跡は正直だ。署名より、ずっと正直だ。6年間ずっと殿下の名の下に置かれていたけれど、書いたのは私だった。それは変わらない。誰にも変えられなかった。


 立ち上がったとき、レオンがこちらを向いた。「フィリー――」と、口の形が動いた。


 続かなかった。礼儀が先に出て、深く頭が下がる。


「本日は、ありがとうございました」


 その間合いは正しかった。だからこそ、言葉の端が宙に残った。


 廊下を歩きながら、頭の中でその音を繰り返した。「フィリー――」。私の名前を、彼は知っていて、飲み込んだ。正しく。丁寧に。礼儀という形で封じて。けれど形が動いていたのは、確かだった。


 帰り際、万年筆のひびに指が触れた。気づいてすぐ止めた。無意識に撫でていた。何かを確認するように。何が残っているかを測るように。昨日来た前と後で、この手は変わっていない。でも、何かの位置がずれた。それだけは分かった。


 夜、書きかけの手紙を広げた。宛名のない紙に向かって1行だけ書いて、やめた。なぜやめたのか、自分でも分からない。ただ、いつもの追伸とは違う何かを書こうとして、言葉が見つからなかっただけだ。見つからないまま、インクが乾いた。


 翌朝、執事が1通を持ってきた。


 王宮の封蝋だった。角を几帳面に揃えた、冷たい紙。開く前に手が1度止まる。それでも封を切った。


 命令書は短かった。


「外交に支障が出ております。至急ご帰還を。――本日中に、ご返答を」


 執事の声は穏やかだったが、「本日中」だけが薄い刃のようだった。


 間に合わなければ、次は命令になる。それは分かっていた。昨日の問いも、昨夜の文章も、今朝の指先も、全部「本日中」という3字の前では関係がない。紙は待たない。期限は、待ったことのある人間が書く言葉ではない。


 窓の外を、初めて見た。伯爵家の庭に、光が当たっていた。


 万年筆のひびを、また無意識に撫でていた。


読んでいただき、ありがとうございます。


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