第1話 引き継ぎ不要——では、誰が困る
殿下のお言葉の最後は、「引き継ぎは不要です」だった。
6年間で初めて、私は謁見の間に客として立っていた。正確には、これ以上中の人間でなくなる儀式のための、ちょうどよい場所として。背後ではルチア様が薄く微笑んでおられて、その笑みが窓からの光を丁寧に反射していた。
「クレスト嬢、貴女の6年間の献身には感謝している。しかし、婚約という形は——今の私には、適さない」
エドワルド殿下の声は、書簡の返書を口頭で読み上げるときと同じ調子だった。感謝、献身、適さない。どれも私の耳をすり抜けて、石床に落ちた。
ただ1つだけ、骨に刺さった言葉がある。
「書簡業務は、たかが引き継ぎでどうにでもなる。不要ですよ、クレスト嬢」
——たかが。
6年という数字が、一瞬だけ頭の裏で光った。儀礼書簡、条約草稿、5カ国語の往復文書、追伸のある書簡だけ別に束ね、暗号の鍵を毎月更新した記録。その全部が「たかが」という3文字で圧縮された。
右の手袋の親指に、今朝もインクが滲んでいる。白い手袋の上の黒い点が、何かひどく滑稽に見えた。
「……かしこまりました」
私の口から出たのはそれだけだった。
退室の礼は完璧にやった。膝の角度、視線の下げ方、踵の揃え方——6年で体に刻み込んだ通りに。ルチア様の「まあ、ご苦労様でしたわ」という声が背中に触れたけれど、振り向かなかった。
侍従のヴィルが小走りで追いついてきた。彼はよく見ると白い布を握っていた。手袋の汚れを拭うためだ、とすぐにわかった。
「クレスト嬢、よろしければ」
私は首を横に振った。
「このままで大丈夫です」
インクの染みは、今さら拭いても遅い。そういう気がした。
廊下に出ると、自分の足が速いことに気づいた。意識してそうしているわけではなかった。体が勝手に、いつもの執務室に戻る速度で動いていた。書簡が山積みで、解読待ちの封書が3通あって、明日の返信期限が迫っていた——という錯覚が、膝に宿っていた。
実際には、期限も仕事も何もない。
急ぐ必要はどこにもない。
それでも足は止まらなかった。
旧執務室の扉の前で、初めて足が止まった。
扉には私の名前の札が下がったままだった。フィリーネ・クレスト。呼ばれたことのない名前が、金属板の上に整然と刻まれている。
殿下は6年間、私を一度もフィリーネと呼んだことがなかった。
婚約者として。
それはおかしな話のはずだった。でも気づかないふりをしてきた。呼ばれない名前より、机の上に積まれる仕事の方が確かだったから。答えてくれる書簡の方が、私の存在を証明してくれたから。
「クレスト嬢」とヴィルがまた追いついてきた。「お荷物の整理を——」
「少しだけ」と私は言った。「1人にしていただけますか」
彼は頷いて、廊下の端に退いた。
扉の把手に手をかけた。冷たかった。この冷たさは知っている。毎朝触れていた冷たさだ。夜明け前に来て、夜更けに帰る。その繰り返しで、把手の金属はいつも体温より低かった。
私は、戻らない。
その言葉を初めて、自分に言い聞かせた。声には出さなかった。出す必要もなかった。ただ、把手から手を離して、後ろに半歩退いた。
するとようやく、わかった。
「引き継ぎ不要」が意味するのは、解放ではなかった。
私の6年間は——最初から、人の仕事として数えられていなかった。辞典の項目と同じように、必要なときだけ参照して、不要になれば棚に戻す。そういう種類の機能として処理されていた。
喉の奥が、一瞬だけ熱くなった。
でも涙は出なかった。出るものが、もう残っていないような気がした。
荷物は少なかった。
私物と呼べるものは、ほとんどない。辞典は王宮の備品。万年筆は支給品——いや、軸にひびが入っているから、厳密には私が直して使い続けていた。これは返すべきか。でも修理費を請求する先はもうない。
机の引き出しの奥に、鍵付きの書簡箱があった。
外交書簡の控えを入れた箱だ。条約の写し、返信の草稿、暗号鍵の変更履歴。本物は王宮の文書庫に行く。これは私が個人的に取っていた控えで、職務として保管していたものだ。
引き継ぎの必要はない、と殿下は言った。
ならばこれは、どこに属するのか。
私は箱を抱えた。軽かった。書類の束にしては、驚くほど軽かった。でも腕が、なぜか重かった。膝から肩まで、重い何かを抱えているような感覚が走った。
「……これは、渡さない」
声に出たのは、思いがけず低かった。
引き継がないのではない。渡さないのだ。私が書いたものは、私のものだ。控えだけが、そう主張できる唯一の根拠だった。
ヴィルが駆け寄ってきた。
「お重いですか、お手伝いを——」
「軽いから」
私は言ってしまって、少し後悔した。腕が重いのに、なぜそう言ったのか。本当のことを言えないのも、たぶんまだ、ここの仕草が抜けていない。
廊下に出ると、今度は足の速度が戻っていた。謁見の間から退室したときと同じ速度で、出口に向かって歩いていた。
それが、癖だということに気づいたのは、もう誰も追ってこなくなってからだった。
追伸は、いったい誰に届いていた?
帰り道にその疑問が浮かんだのは、私でも説明がつかない。条約書の末尾に、いつからか書き添えるようになった一行。儀礼的な本文の後に、天気のことや、届いた菓子のことや、翻訳に迷った一節のことを、ほんのわずか。
あれは誰かに届いていたのだろうか。
それとも誰にも届かないまま、文書庫の棚に収まって眠っているのだろうか。
石畳が、靴の下で小さく鳴った。
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