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世界の終わりは、私の終わり――公爵令嬢は愛する人のために嘘をつく

作者: 天音 楓
掲載日:2026/01/29

 公爵令嬢である私、リアナ・エル・ベルシュタインにとって、世界は「数字」で構成されていた。


 物心ついた時から、他人の頭上にはその人の余命の日数を示す数字が浮かんで見える。

 最初は誰にでも見えるものだと思っていた。


 けれど五歳の誕生日、使用人の一人が突然倒れて亡くなったとき、私は気づいてしまったのだ。


 彼女の頭上に浮かんでいた『1』という数字を、他の誰も見ていなかったことに。


 それから私は、この力を誰にも話さないと決めた。


 公爵家の令嬢が、人の死を予見できるなどと知られれば、政治の道具にされるか、あるいは魔女として恐れられるか。


 どちらにせよ、幸せな未来は訪れない。


 だから私は完璧な令嬢を演じ続けた。 


 笑顔の裏で人々の数字を数え、死期の近い者には密かに優しく接し、長寿の者には心を許した。


 感情を押し殺し、父である公爵の期待に応えるため、息を潜めるように生きていた。


 そんな私の前に、彼はいつも光を連れて現れた。


 カイル・フォン・アドラー。


 帝国騎士を多く輩出する名門アドラー家の長男であり、私の唯一の幼馴染。私たちの関係を一言で表すなら、それは「光と影」だった。


 初めて彼と出会ったのは、私が七歳の時。


 公爵家の庭園で一人、薔薇の手入れをしていた私に、彼は屈託のない笑顔で話しかけてきた。


「やあ、君が噂のリアナ嬢だね。僕はカイル。これからよろしく」


 その時、私は彼の頭上に浮かぶ数字を見て、思わず息を呑んだ。


『30000』


 80年以上。この時代において、驚異的なまでに長い数字。しかもその数字は、まるで朝日のように澄み切っていて、一点の曇りもなかった。


「どうしたの? 顔が赤いよ」


「な、何でもないわ」


私は慌てて顔を背けた。けれど心の奥底では、確かに感じていたのだ。この人は特別だと。この人となら、私も少しだけ、本当の自分でいられるかもしれないと。


それから十年以上の月日が流れた。


カイルは期待通りに成長し、騎士学校では常に首席を保ち続けた。剣の腕前は同期の中でも群を抜いており、その誠実な人柄から、教官からも仲間からも深く信頼されていた。


 一方の私は、公爵家の次期当主候補として、政治、経済、外交、魔法理論に至るまで、あらゆる学問を叩き込まれていた。父は厳格で、少しでも不出来があれば容赦なく叱責した。


 母は優しかったが、それでも「公爵家の娘として恥ずかしくないように」という言葉を、まるで呪文のように繰り返した。


「リアナ、またそんな顔をして。公爵閣下に叱られたのかい?」


 辛い日々の中で、カイルだけが私の心の拠り所だった。


 彼は訓練の合間を縫って公爵家を訪れ、疲れ切った私を見つけては、そっと声をかけてくれた。


「……カイル。騎士団の訓練はいいの? 伯爵閣下に怒られるわよ」


「いいんだ。君が泣きそうな顔をしているのを放っておくよりは、剣を百回振る方がずっと楽だからね」


 彼はそう言って、騎士見習いの硬い手で私の頭を撫でる。その温もりが、どれほど私を救ってくれたことか。


 カイルはいつだってそうだった。


 私が風邪を引いて寝込めば、庭に咲く一番綺麗な薔薇を盗んで部屋の窓から投げ入れ、私が高慢な令嬢たちに嫌味を言われれば、騎士の礼節を持って鮮やかに彼女たちを黙らせた。


