9話 地下牢にて
暗く湿った地下に、足音が響く。空っぽの鉄格子をいくつか素通りして、ジークは人の気配がする方へと向かった。
「あ、やっぱりここにいらっしゃったんですね」
ローゼンブルク家の地下牢の一番奥から、さらに入り込んだ先。一層暗いそこに、彼の主であるキースは立っていた。
「ああ、ジークか」
「吐きました? そいつ」
「いいや」
そいつ、とジークが示したのはキースの前にぐったりとうなだれている男。髭は伸びきって身なりは汚く、しかし眼の光は消えていなかった。
「団長に見せたらいいじゃないですか」
「……アイツは嫌いだろう、そういうの」
「まあそうですけど……」
数日前に捕らえられたこの男は、キースの婚約者であるリディアを狙った犯人だった。
リディアが狙撃された後、ローゼンブルク家の騎士たちは総力をあげて犯人を探した。その前の襲撃のときはいなかった隊も戻り、国の中でも随一の力を持つ彼らによって、その日のうちに捕らえられたのがこの男だ。
団長であるエドの短剣に残った魔力の解析から、それを撃ったのが確実にそいつであるということは判明しているが、動機が不明だった。ローゼンブルク家とも、アークェット家とも繋がりがない。それに加え、その風貌と魔力の強さ。どこかに雇われた傭兵であるということに疑いの余地は無かった。
何人かが代わる代わる口を割らせようとした。しかし誰も成功せず、ついにキースが自ら出てくる事態となった。
しかしそれでも口を割らない。ずいぶんと往生際の悪いやつだ、とジークは冷たい目でうなだれている男を見た。
「それで、何の用だ」
「いえ、ただ報告に」
立て続けに起こった2度の襲撃事件以来、それまでよりもっと頻繁に、1日の報告が義務付けられることになっていた。おかげでジークのただでさえ多い業務量はさらに膨らんでいたが、それはキースも同じだったので文句は言わなかった。
「こちら、結婚式の警備プランです。まだ完全ではないのですが、一度ご確認いただけますか?」
ジークはキースに紙を手渡す。地下の湿気で少ししんなりとハリを失ったそれは、今日リディアと話しながら書き込んだものだった。キースは少し待ってくれとジークを制すと、後ろに鎖で繋がれている男の方を振り返る。彼がスッと手をかざすと、一瞬にして男の耳が氷漬けになった。彼は屋敷中に響き渡りそうなほどの音量で叫び声をあげたが、二人は一切気に介さず話を続ける。
「入り口は1箇所、ほかは封鎖。バルコニーの外の……これは何だ?」
「そちらですが、何か監視ができる道具……だそうです」
「何だ、それは?」
「いえ、私もよくわかっていないのですが——」
ジークはそう前置きをして、今日のことを話した。風の魔法使いを呼んで行ったテストでは、リディアが魔導書を片手に試行錯誤を繰り返し、最終的にはどうにか自動で決まったルートを飛ばすための術式が完成した、というところまで。
実際はその過程で、彼女が魔法使いであることが判明する、という大事件もあったのだが、散々迷った挙句、ジークはそれを黙っておくことにした。
彼は当初、当然そのことを報告するつもりであったが、リディアはその場にいた全員に、どうか自分が魔法を使えるということは黙っていてくれと頼んだ。変わった魔法だから知られたくないと言っていたが、本当の理由かどうかは定かではない。悪意があったとしたら大変だ。そうでなくとも大事に至る前に、報告する義務がジークにはあった。
しかしその切実な表情と、「報告はしなくても大丈夫だ」と言ったエドの、珍しく真面目なその顔に、彼は大いに葛藤しつつ、一旦様子見することにしたのだ。
「——というわけで、飛ばすことはできたので、監視のための道具を手配してから改めて……」
「見つかりそうなのか?」
「ええ、まあ」
デモンストレーションが成功したあとの別れ際、ジークはリディアから「道具が見つからなかったらここに聞いてみるといいわ」と店の名前と場所を書いて渡されていた。そこは首都の外れの小さな街。とても腕のいい職人がいると言っていたが、本当だろうか?
