48話 祝福と異変
ゆっくりと扉が開くと同時に、聖歌が流れ出した。真紅の絨毯が、まっすぐ祭壇に向かって伸びている。一気に集まった視線に、リディアは思わず一瞬たじろいだ。
——深呼吸。
自分にそう言い聞かせて深く息を吸うと、狭まりかけていた視界がクリアになっていく。顔を上げた先、祭壇の前に立つキースが、リディアの方をまっすぐ見つめていた。
「……よし」
誰にも聞こえない音量で自分を鼓舞し、一歩を踏み出す。人生が変わる瞬間。この瞬間の高揚感と緊張は、今まで経験してきた何とも違っていた。
焦り過ぎないように一歩一歩、ゆっくり踏みしめるたび、リディアの心臓の鼓動は速度を上げる。この礼拝堂の式に参列しているのはリディアの両親や親しい間柄の限られた人間のみ。見知った顔がほとんどであることが救いだった。
——これで正式に、私は公爵夫人に……。
もう引き返せない。運命が回り出す音がする。これはリディアにとって、命がけの闘いが始まることを意味している。それでも歩みを止めないと決めたのは、他でもないリディア自身だった。
彼女が祭壇へ辿り着くと、聖歌隊の歌が止む。礼拝堂を静寂が支配した。
「……」
「……」
沈黙の中、ヴェール越しにキースと目が合った気がした。純白の礼装は彼の白い肌と黒曜石のごとく美しい黒髪と見事なコントラストを奏でている。物語の主人公にふさわしい、息を呑む美しさだ。神父の「よろしいでしょうか?」という問いかけに、リディアとキースは頷いた。
「——では、始めさせていただきます」
会場を包む静けさを、神父の言葉が破る。式の始まりだ。
「この礼拝堂に集いしすべての子供たちに——」
神父が祈りの言葉を唱える。ふと先日のことが気になってミラの方をチラリと確認してみるが、付き添う侍女は顔を隠す布を纏うのがルールなので、その下の表情がどうなっているかはよく見えなかった。
神父は祈りを続ける。神と、神の光への感謝の言葉。小さい頃から覚えさせられている、馴染みのある文章だった。
「——神なる光は、あなたたちの上に永遠に輝かれるでしょう。では、誓いを」
祈りが終わり、次は誓いの言葉。といっても形式的なものだが。キースとリディアは一歩前へと踏み出す。
「公爵、キース・ローゼンブルク。あなたはこの侯爵令嬢、リディア・アークェットを生涯の伴侶とし、神の導きに従い、死がふたりを分かつその時まで共に歩み、互いを守り抜くと誓いますか」
死がふたりを分かつまで。その言葉がリディアに重くのしかかる。確定した未来、ふたりは死によって分かたれる運命だ。
キースはリディアの顔を見て、躊躇わずにまっすぐ
「ああ、誓う」
と言い放つ。その声には誠実さが滲んでいる。
「侯爵令嬢、リディア・アークェット。あなたはこの公爵、キース・ローゼンブルクを生涯の伴侶とし、神の導きに従い、死がふたりを分かつその時まで共に歩み、互いを守り抜くと誓いますか」
死が分かつのなんて待っていられない。だからこの誓いは嘘になってしまう。神への誓いで嘘を吐くのは気が引けるが、頷くほかに選択肢は無かった。リディアは決意を固め、口を開く。
「——はい、誓います」
リディアがそう言うと、神父は二人の顔を見て頷き「それでは今ここに、この誓いが神と証人の前にて結ばれたことを宣言します」と高らかに告げた。参列者たちから拍手があがる。
「——それではここで、継承の儀式を」
「え?」
それは昨日の打ち合わせで知らされていない、予定外のことだった。リディアの前世では一般的に、夫婦は結婚指輪の交換をするが、この世界ではそういう風習はない。なので、通常であれば誓いが終わったあとはすぐ、誓いの儀式へと入る。昨日もそういう段取りで確認をとったはずだ。リディアが戸惑っていると、キースが「すまない」と謝った。
「俺が、君に渡したいものがあって頼んだんだ」
そう言ってキースが取り出したのは、アンティーク調の指輪だった。鈍色の輝きを放つそれは、繊細な模様と紋章が描かれている。
「……それは?」
「これは、ローゼンブルク家に代々伝わっている指輪だ」