 私が父の叱責に耐えかねて庭園で泣いていれば、何も言わずに隣に座って、私の涙が枯れるまで付き添ってくれた。


 そして彼が二十三歳になった春、騎士学校を首席で卒業し、近衛騎士団への入団が決まった。


 その夜、私たちは公爵家の庭園にある樹齢数百年の大樹の下にいた。


「リアナ」


 月明かりの中、カイルは真剣な表情で私の手を取った。


「僕が守りたいのは、この国だけじゃない。……君もだ」


 月光に照らされた彼の青い瞳が、真摯に私を射抜く。


「アドラーの名に懸けて誓う。君の人生から、あらゆる不安と悲しみを僕が追い払ってみせる。だから、僕と結婚してくれないか」


 その時、彼の頭上に浮かぶ『25000』の数字が、一瞬だけ黄金色に輝いた気がした。


 この人は死なない。この人は折れない。


 この完璧な数字が、私たちの未来が永遠に続くことを証明している。


「……はい。喜んで」


 私は涙を流しながら頷いた。


 生まれて初めて、心の底から幸せだと思えた瞬間だった。


 カイル・フォン・アドラーという、この世で最も強くて優しい『68年』の時間を、私が独占できる。そう信じて疑わなかった。


 それから一年後、私たちの結婚式が執り行われることになった。


 ベルシュタイン公爵家とアドラー伯爵家の婚姻。


 それは帝国における光と光の結合であり、王都中が祝福のムードに包まれていた。


 結婚式を三日後に控えたその日も、街は華やいでいた。


 商店には私たちの婚姻を祝う飾り付けが施され、人々は幸せそうに微笑んでいた。


「リアナ、ドレスの仮縫いは終わったかい?」


 執務室に顔を出したカイルは、公務の合間だというのに疲れ一つ見せず、私に極上の微笑みを向けた。


 近衛騎士の制服が、引き締まった彼の身体によく映えている。


 私は彼を迎えようと椅子から立ち上がり、そして。


「……え?」


 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


 視界が、ぐにゃりと歪む。


 カイルの頭上に浮かんでいた、愛しい『25000』という五桁の数字。


 それが、まるで古い映画のフィルムが焼き切れるように激しく明滅し、次の瞬間には、無慈悲なほどに短い一桁に書き換わっていた。


『3』


 頭を殴られたような衝撃に、私はその場に立ち尽くした。


 見間違いだと思い、何度も瞬きをする。


 けれど、カイルが私に歩み寄る一歩ごとに、その無機質な『3』という数字は、現実味を持ってそこに存在し続けていた。


「リアナ? 顔色が悪い。どこか具合でも――」


「触らないで!」


 伸ばされた彼の温かい手を、私は全力で振り払った。


 カイルの瞳が、驚きに大きく見開かれる。


 私の指先は、氷のように冷たくなっていた。


 どうして? なんで? 昨日までは、あんなに長い数字があったのに。


 だが、私は知っていた。数字は時として、残酷な変化を見せることを。


 九歳の時、私は庭の木から落ちて怪我をした一羽の小鳥を拾った。


 その頭上には『2000』という長い数字。私はその子が元気になって空へ帰る日を夢見て、毎日欠かさず世話を焼いた。


 けれど、ある冬の冷え込む夜。「もっと温めてあげれば、明日には飛べるようになるわ」と、良かれと思って私が鳥籠を暖炉のすぐ傍へ移動させた、その瞬間。


 小鳥の頭上の数字が、狂ったように点滅し、一気に『0』へと転落したのだ。


 驚いて籠を開けた時には、もう遅かった。急激な熱気に当てられたのか、小鳥は私の手のひらで、たった一度だけ羽を震わせて動かなくなった。


「私が良かれと思ってした『愛』が、この子の命を奪った」


 その恐怖は、私の心に深く根を張った。


 数字は絶対だ。そして私の「選択」一つで、その絶対は最悪の形で書き換わってしまう。


 だからこそ、カイルの『25000』が『3』に変わった瞬間、私の脳裏にはあの夜の冷たくなった小鳥の感触が鮮明に蘇った。

 

