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【第3章開始!】公爵夫人は命がけ!  作者: 保谷なのめ
【第1章】婚約・結婚式編
55/156

55話 ミラ

「ミラ!」


 リディアが立ち上がって駆け寄ると、ミラは彼女を見て「ご無事でよかったです」と少し安心したような表情を見せた。痛いところはないか、怪我はしていないかとあちこちを確認してくる様子に、いつも通りだとリディアも安心した。


「せ——……ミラルーナ」

「ミラルーナ?」


 何かを言いかけた修道女がミラに睨まれ、慌てて言い直した〝ミラルーナ〟という名前に、リディアは覚えがなかった。そう呼ばれたミラは修道女に冷たい視線を向ける。


「その名前はもう捨てたの。今はただのミラよ」


 ミラはそう吐き捨てるように言って、「もう大丈夫です。心配なさらないでください」とリディアの背に手を回した。一体何が起こっているのか、リディアにはさっぱりわからない。外に待機している他の修道女たちは、ミラのことを見てバツの悪そうな表情を浮かべていた。


「早く帰りましょう」

「ええ……他の皆は? 外に待機しているの?」


 キースやエド、ジーク、アンドレア。そうでなくても騎士の誰かがいるはず、そう考えたリディアの問いかけに、ミラは首を振る。


「いえ、お迎えに上がったのは私一人です」

「え……一人で来たの? どうしてそんな危ないことを……」


 いくらミラに特別な力があるとはいえ、それは攻撃に使える能力ではない。その彼女がこんな夜に1人でやってきただなんて。リディアが信じられないという表情で尋ねると、ミラはなんとも答えにくそうに言葉を詰まらせた。その一瞬の沈黙に、子どもたちが口をはさむ。


「そうだよ、危ないよ! 朝になるのを待った方がいいよ!」

「うんうん。お外には危ないものがいっぱいいるって先生言ってたよ?」

「そ……そうですよ。危ないですもの。朝まで泊まっても遅くないでしょう?」


 無邪気な子どもたちの提案にミラはたじろぎ、それを援護射撃するような修道女の発言に、苦虫を嚙み潰したような顔を向けた。それでも彼女もまた、何か思うところがあったのだろう。ミラは何度か子どもたちと修道女、そしてリディアの顔を見比べて、そして渋々といった様子で


「……わかりました。でも朝になったら絶対に帰りますからね」


 と頷いた。


 ***


「……ねえ、ミラ」

「……はい」

「聞いてもいい?」


 寝室としてリディアたちが案内された部屋はコンパクトにまとまっていて、子どもたちの部屋からは少し離れたところにあった。清潔に保たれているものの人の気配がなく、長らく使われていなかったのだろうということを感じさせる。リディアはベッドに横たわったまま問いかけた。ミラがしばらくの沈黙のあと、「はい」と返事をする。


「この部屋って……」

「……私が昔、使っていた部屋です」

「……そうよね」


 よく見れば、本棚に並んでいるのはほとんどが経典や聖書だが、一部にはミラの趣味に合いそうな小説も紛れている。彼女は意外にも、冒険小説の類を好んで読んでいることを、リディアは覚えていた。


「……じゃあ、ここは……」

「……私の、育った場所です」

「……そう」


 静かな部屋には、ふたりの話し声と、衣服と布団の擦れる音だけが響いている。この部屋には——というよりこの場所の、これまで見てきた範囲には時計がない。秒針の音がしないというだけで、静けさがどこまでも広がっていきそうな雰囲気があった。


「……教会出身だったのね」

「……はい」

「……だから浄化とか回復の魔法が使えたのかあ」


 教会にいたミラがなぜ、アークェット家に侍女としてやってくることになったのか。それも気になったが、それより。リディアはずっと浮かんでいる一つの仮説を確かめるため、寝返りを打ってミラの顔を見た。覚悟を決めるため、すう、と深呼吸をする。


「……ミラ」

「……はい」

「……あなたは、聖女なの?」


 ***


 ミラルーナ。それが彼女の本当の名前である。苗字はない。ミラルーナという名前も、教会につけられたものだ。彼女は生後数か月の時に親に捨てられ、教会に引き取られた孤児のうちの一人だった。


 彼女の〝特別な力〟が発現し始めたのは、五歳の頃のことだ。


 神に愛されている、というのがもっとも正しい表現だろう。彼女は植物や、小さな動物をまるで奇跡のように回復させることができたし、濁った水を浄化することもできた。神聖な力を持つアイテムたちは皆反応を示し、そして何より、〝聖女の証〟である紋章が浮かび上がっていた。

