14話(71話) 出発前夜
いよいよリディアたちの旅立ちの日がやってきた。明日の朝には屋敷を発つ。そんな日の夜遅く、リディアはベッドの上で眠れずにいた。
——ついに明日なのね……。
落ち着かなくて寝返りをうち、手を開いたり閉じたりしてみる。この家に嫁いできてからもう半年以上。その間、長くここを離れることはなかった。記憶を思い出す前、リディアとして過ごしていた時代もあまり遠出をたくさんするタイプではなかったし、なにより実戦で魔法を使う状況になるのはほとんど初めてだ。旅、冒険。その響きへのワクワクと、いつ死ぬかもわからないことへの不安が半分ずつ。まあ命の危機にさらされているというのは普段であってもそんなに変わらないのだけど。
「……」
カーテンの隙間から、月の光が差し込んでいる。眠れる気がしなくて体を起こしたリディアは、サイドテーブルに置いた、キースがくれた指輪を手に取った。温かい魔力を感じる三色に輝くそれを指にはめると、少しだけ安心できるような気がする。
少し前からリディアに起こっている、奇妙な出来事の数々。セレナの夢、よくわからない文字。それにダンジョンとアリシアの登場。それらのことを考えると、〝物語〟が予定外の動きをしているのはほぼ確実だ。エドが言うように、タイムリミットが早まっている可能性も高いだろう。リディアは早いところ離婚後の算段を立て、キースと別れる必要があった。
今回のダンジョン探索で電池の開発に役立つ素材が手に入れば、それに大きく近づける。それは生き残ることを目標としているリディアにとっては喜ばしいことのはずだ。離婚して、キースやアリシア、そして〝物語〟とは無縁の場所でひっそり暮らせばいい。ある程度は自由に暮らせるだろうし、魔法が使えるから、色々できることだって多いはずだ。それなのに、リディアの心はどこか重かった。
——外の空気が吸いたい……。
ぐるぐると考え込んでいると、広いはずのベッドルームが狭く感じてくる。少し歩いて気分転換をしつつ外の空気を吸いたくて、リディアはベッドを出た。
「どうされました?」
扉を開けると、夜の警備を担当している騎士がリディアに聞く。さすがに一人では行かせてもらえないだろう。リディアは素直に屋敷内で構わないから少し散歩がしたいこと、外の空気が吸いたいことを伝えた。彼らは少し困った顔をしながらも、自分たちがついていくならと許してくれた。本来は止められているのだろうが、リディアは明日ここを発つ身だ。彼女の落ち着かない心境を汲んでくれたのだろう。その心遣いに感謝して、リディアは静まり返った廊下を歩いた。
***
しばらく歩いて、バルコニーに辿り着いた。カミリアの作った庭がある大きな木が見えるバルコニー。月の光が照らすそこは幻想的で美しく、リディアの目を引いた。彼女は騎士たちに許可を取り、そこに出る。夜の涼しい風が頬を撫でた。
「気持ちいい……」
深呼吸して、ひんやりした空気を胸いっぱいに吸い込む。落ち着かずに持て余していた脳みそが冷えていく感じがした。
前世で生きていた世界よりたくさん見える星と、大きな月。見渡す庭園の植物たちも眠っているようだ。リディアは目を瞑り、植物が風にそよぐ音と虫の鳴き声に耳を傾けた。高揚と不安ではやくなっていた心臓の鼓動が少しずつスローダウンしていく。と、そこへ遠くから足音が近付いてきた。騎士たちが姿勢を正す気配がして振り向くと、バルコニーの入口に、キースが立っている。
「キース」
月の光を浴びて銀色に光る黒髪と、輝く美しいブルーの瞳。それがまっすぐリディアの方を向いていた。彼は騎士たちを下がらせると、リディアの方へと近付いてくる。
「どうした? 眠れないか?」
「少しね……あなたこそ、どうしたの?」
リディアの隣に立ったキースは「俺も似たようなものだ」と答え、ぼんやり遠くを眺めた。
「……いよいよ明日だな」
「……ええ」
ざわざわと草木が揺れている。冷たい風にリディアが少し身震いすると、キースは着ていた羽織を脱ぎ、リディアの肩にかけてくれた。残っていた温もりが優しくリディアを包む。
「……やっぱり俺も一緒に行った方が——」
「……駄目よ。あなたまで家を空けたら、皆が困ってしまうわ」
キースは当初、リディアが旅に出る条件の中に自分も同行するということを入れていた。しかし、公爵夫妻が両方とも長期間領地を不在にするわけにはいかない。それで渋々、キースはこの家に残ることとなったのだ。
「……そんな顔しないで」
この屋敷でキースと共に暮らし、色々なことがあって、無表情で無愛想だと思っていた彼のわずかな表情の違いがわかるようになってきた。今だって、リディアにはキースが悔しさと不安を抱えているということがその視線からわかる。リディアはそっと手を伸ばし、彼の頬に触れた。
「大丈夫よ。本当に」
安心させるように指先で頬を撫でると、キースはゆっくり瞼を閉じた。触れているところには確かに血が通って温かいが、まるで彫刻のような美しさにリディアは思わず息を呑む。
「……リディア」
「……なに?」
「……抱きしめてもいいか?」
ストレートなその聞き方に、リディアの顔が熱くなった。触れていた手を離すとキースは目を開けて、リディアをまっすぐ見つめる。その視線には、有無を言わせない強さがあった。リディアは返事の代わりにぎこちなく頷く。
「ありがとう」
その言葉と同時に、リディアの体を、キースの体温がふわりと包み込んだ。速くなった自分のものとは違う、ゆっくりとしたペースの心臓の鼓動が聞こえる。どこか懐かしいような彼自身の香りがした。
「必ず無事に帰ってきてくれ」
「……ええ」
「無理して危ないことはするな」
「……わかってる」
「君になにかあったら、俺は——」
「キース」
リディアは言葉を遮り、キースの不安が滲む目を見つめた。安心させるように微笑みを浮かべる。
「必ずあなたのところへ帰ってくるわ」
そのあとのことを考えると胸が痛む。ここへ帰ってくるのは嘘ではないのに、なんだか嘘を吐いているような気がする。リディアは軋む心臓を無視して
「約束する」
と続けた。もう離れないと、と頭の中で声がする。ダンジョンへ行ったら、そのあと別れるんだから。こんなことは余計に離れがたくなることにしかならない。
——そんなことはわかってる。でも、あと少しだけ。
どこの誰かもわからない声にそんな言い訳をして、リディアはキースの背中にそっと手を回した。