「リアナ、どうしたんだ。僕が何か気に障ることを……」


「来ないでと言ったでしょう!」


 彼が近づくたびに、彼の命が削られていくような錯覚に陥る。


 私がカイルの愛に応え、そばにいたいと願ったから。


 私の「良かれ」という幸福な選択が、彼の余命を握りつぶしてしまったのではないか。


 私が彼を愛せば愛するほど、私は彼の死を早める毒になる。


 そう思うと、彼に触れることさえ恐ろしかった。


 彼の温もりは、もうすぐ消えてしまう灯火のように感じられて、私はその火を吹き消さないために、彼を突き放すしかなかったのだ。


 恐怖が、愛情を追い越した。彼を死なせたくない。例え、私を一生恨むことになっても。


「……気が変わったわ、カイル・フォン・アドラー」


 私は震える唇を必死に噛み締め、鉄の味がする口内で、人生で一番醜い嘘を紡ぎ出した。


「私、あなたとの結婚を破棄するわ。……だって、もう飽きてしまったのですもの。あなたのその、騎士然とした退屈な優しさに」


「えっ……」


 言葉が詰まるカイルの頬を、私は思い切り平手で打った。彼の驚愕の表情を見ないよう、私は振り返らず、執務室を飛び出した。


 式場の準備が進む廊下を走り、馬車に飛び乗り、公爵家の屋敷へと戻った。


 けれど家には誰もいなかった。


 そうだ、両親は私の結婚を待ちに待っていて、今頃は式場の最終確認に向かっているのだろう。


 私は自室に駆け込むと、ベッドに倒れ込んだ。


 何が起きたのか、何をしてしまったのか、理解が追いつかなかった。


 ただ、力のない私がカイルを救いたい一心で動いた結果が、これだった。


 涙も枯れ果てた頃、私は深い眠りに落ちた。


「リアナ、リアナ!」


 母の声が聞こえる。夢の中だろうか。いや、違う。これは現実だ。


「うっ……あ、お母様」


 パチン。

 頬に鋭い痛みが走った。母に叩かれたのだ。生まれて初めてのことだった。


「あなた、婚約破棄なんて……何をしているの! カイル様があんなにお優しい方なのに、どうして!」


「それは……」


 言えるわけがなかった。彼の数字が『3』になったなんて。三日後に彼が死ぬなんて。


「頭を冷やしてきなさい!」


「はい……」


 私は朦朧とした頭で屋敷を出た。夜の王都の街を、当てもなく歩く。冷たい風が頬を刺すが、それでも頭の中は混乱したままだった。


 ふと、前を歩く老人の頭上を見た。そこには『3』の数字が浮かんでいた。


 あの人も……?


