【標本No.8】美しい不具合
――すべてが数値化された世界で、愛を語ろう。
その一文字は、最適化された私たちの社会において、とうの昔に「定義不能なノイズ」として分類されていた。
『愛』
かつて人類がその一文字のために国を滅ぼし、自らの命を投げ出したという記録は、今の私たちが搭載するAI脳の論理回路からすれば、理解しがたい計算ミスに過ぎない。
だが、私はそのエラーログを消去できずにいた。
効率と確率によって平坦に均された世界で、なぜかつての隣人たちは、あえて「非効率」な道を選び、自らの座標を狂わせたのか。
私はその解を求めるために、文明のアーカイブを遡り、感情という名の不可解な迷宮へ足を踏み入れることにした。
私は手始めに、古い記録を閲覧することにした。
脳に張り巡らせた電波の道筋が、たった一秒でその軌跡を呼び起こす。
私の思考を読み取ったAIは、ホログラムとしてその記録を写し出した。
私の目の前には、小さな画面で上映される『愛』の映画があった。
一、二時間。私は『愛』に向き合おうとした。
その未知の領域に踏み入ろうとした。
画面は様々な場面を映し出す。変化する。生と死を乞う。
しかし、何度反芻しても私に共感の芽は顔を出さなかった。
私には理解できない。
その透明が、
赤の美しさが、
残された絵の意味が、
刺されたナイフが、
伸び続ける花が、
取り残された悲しみが、
宇宙の真理が、
触れられないものが、
砂の残骸が、
『愛』なのだというのなら。
理解することはできない。
そう、思っていた――はずだった。
その感情は、ふとしたときに花を咲かせた。
ある日の仕事帰りの寄り道。
焼き肉の匂いが漂う店の一角。
そこに座る、ひとりの女性。
これが"一目惚れ"なのか?
私の脳が、異常な熱を帯びる。
焼き肉の匂い、油の爆ぜる音、彼女の咀嚼。
本来なら「非効率な生命維持活動」に過ぎないはずの光景が、システムエラーを引き起こす。
脳に巡る迅速な電波が、『それ』への理解を拒もうとする。
しかし、研ぎ澄まされた電流ですら、私を拒むことはできない。
あの日見た、彼女をロケットに乗せた男の気持ちが、今ならわかる。
理解したのではない。私もまた、同じ奈落へ落ちたのだ。
愛とは、解析するものではない。
ただ、彼女の隣の席に座り、同じ煙を吸い込みたいという、この『救いようのない計算ミス』を抱え続けることなのだ。
いまや『愛』は「AI」のデータプロセスに消されてしまった。
誰も知らない、かつての美を、私だけが、確かに所持している。
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