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「連載版」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第3章 招聘状に書けない条件

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第13話 折り目のついた1通

 来客札の名前を、執事が2度読んだ。

 盆の上に置かれた紙片を私も視線だけで確かめると、知らない字が並んでいた――いや、知っている。宛先として、書簡の送り先として、ずっと知っている名だ。それでも心臓が1拍、遅れた。婚約が解消されてから3日、私はまだ伯爵家の応接間で自分の足の行き先を決めあぐねていた。王宮へ戻る気はない。でも戻らないと決めた先が、まだ霧の向こうにある。

 そこへ、ヴァイスという名が来た。


「ヴァイス侯国外交特使、レオン・ヴァイス様です。ご面会のご要望をいただいております」


「……通してください」


 自分の声が低かった。


 扉が開いた瞬間、廊下の空気が変わった。

 黒髪の男が入ってくる。背が高い。旅塵が外套の裾に残っていて、執事の視線がとっさに絨毯の方へ落ちた。男はその視線に気づいたらしく、入り口で立ち止まり、外套を静かに脱いで自分の腕に折りたたんだ。動作が丁寧すぎた。受け取るべきか判断を迷った執事が半拍だけ止まり、男が1歩進んで外套を差し出すと今度は受け取る手が早すぎて、結果として部屋全体の空気が石になった。

 私は立ったまま、その男を見ていた。


「フィリーネ・クレスト様ですね」


 声が柔らかかった。顔は冷たいのに、笑い方だけが違う。口角が微かに緩んで、それだけで心拍がまた狂った。


「レオン・ヴァイスと申します。お忙しい中、お時間をいただき感謝します」


 深い礼だった。執事がようやく外套を受け取りに動いた。土埃が少しだけ宙に散り、執事が静止した顔でそれを見届けた。誰も何も言わなかった。


 促されるままに向かいに座り、男が鞄を机の上に置くのを待った。黒い革の鞄で、角が擦れている。口が少し緩んでいて――その隙間から、帳面の角がほんの刹那、見えた。気のせいかもしれない。でも目が離せなかった。

 男は鞄から書状を取り出した。


 折り目が多かった。

 封を切る前から分かるくらい、紙が柔らかくなっていた。折り畳まれ、広げられ、また折られた紙の癖。封蝋の縁に小さな欠けがあって、封をした後にも何度か手に取られた痕跡がある。受け取る前に、指先でその柔らかさを確かめてしまった。書簡の紙がこういう状態になるのは、よく知っている。大切にしているからではなく、繰り返し読んでいるからだ。


「正式な招聘状です。ヴァイス侯国外交顧問として、お迎えしたい」


 文面を読んだ。条件の枠、日程の余白、功績の記録に関するひとつの文。王宮への帰還を前提としない言葉が、1行ごとに丁寧に組まれていた。しかも条文に続く欄には、担当者の名を記録する空白があった。誰かの名義にするためではなく、書いた人間の名として残すための欄だ。


「……」


 声が出なかった。


 お茶が運ばれた。私は反射で向かい側の湯気を確かめてしまって、少し後悔した。6年分の癖というのは、こういうところから滲み出る。


 男はお茶を受け取り、ひと口飲んで、それから静止した。


「追伸を、覚えております」


 声の質が変わった。


「3年前の冬、暗号処理が詰まっていた時期の1通です。解けないものは解けないのではなく、鍵が届いていないだけですというこの文を、私はずいぶん長く使いました」


 指先が止まった。万年筆を持っていたわけでもないのに、止まった。

 追伸は、誰にも届かない場所に書いていた。署名は殿下の名で、余白はただの余白で、誰が読むとも思っていなかった。規則に反していると分かっていたから、毎回書くたびに少しだけ怖かった。それでも書いた。そうしないと、言葉が自分の中で腐ると思っていたから。読まれないと知っていたから、書けた言葉だった。


「誰も、追伸の価値を口にしませんでしたから」


 男の顔に表情はなかった。でも声は確かに、何かを抑えていた。


「私だけが、3年分読んでいた」


 喉の奥が熱くなった。感謝でも混乱でもない、もっと別の何かだった。読まれていた、という事実が今更になって体の中心に届いてくる。読まれないと思っていた言葉が、3年分、誰かの手元に積み重なっていた。あの折り目の数だけ、読み返した時間がある。

 追伸を書くたびに消えていった何かが、今この瞬間、返ってきた気がした。


 鼻の奥が痛くなって、私はそれを横に置いた。横に置く練習は6年でできている。


「……その折り目は」


 声が出た。自分でも驚いた。


「折り目は……返事の代わりでしたか」


 男がわずかに息を止めた。ほんの刹那だけ、本当に刹那だけ、冷静な顔の裏側が透けた気がした。すぐに表情が戻った。でも耳の色が、窓からの光とは関係なく、少し変わっていた。

 初対面だと思っていた。礼儀の距離で向き合うべき他人だと。でも追伸を3年分読んでいた人間と、私は文章の上でとっくに会っていた。最初から近かった。その怖さが、急に胸のあたりに下りてきた。


「初めまして、と言うのは——遅すぎます」


 低い声だった。


 それから男は小さく咳払いをして、招聘状の続きを見せた。条件について確認したいことが2点ある、と言って紙を机に広げた。指先が折り目の上を無意識になぞっていた。整えるように、確かめるように。本人は気づいていないようだった。


「非公式には——」


 そこで止まった。

 続きが来なかった。深い礼が、言葉の代わりに落ちた。


「……まずご検討を。ご返答は明日以降で構いません」


 礼儀が、蓋をした。


 男が去った後、応接間にしばらく1人でいた。

 折り目だらけの招聘状を膝の上に置いたまま、紙の柔らかさを指先でなぞっていた。何度も折られた跡は、触れれば触れるほど「読まれた時間」に見えてくる。1度や2度ではない。何10回も。

 誰かが私の言葉を、3年間、そうやって扱っていた。


 万年筆のひびを撫でる癖が出ていた。気づいてやめた。


 鞄の隙間から覗いた帳面の角が、頭の端に引っかかっていた。開かれなかった。尋ねもしなかった。聞いてよかったのかどうか、今でも分からない。

 ただ、折り目だらけの紙を持ったまま、私はしばらく動けなかった。


 翌朝、執事が短い言葉を持ってきた。


「特使殿より確認がございます——昨日の書状について、署名と本文で、筆致が異なるとのことで」


 心臓が止まった。

 追伸だけではなかった。本文の筆致まで、見抜いていた。

 あの折り目の深さが、何を意味するのかを、私はまだ全部は理解していなかった。

読んでいただき、ありがとうございます。


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