 嫌な予感が胸を駆け巡る。もしかして、カイルだけじゃない? いや、そんなはずは。私は慌てて周囲の人々を見回した。


 通りすがりの商人。『3』。

 花屋の店主。『3』。

 馬車を操る御者。『3』。

 そして、偶然通りかかった母の姿が見えた。その頭上にも、無慈悲な『3』の数字が。


 街は、地獄の予兆に満ちていた。


「嘘、でしょう……?」


 視界に入るすべての頭上に、無機質な『3』が並んでいる。

 すれ違う幼い子供も、仲睦まじい老夫婦も、誇らしげに荷を運ぶ商人も。

 誰もが三日後には事切れる。


 そのあまりの異常さに、私は膝の震えを止められなかった。


 周囲の人々が「リアナ様、どうなされたのですか」と困惑の声を上げるが、その彼らの顔も見られない。


 だって、彼らの顔を見るたびに、その頭上の『3』が、死神の鎌のように私を追い詰めるのだ。


 誰の顔も見たくない。数字を見たくない。私は自分の瞳を抉り出したい衝動に駆られながら、自室の暗闇へと逃げ込んだ。


 そのまま部屋に引きこもり二日が過ぎた。


 扉の向こうから、両親が何度も声をかけてきたが、私は一度も返事をしなかった。


 食事も喉を通らず、水を少し口にするのが精一杯だった。


 日に日に体が重くなり、頭がぼんやりとして、思考がまとまらない。


 これは、外に出ていないせいだろうか。


「リアナ!カイル様が来てくれたわよ!」


 母の声が響いた。


 あぁ、カイル。私の愛するカイル。


 会いたい。でも、会えない。彼の『1』の数字を見るのが怖い。


 それでも、体が勝手に動いた。まるで引き寄せられるように、ふらふらとドアを開け、階段を降りる。


「リアナ……!」


 応接室で待っていたカイルが、私の姿を見て駆け寄ってきた。


 彼の頭上には、予想通り『1』の数字が浮かんでいた。明日。明日、彼は死ぬ。


「リアナ、顔色が悪いぞ」


 カイルの声が、遠くから聞こえる。視界がぼやけて、彼の顔がよく見えない。


「お義母様。すぐに医者を。リアナの顔色がおかしい」


 カイルの腕に支えられながら、私はそのまま意識を失った。


 深い闇の底で、私は夢を見ていた。それは、明日、挙げるはずだった結婚式の光景。


 純白のドレスを纏った私の手を取り、カイルが誓いのキスをする。神父の前で永遠を誓い、列席した両親が涙を流して喜んでいる。


「リアナ、愛しているよ。今日からずっと一緒だ」


 カイルの頭上には、あの大好きな彼の数字が輝いている。


 ああ、これだけでよかった。


 私は、この『数字』が示す未来だけを信じて生きたかった。


 けれど、私は知っている。もうすぐ、これが『0』になってしまうことを。



 どれくらい眠っていたのだろう。


 無理やり光を抉じ開けるように目を覚ますと、そこは自分の寝室だった。


「リ、リアナ!……意識が戻ったか!?」


 視界に飛び込んできたのは、ボロボロになったカイルだった。


 近衛騎士の制服は泥と血で汚れ、あの綺麗な金髪は乱れ、目の下には深い隈ができている。


 まるで何日も眠らずに戦い続けたような、壮絶な姿。


「何が、あったのです……? 私、式場を去って、それから……」


「リアナ、君は極めて稀な病にかかっていて、意識を失っていて……それから一週間、ずっと……」


 一週間?


 私は混乱する。カイルの数字は『3』だった。式当日に彼は死ぬはずだったのに、なぜ今、私の手を握っているの?


 視界がにじみ、カイルの姿がぼやけていく。


 私の頬を伝う涙を、彼は汚れのついた指先で、壊れ物を扱うように優しく拭った。


「えっ……カイル、あなたの……その、頭の上の数字が……」


「数字?なんのことだ?」


 彼は不思議そうに小首を傾げた。


 その動作一つでさえ、今の私には愛おしくてたまらない。


彼の頭上に輝く『24491』。


 一週間前、絶望の淵で見つめたあの無慈悲な『3』や『1』は、どこにもなかった。


「……ううん、なんでもないわ。少し疲れてるのかも。

 それよりもカイル、そのお姿……。騎士の誇りである制服が、そんなに泥と血に汚れて……」


「こんなもの、君の命に比べれば安いものだよ。君が倒れたあの日、医者は首を振った。原因不明の、魂が枯れていく奇病だと。……だから僕は、古文書にある『命薬草』を探しに行ったんだ」


「命薬草……?あの、死の泥沼まで1日で行ったのですか……? 2人に1人が死んでしまうと言われている、あの場所に」


 カイルはただ、穏やかに微笑んだ。


「君を一人残して、僕が死ねるわけがないだろう?

 できることならなんでもするさ」


 その言葉を聞いた瞬間、私はすべてを悟った。


 私がこれまで見ていた「数字」の真実。


 使用人が亡くなった時の『0』も、愛犬が旅立った時の『0』も、間違いではなかった。


 けれど、あの日、世界中の人々が『3』になったのは、世界が滅びるからではなかったのだ。


 私自身の命の灯火が、あと三日で消えようとしていたから。


 あの『3』や『1』は、カイルたちの余命ではない。


 私が、彼らと触れ合い、言葉を交わすことができる残りの時間。


 私が死ねば、私にとってのこの世界は終わる。

 だから、私の目に映るすべての人の数字は、私自身の終焉へと同期していたのだ。


 カイルは、自分の命を懸けて、私の「終わるはずだった時間」を奪い返してくれた。運命の天秤を、その腕の力だけで強引に押し戻してくれたのだ。


「ああ……カイル、カイル……!」


 私は彼の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。


 カイルを救うために彼を傷つけ、遠ざけた私を、彼は決して諦めなかった。


「ねぇ、カイル……。私、あなたに酷いことを言ったわ。飽きたなんて、嘘なの。世界で一番、あなたを愛しているの」


「知っているよ。君の嘘は、昔から下手だったからね」


 彼は大きな手で私を包み込み、耳元で愛を囁いた。


「もう一度、誓わせてくれ、リアナ。僕が守りたかったのは、やはり……君だ」


 彼に抱きしめられながら、私は再びその数字を見上げた。


『24491』


 それは、これから私たちが共に歩む、六十七年あまりの月日。


 一分一秒、彼が命を懸けて繋ぎ止めてくれた、輝かしい「私たちの時間」。


「うん、私も愛しているわ、カイル。……もう二度と、その手を離さないですわ」


 窓から差し込む朝日は、かつて見たどの光よりも眩しく、私たちの未来を祝福するように降り注いでいた。


 数字に支配されていた私の世界は、今、ようやく愛という名の永遠に書き換えられたのだ。


「少し休んだら、婚約破棄したことの暴動を鎮めるところからだな」


 カイルが茶目っ気たっぷりに笑う。その瞳には、未来を憂う陰りなど微塵もなかった。


「はい!喜んでどこまでもお供させていただきますわ」

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