54話 閉ざされた聖域
石造りの部屋は無機質で冷たく、なんだか生活感のない静謐な空間だった。高いところについている窓から入る微かな月明りが唯一の光源だ。リディアは近くに人の気配がないのを確認して、そっと体を起こす。
——ここは、どこ……?
防音性が高いのだろう。耳を澄ませても、外からはなにも聞こえない。少し目が慣れてきたところで辺りを見回してみる。まず重たそうな扉が一つ。その反対側には、白い布をかけられた祭壇のようなものがある。銀の杯と聖典。誰かが祈りを捧げたような跡。床には所々掠れた幾何学模様が彫られ、太陽を模したこの帝国の国教のシンボルによく似た紋章の描かれたレリーフが壁に飾られている。
——教会……?
銀色の月明りが、祭壇を浮き上がらせるように照らしている。その神聖な雰囲気に、リディアは思わず息を呑んだ。
ここは、ミラが設定してくれた〝安全な場所〟のはずである。リディアはチャームに彫る場所を決めた時のことを思い出した。であればきっとここは危ない場所じゃないんだろうけれど、一体どこなのだろうか。ミラはあまり、教会や礼拝に参加したがらなかった。彼女の性格であればそういうこともあるだろうと流してきたけれど、そんなミラが設定したのがここだというのが意外だった。
もう少し観察しようと祭壇の方へ足を進めると、背後の扉が開く。眩しい光が差し込んで、リディアは目を細めた。
「あれ? 誰かいる」
「お姉ちゃんだれ?」
「え——」
扉の先にいたのは、小さな子供たちだった。
「お祈りの部屋は、勝手に入っちゃいけないんだよ!」
そう言った女の子は、大体五歳くらいだろうか。三、四歳から十代前半まで、様々な年代の女の子たちがリディアを見ている。まだ幼い子たちは不思議そうに眺め、中には近寄ってこようとする子もいたが、それを年上の子たちが止めていた。警戒するような視線がリディアを射抜く。怪しいものではないと示すために自己紹介をするべきだろうか? でも簡単に身元を明かすのは万が一のことを考えるとあまり良くない気がする。そんなことを考えてリディアが逡巡していると、奥からよく通る声が響いた。
「皆さん、どうしたんですか!」
子どもたちから口々に「先生」と呼ばれたその人は、修道女の格好をしていた。祭壇の前でボロボロのドレスを着て佇むリディアを見るなり「まあ」と声をあげる。
「どうされたんですか? どうしてここへ……」
戸惑った表情の彼女に「とにかくこちらへ」と促され、リディアはその部屋を後にした。
***
どうやらここは、教会付属の孤児院のような場所らしかった。リディアは先生と呼ばれた修道女から新しい衣服を借り、ボロボロの身なりをある程度整えて、今は食堂のような場所に、子どもたちと共に座っている。
「えっとねー、これがパンでしょ? こっちがスープ。ジャガイモもあるよ!」
ちょうど夕飯時だったようで、リディアはそこへ混ぜてもらっていた。「お腹が空いているでしょう」と言われて気付いたが、確かにリディアは夜会の間も絶え間なくゲストたちの相手をしていたので何も食べておらず、安全な場所だと分かった途端お腹が空いてきた。無邪気な女の子から食事の説明を受けて、リディアは彼女たちと一緒に食事の前の祈りをした。小さい頃に習ったことのあるものだった。
「はい、それでは食べ始めて良いですよ」
修道女の合図で皆が食べ始めるのに倣って、リディアも食事に手をつけた。簡素だが温かい食事はリディアの腹を満たし、さっきまでの出来事への疲労と緊張で冷え切っていた身体を温める。ホッと一安心した彼女に、子どもたちは興味津々といった具合で話しかけてきた。
「ねえ、お姉さんはどこからきたの?」
「綺麗なドレス着てたけど、お姫さまなの?」
「えーっと……街の方かな。お姫さまじゃないよ」
首を振るリディアに「なーんだ」と残念そうな子もいたが、一部の子は〝街〟という言葉にさらに目を輝かせて聞いてくる。
「街? 街ってどこ? どういうところなの?」
「……もしかして、街に行ったことないの?」
リディアの問いに、子どもたちはブンブンと首を振る。リディアの隣に座っていた子が、彼女に「私たち、ここから出たことないんだ」とコッソリ耳打ちした。リディアは孤児院のことをよく知らないが、普通は街の中にあるものだ。ここはもしかすると少し特殊な場所なのかもしれない。修道女がジッと見てきていることに気づき、リディアはハッとして何でもないように微笑み返した。
「えーっとね、私の住んでいた街は……美味しいパン屋さんがあって、素敵なお服に、道具なんかも売っていて……とっても綺麗なお花が咲く、素敵な街なのよ」
ローゼンブルクの街のことを思い出す。あの街の人々。ローゼンブルク家の人々。そして、今もリディアを探しているであろう、キースのこと。リディアが黙ってしまう一方で、子どもたちは「わあ」「素敵なところなんだ」と目を輝かせている。
「先生、私たちもそこへ行ける?」
「きちんと食べて、勉強をして、大きくなったらきっと行けますよ」
彼女の言葉に、子どもたちは「はーい」と揃った良い返事をした。
「聖女さまも、街にいるのかなあ」
「聖女さま……?」
「シッ……ダメでしょ!」
年下の子の呟きを、年上の子が嗜めた。聖女——ルクス・ディヴィナ教において、常に一人居続ける特別な存在。詳しいことは一般の人間には知らされず、その居場所も、帝都の大教会にいると言われているが、真偽は不明。どうやって選ばれているのかもわからない。現在の聖女は確かかなりの高齢だったはずだ。アリシアというキャラクターは、最終的にはこの聖女というポジションになる予定だった。結局聖女だとキースとの結婚が難しくなるということに気が付き、どうしようと悩んでる最中に、前世のリディアは命を落としたのだが。
どうやら〝聖女さま〟というワードは、ここでは禁句らしい。リディアの隣に座る子が、またしてもリディアに耳打ちをした。
「前はね、ここに聖女さまがいたんだって。でももういなくなっちゃったの」
リディアの脳裏に、ある仮説が浮かぶ。物語と矛盾しそうなのが気になるが、それなら今までのことの辻褄が合う。……でも、だとしたら尚更、どうして物語に登場しないようなキャラクターであるリディアの傍に? 募る疑問をかき消すように、扉の外から話し声が近付いてきた。
「——さま!」
「離してちょうだい! もうそう呼ばないでって言ったでしょう」
バタバタと近づいてくる足音に、リディアは扉の方を見た。バン! と開かれたそこから現れた彼女はリディアを見るなり、いつもの無表情で
「リディア様。お迎えに上がりました」
と告げた。