 ミラルーナは聖女を引き継ぐ者として手厚く、一方で少し行き過ぎではないかというくらい過保護に——簡単にいえば、閉じ込められて育った。秘匿されたまま外の世界を知らず成長した彼女は大きくなるにつれ、疑問を抱き始めた。自分が閉じ込められている意味はあるのか、と。


 教会の大人は、外に出たいということ以外は基本的に言うことを聞く。それがかえって気味が悪かった。あくまで大人たちが信仰しているのは、ミラルーナではなくその背後にいる神である。神、教義。そういうもののために、自分は利用されているのだ。崇めてくる大人たちが気持ち悪かった。せめて同年代の子たちとは同じでいたかったのに、彼女たちですらも、大人から「敬って接しなさい」と言われてしまい、対等になれない。

 皆が彼女を〝聖女候補〟としてしか扱わず、ミラルーナ自身はどこにもいなかったのだ。誰も彼女そのものを見ようとしない。そのことが苦しくて、彼女は教会を脱出することに決めた。


 そのための準備は念入りにした。数年かけて、従順で大人しい人間を演じた。決して反抗せず、外への興味なんて少しも持っていないというように。疑うことを知らない聖職者の大人たちは、自分たちの教育が功を奏したのだと、それを疑いもしなかった。


 決行したのは十四の夜。着の身着のまま、何も持たずに見つけておいた抜け道からこっそりと抜け出した。教会を出て最初にたどり着いたのは草原。知らない匂いと空気。空に広がる星々。初めて踏んだ草の感触。それらすべてが、彼女に自由になったことを強く実感させた。ミラルーナは嬉しくて笑い、汚れることも気にせず転がった。今までで一番良い日だと、冗談じゃなくそう思った。


 それから彼女は、教会の関係者たちから隠れながら、しばらく近くの街で路上生活を送った。これまでの一切の自由を奪われた生活を思えば苦ではなかったが、どうにも腹は減る。路地裏の片隅で、このまま飢え死にするのかと狭い空を見上げていた時、偶然そこを訪れていたアークェット夫妻——リディアの両親に拾われたのだ。


 彼らに名前を聞かれ、ミラルーナは「ミラ」と名乗った。これがミラとしての人生の始まりだった。リディアの両親は持ち前の心の広さとおおらかさでミラのことを優しく扱い、帰る家がないと言う彼女に、娘であるリディアの世話係の仕事を与えた。ミラがミラとしてもらう、最初の仕事だった。


 ミラより年下のリディアはミラによく懐き、あとをついてまわった。そんなある日、ミラが夜、星を見ようと庭に出たところ、こっそりとついてきていたリディアが転び、膝から血を出した。大泣きするリディアに思わず回復魔法を使ってから、ミラはハッとした。

 この力は、アークェット家に来てからは隠しているものだった。ミラにとってこの力はミラルーナとして、聖女候補としての人生の象徴で、忌むべきものである。この力のせいで自分はいつも特別扱いされる。だからできるだけ隠しておきたかったのに。もしかして誰かにバレれば、教会に連れ戻されるかもしれない。やっと自由になれたのに。もしまた、特別な人間として扱われたら? この家の人たちですら、あの目で自分のことを見るようになったら? 怖くて唇が震えるのを必死に堪え、恐る恐る見上げる。そんなミラの予想に反し、リディアはキラキラした目でミラを見つめていた。

 秘密にしていてくれないかと頼むつもりで口を開こうとするミラに、リディアは「すごい! 魔法が使えるのね!」と目を輝かせる。


「いえ……この力は……そんなに良いものでは……」

「好きじゃないの?」

「あまり……」


 苦い顔をして隠そうとするミラの手を握った幼いリディアは「そっかあ」と残念そうに唇を尖らせた。


「優しいミラにピッタリの、優しくて素敵な力なのにね」


 優しい力。これまでミラの能力は、〝神のご加護〟だとか〝神のおかげだ〟とばかり称されてきた。そんな力が、優しい自分にピッタリだと。ミラはそんなことを考えたこともなかった。目の前の少女は、神のおかげだとか奇跡だとかそんなことを言わず、これをミラ自身にピッタリだと言っている。ずっと嫌いだった自分の力が少しだけ好きになれるような、そんな力がその言葉にはあった。


「私ね、ミラみたいに優しくてかっこよくなりたいの!」


 星空を閉じ込めたような、キラキラした目で見つめられたその日。ミラにとって何より大切なのは、目の前で笑う少女になったのだ。

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