5話 不意の出会い
「団長? あなたが?」
「リディア様、動かないでください」
ミラにそう言われ、リディアは振り向きかけた顔を怪我がないかくまなく確認するミラの方に戻した。今度は顔の向きをそのままに、視線だけを団長と呼ばれた男に向ける。柔和な顔立ちに砕けた喋り方、軽薄そうな雰囲気で、とてもそうは見えない。制服も着ていないのでまったく気が付かなかった。リディアの疑いの視線に気付いた男は「ほんとだって」と言いながら手に持った短剣をくるくると回した。
「俺はここの騎士団の団長、エドワード。エドって呼んでよ」
「あなた、リディア様にもっと敬意をもった話し方はできないんですか」
握手を求めてくる手をリディアの代わりにミラが払いのけ、いつもより数倍は冷たい声でそう言った。エドは「あらら」とそれをさして気に留めない様子で「リディアって言うんだ」と続ける。
「リディア様はあなたが気安くお呼びできるような方ではありません」
またしてもミラが、リディアに返事をする隙も与えず代わりに返事をした。彼女はさらにリディアがキースの婚約者で、これから公爵夫人になる人間であることを説明する。エドはそれを聞くと驚いた様子で目を見開き、「へえ、お嬢さんがキースの……なるほどねえ」とまるで珍しいものでも見るかのような視線を向けた。
「あいつ、不愛想だけど悪いやつじゃないからさ。まあ困ったことあったら言ってよ」
「そうおっしゃるならきちんと部下の教育をなさってください」
「おー、手厳しい」
エドと会話(と呼べるのかは怪しいが)をしながら怪我の確認を終えたミラは早々に立ち去りたい様子で、「リディア様、行きましょう」と言った。そんなミラに完全にはついていけていないリディアは「え、えぇ」とやや動揺を滲ませた返事をし、手を引かれて歩き出した。
「そういえばミラはどうしてここに?」
「どうしてじゃないですよ。リディア様に振り切られたって慌てて屋敷に戻ってきて」
そこの方々が、とミラに指さされ、リディアについていた騎士たちが申し訳なさそうに俯く。少し離れて着いてきているエドは、面白そうに耳を傾けていた。
「一人で行くならあそこしかないだろうと思って温室に」
「バレバレだったってことね」
「バレバレだったってことね、じゃないですよ。死んでたらどうするんですか。何考えてたんですかほんとに」
「あはは、たまにはひとりで息抜きしたくなって……ごめんなさい、もうしません」
ミラの凍てつくような視線に、苦笑いも尻すぼみに消えていく。小さくなっているリディアに助け舟を出すようにエドが口を挟んだ。
「でもよぉ、自分の部下のこと悪く言いたかないけど、コイツらがいてもどうにもできなかったと思うぜ」
彼はそう言って相変わらず手でくるくると弄んでいた短剣に手を添える。それをスッと動かすと、光る文字が空中に現れてエドの指先に小さな竜巻のようなものを作った。
「わ……それ、何?」
「魔法。お嬢さんを狙ったやつね。かなーり高度。こりゃプロだな。うちの団のなかでも一部だぜ、こんなの防げんのは」
「そうですか。でもそれをどうにかするのがそちらの仕事でしょう」
元はと言えば勝手にひとりになった自分のせいなのに容赦なく責められるエドがだんだん可哀想になってきた。巻き込んじゃってごめんなさい。リディアは謝罪の意を込めた視線をエドの方に向けたが、当の本人はさして気にしていない様子で指先の魔法を見つめていた。
「アンタも引かないねえ。いや、それが仕事だってのはそうなんだけどさ……まあ色々やっとくよ」
屋敷の入り口に辿り着くと、エドは小さな魔法を空中に放り、それをキャッチして手のひらの中に収めた。光が吸い込まれるように消える。
「じゃあまたね、お嬢さん」
「待って!」
リディアは、そのままひらりと手を振って去ろうとする後ろ姿を呼び止めた。
「ありがとう、守ってくれて」
リディアがきちんと目を見てそう言うと、エドは驚いたように一瞬目を見張り、そしてすぐにあのへらりとした笑みを浮かべ「まあ、これが仕事だからな」と言った。
***
屋敷の中は騎士と使用人があちこち忙しなく動き回っていた。さっきの騒ぎで色々対処しないといけないことが出てきたらしい。一部にはリディアたちをみて足を止め、ヒソヒソと噂話をする者もいた。
少しずつ広がったざわめきに、使用人たちの中心で指示を出していたイザベラが気が付き、早足に寄ってくる。
「ご無事でしたか」
「イザベラ」