君に持っていてほしい、キースはそう言って、リディアの手をとった。左手の薬指。図らずともそこに、指輪はまるでリディアを待っていたかのようにぴったりとはまった。
「これ……本当に私が持っていていいの?」
返事の代わりに、キースは指輪に口づけを贈る。その瞬間、命が吹き込まれたように、指輪が僅かに魔力を持ったような感覚がした。呼応するようにネックレスが淡い光を帯びる。何かが起こるのか、リディアは少し警戒したが、キースが離れると魔力は消え、それ以上のことは起こらなかった。
「今のは——」
「今の?」
キースはピンと来ていない様子で首を傾げる。今のを感じたのは、リディアだけだったのだろうか? 気のせいだったのかもしれない。感じた魔力はほんのわずかだけだったし、今追及しても仕方がない。リディアは「なんでもないわ」と首を振った。
「よろしいですか?」
「……大丈夫か?」
「ええ。進めてくださる?」
リディアの言葉に、神父は進行を続ける。次は参列者皆で神に祈りを捧げることになっていた。参列者一同が立ち上がり、神父に続いて祈りの言葉を述べる。
人々の声が重なって、天井の高い礼拝堂の中に響き渡った。ステンドグラスから差す光が辺りを幻想的に照らす。リディアも一緒に祈りを唱えた。
「——神聖なる光よ、我らを導きたまえ」
荘厳な静けさがあたりを包みこむ。皆からの祝福を受け、リディアとキースの結婚のために必要な儀式は、残すところあと一つとなった。
「——それでは、誓いのキスを」
その言葉に、リディアの心臓は跳ねた。
リディアとキースは、せいぜい手を繋ぐか、ダンスくらいの接触しかしたことがない。当然キスもこれが初めてだ。気持ちの通っていない、形式的なものだとはいえ、ファーストキスはどうしても緊張する。キースは嫌じゃないだろうか、そんなことばかりが気になっていた。
「……リディア」
その呼びかけは恐らく、大丈夫かという意味を含んでいる。リディアは頷いた。大丈夫。キースの指先がヴェールの端に触れ、そっとそれを持ち上げる。
今日、ヴェールを介さないで目が合うのは初めてだった。
天井に近いところに位置している窓から入る光が、氷を溶かしたような、冷ややかで美しい淡いブルーの瞳を透かしている。その澄んだ瞳に捕らえられ、リディアは息を呑んだ。いよいよだ。覚悟を決める。
——しかし。
「……キース?」
キースが一向に動かない。やっぱりキスは嫌だっただろうか? リディアが恐る恐る声をかけると、彼はハッとした様子で目を瞬いた。
「——すまない、その……君が、すごく……綺麗だったから……」
キースの声は後半につれて小さくなり、白い頬は赤く染まっている。リディアもつられて赤くなり、絞り出すように「ありがとうございます……」と口にした。
「……」
「……」
お互い目を逸らせないまま、何ともいえない空気が流れる。先に口を開いたのはキースだった。
「……じゃあ、いくぞ……」
リディアはギュッと目を瞑った。気配が徐々に近づいてくる。あと数ミリで唇が触れる——その瞬間。
「——え、何?」
「わっ、これ、どうしたの?」
「何が起こってる?」
参列者たちがざわめきだす。リディアが瞑っていた目を開けると、庇うような体勢で立っているキースの向こう側に、飾られた花たちが散っているのが見えた。それだけではない。散ってしまい、舞っていたはずの花はふたたび咲き始め、礼拝堂内の植物たちが目に見えてわかるほど、ぐんぐん伸びている。
「何? これ……」
「わからない……」
リディアとキースが警戒を解かないまま様子をうかがっていると、近くに控えていたエドが駆け寄ってくる。
「キース」
「エド。何が起こっているんだ」
「俺にもよくわかんない……けど——」
エドの眼が紫色に輝く。しばらく辺りを見回して、それからハッとした様子で騎士何人かに指示を出して外へ行かせた。
「……超いいところで悪いけど……一旦式はお開きだ」
ハッ、とエドは乾いた笑いをこぼし、続ける。
「——ここ、狙われてるわ」
49話は本日夜更新予定です。