「そうか、ご苦労だったな」
「いえ。公爵さまもどうかご無理なさらず——と言っても難しいでしょうけど」
「ジーク」
「はい」
牢に背を向けてその場を立ち去ろうとした彼を、キースが呼び止めた。変わりにくい彫刻のような顔には相変わらず難しそうな表情が浮かんでいる。彼はそれを一層深刻なものに変えて話し出した。
「この家の中に裏切り者がいる可能性について、考えたことはあるか」
裏切り者、という響きが冷たく、ジークの耳の奥に張り付いた。
***
「リディア様、そろそろお休みになられた方が良いのでは?」
「まだあともう少し……」
リディアが計算魔法を編み出すために本と、そしてペンとにらめっこを始めて数時間が経過した。夜も更け、普段なら眠っているはずの時間だったが、今日行った箱を飛ばす実験で得たヒントを、忘れないうちに試しておきたかった。
リディアは前世の経験から、計算のための魔法と考えたときは自然と電卓やパソコンのようなものを想像したが、この世界にはそういうものはない。となると、ペンに魔法をかけて、計算した結果を自動で紙に書き込む、というようにする必要があった。
ペンの軸に何かを書き込むこと自体が難しいうえ、試した術式のどれもが、何かが噛み合わずきちんと作動しない。やっと動いたと思っても、確かめてみると計算が違う。リディアの隣にはいくつもの使い物にならないペンが積み上がっていた。
「あと一歩、あと一歩なのよ……」
古い魔導書を捲る。そこに書かれている術式とその作用を見て、分解し、術式に組み込んでは外し、組み替えて、テストをする。その繰り返しだ。
リディアがそうしてあーとかうーとか唸っていると、コンコンと部屋の扉がノックされた。こんな時間に人が訪ねてくることなんてないので、不思議に思っているとミラが代わりに応対した。
「はい——って、あなたですか。非常識ですよ、こんな時間に。帰ってくだ——」
ミラの口調から、相手が誰であるか大体予想がついた。扉の隙間から中を覗き込んだ彼がリディアを見つけ「お嬢さん!」と声をあげる。一体なんなんだ。リディアは追い返したい気持ちでいっぱいだったが、不意に今日の昼に見た、紫色に変化する彼の瞳のことを思い出した。ふたたび嫌な予感が背筋を走る。
「……いいわ、ミラ。通してちょうだい」
扉をわずかしか開けずにいたミラは、主であるリディアにそう言われ、心底不服そうに返事をした。扉が開き、騎士団長のエドが部屋に足を踏み入れる。
「うわ、すごい量だな、これ」
仮にも女性の、しかも誰かの妻の部屋だというのに遠慮なくズカズカと入り込んできたエドは、リディアの机の上に積み上げられた魔導書の山と、大量のペンを見て開口一番そう言った。リディアは一度作業の手を止め、本を閉じて彼に向き直る。エドはまだ興味津々といった様子で失敗作のペンをひとつ手に取り、まじまじと眺めた。そしていつか短剣でそうしたのと同じように、スッと手をかざしてペンから魔法を取り出す。
「……何の用?」
「また変わった魔法使ってんなあ」
エドはリディアの問いに答えず、くるくると指先で術式を回したり伸ばしたりを繰り返している。彼の眼は、昼間ほど鮮やかではないものの、やっぱり紫色に光っている気がした。
「なあ、これってさあ」
エドが術式を戻したペン先をリディアの胸元を指すように向ける。彼が纏っているのはいつもの砕けた雰囲気ではない。笑っているように見える目も、実際のところ少しも笑ってなんていなかった。
「お嬢さんの魂がふたつあることと、なんか関係あんの?」