彼女はいつも神経質そうな顔に心配と安心を滲ませている。やはりもっとたくさん護衛をつけるべきだったと自らを責めているようだったので、リディアは安心させるように言った。
「心配かけてごめんなさい。でもほら、この通り怪我はないから。帳簿の続きは——」
「後日にしましょう」
「そうね、他のことで手いっぱいでしょうし……」
リディアの言葉に、イザベラが表情を心配から驚きへと変える。
「……さきほど命を狙われたばかりなんですよ? 旦那様のところへ行ったらすぐお休みください」
「公爵様のところへ? どうして?」
リディアにとってはこれは初めてのことではない。それに、これは彼女しか知りえないことだが、これから少なくとも2年はこういうことが続くのだ。そのたびいちいち何かを中断していてはまともに生活できないし、キースに会って報告するといったって、従者たちから上がってくるであろう報告以上の情報をリディアは持っていない。そういう考えからでた純粋な疑問だったのだが、イザベラは愕然とした表情でリディアを見て、諦めたようにため息を吐いた。
「……とにかく、旦那様のところへ向かいましょう」
***
イザベラに連れられてキースの執務室へ入ると、そこには誰もいなかった。「少し待ちましょう」というイザベラの言葉に従い、部屋の中で彼の帰りを待つ。なんとなく部屋の中を見渡してみた。書類が積み上げられたデスクの他は整然としていて、余計なものはひとつもない、といったようなレイアウトだ。
——自分の考えたキャラクターの部屋にいるって、なんだか変な気分。
誰もいない森の中で木が倒れても音を立てないように、頭の中にしかいない人物の、描かれていない部分は存在しないはずだった。それがこうして存在し、見て、触れる。キースが案外几帳面な性格だということをリディアは初めて知った。置いてある本の種類も、少し右上がりな癖字も、全部、前世では知りえなかったことだ。
リディアがそうして部屋を見回していると、人の話し声が聞こえてきて、続いてガチャリと扉が開いた。
「あぁ、そうしてくれ——」
そう指示を出しながら部屋に入ってくるキースと目が合った。淡いブルーの瞳に一瞬驚いたような色が浮かぶ。
「旦那様、リディア様をお連れしました」
「わかった。下がってくれ」
「かしこまりました」
リディアがローゼンブルク家に来てから1週間以上が経過していたが、顔を合わせるのはこれで2回目だった。イザベラが部屋から出ていくと、部屋に残ったのはリディアとキースのふたりだけ。心なしか少し空気がピリッと張り詰めたような気がした。
「……話は聞いている。屋敷全体の防御魔法を改めて張りなおした。調査の結果はまだ出ていない」
「は、はい……」
リディアは真相究明のためにここに来たわけでも、もっときちんと守れと文句を言いに来たわけでもない。‟物語”が殺しに来ている以上、どれだけやっても防ぎきれないということはわかりきっていた。そもそも、彼女自身はここに来るつもりもなかったので、どう振舞っていいかわからず、返事も表情もぎこちなくなる。キースが黙り、部屋は沈黙に包まれた。
——仮にも夫婦なのに、これでいいのだろうか……。
キースの初めての恋がリディアではなく主人公のアリシアだったとしても、例えば単なる知り合いだってもう少し和やかな空気を作れるものじゃないだろうか? 耐えかねてリディアが口を開きかけたそのとき、目の前でサラサラの黒髪が揺れた。
「君を危険に晒してしまって、申し訳ない」
「——は?」
リディアの口をついてでたのはなんとも間の抜けた声。キースが頭を下げている、と彼女の脳が処理するまで、一呼吸分はかかった。
貴族、それも大きな家の主人が誰かに頭を下げるということは、この世界ではめったにない。だから、こうして頭を下げられているという状況はかなり異質なものだった。確かに、キースは不器用で誤解されやすいが誠実、というキャラクター造形だったけれど。
「警備については万全の体制を期していたはずなんだが——これは言い訳だな、本当にすまなかった。急ぎ原因について調査を進める」
「あ、ありがとうございます……」
なんと返事をするべきか。リディアは散々考えた挙句、結局はありきたりなお礼の言葉を述べた。それが正しかったのかもよくわからないが、キースが頭を上げたのをみて、間違ってはいなかったのだろうと胸を撫でおろした。
その後、これから先の基本的な警備体制については追って別の者から連絡があるとキースに言われ、リディアは執務室を後にする。扉が閉まる少し前、去り際の一瞬。リディアの見たキースの瞳には、悔しさが滲んでいるようだった。