3話 降り注ぐ危機
死を避けたければ部屋に引きこもっていればいい、というのは大間違いだ。
その日、目を覚ましたリディアが最初に聞いたのは、ガラスが割れるパリン!という大きな音だった。鼻先がわずかにヒリヒリと痛む。触ってみると、手に赤い血が付いた。皮膚が切れてしまったようだ。彼女が体を起こすより早く、バタバタと外から騒がしい足音が聞こえ、バン! と部屋の扉が開け放たれた。そこで顔を青くしていたのは、普段は仏頂面の、リディアが実家から連れてきた侍女、ミラだった。
「リディア様! 無事ですか」
「え、えぇ……。少し血がでたけど、生きてるわ」
後に続いて、この家の使用人たちが走ってやってくる。ざわざわと状況がつかめずに集まり、言葉を交わすだけの彼らを背に、ミラが部屋へと踏み込んだ。割れたガラスをパキパキと踏みしめて、そこから部屋の反対側を見る。リディアが起き上がろうとするのを、ミラが手で制した。
「まだ起き上がらないでください。何人か、外に誰もいないか確認してきてくださる?」
ミラは扉の外にいる他の使用人にそう指示を出し、リディアの方へ歩いてきたかと思うと、方向を転換して、壁に刺さっていた矢を引き抜いた。
「これを射た人間がいないか、確かめないといけません」
ミラは矢を眺めつつ、リディアの顔の上に手をかざす。パアっと明るい光が現れて血を流していた切り傷が治った。
「私が治せる程度でよかったですよ、本当に」
「ありがとう」
矢に毒が塗られている可能性も考え、浄化の魔法もかけてくれたらしい。本当に優秀な侍女だ。名前のないモブキャラクターにしておくにはつくづく勿体ない人材だと思う。
その優秀な侍女は、誰かから報告を聞いてやってきた騎士のひとりに矢を手渡して、部屋の修繕や犯人の特定について話し出した。リディアはそれをぼんやり聞きながら
ここにきてからのことを思い出していた。
リディアが前世の記憶を取り戻してから1週間と少し。その間、幾度となく事故、故意問わずさまざまな命の危機に晒されていた。最初は毎回肝を冷やしたリディアも、今では頭上から物が落ちてくる程度のものには慣れてしまっていた。
それでも、今回のように故意に命を狙われるというのは結構ヒヤリとする。
正確には、リディアのことを殺そうとしているのは物語そのものなので、誰か特定の人物の意思かと言われると微妙なのだが、自分のことを殺そうとしている存在がいるという状況は、どうにも落ち着かない。平和な世界だった前世じゃ、命の危機何て無縁な平凡な会社員だったんだから当然なんだけれど。
「リディア様」
「なに?」
リディアは、ミラに詳しいことは伏せたまま、ただ「命を狙われているかもしれない」とだけ話していた。
「今日の予定、少し変更です」
***
「この間の傘はすごくよかったわ」
予定を変更したリディアとミラは、先日頭上に降ってきた花瓶からリディアを守った傘を作った職人のもとを訪れていた。
「そりゃよかったよ」
不愛想な、深い皺を顔に刻んだ老人が視線を手元から外さないままに言う。老いていても腕にはしっかりと筋肉が詰まってハリがあり、職人としてのプライドを感じさせた。
「それで、相談なのだけれど」
リディアに降りかかる死の危機は多岐に渡る。
例えばこの間の花瓶のように、頭上から何かが降ってくること。
初めて階段の上から荷物が降ってきたときはミラがリディアのことを思い切りつき飛ばして事なきを得た。初めて出会う、実際の命の危機に腰を抜かしながらも、リディアは「そういうことね」と、ある程度の冷静さを保っていた。やってやろうじゃないの。半分くらいは自己責任なのだ。嘆いていたって仕方がない。
頭上から物が落ちてくる、というのは色々なシチュエーションで登場させやすいのか、回数が多い。階段での事件以降、頭上から何かが降ってくるというのは日常茶飯事になってしまったため、リディアは早めに身を守るための道具を用意した。
もちろん危険はそれだけではない。食事だって危険だ。今は幸い、ミラが初歩的なレベルであれば浄化の呪文を使えるため、それをかけてもらっている。でも、強力なものにはこの魔法は効かない。いつ浄化が無効になってもおかしくなかった。
ここへの移動も、そんなに遠くはないが、途中で盗賊に襲われるなんて展開は定番だ。騎士を数人連れてきているが、それでも不安が消えることはなかった。
「ほかにも何か、防御に使えそうな道具はないかしら?」
そこにきて今朝のことだ。窓や扉に防御魔法を張ったって完全ではない。身につけられるような、あるいはもっと常に自らを守れるような道具が欲しかった。
裏路地にある、目立たない小さなこの店には所狭しと色々な道具が並んでいるが、そのほとんどがどうやって使うものなのか、リディアにはよくわからない。手元で何か小さな部品をいじっていた職人が目だけを動かして彼女の方を見た。
「具体的に、どういうのが欲しいんだ」
「とにかく、命を守れるもの」
予算はこれだけある、と自分の持ち物を売って作った金の入った袋を作業台の上に置く。銀貨の詰まった重たい音がした。店主は中身をチラリと覗き見て、作業台の中を探る。
この職人は、突然やってきた貴族の女が身を守るための道具をくれと言っても深い事情を聞かないから助かっていた。その腕についても、前回の傘の出来で確かめられている。まだ完全に信用するわけにはいかないが、少なくとも作る道具の質については信頼しても良いだろう。
「これを持って行きな」
そう言って、職人はベルベットが張られた箱を取り出した。サイズは手のひらより大分大きく、アクセサリーをしまうようなものだ。作業台の上に置かれたそれをそっとあけると、中に鎮座していたのは、模様の刻まれた大きな青い石のついたペンダントだった。深いブルーの石が、店内のわずかな光源を反射してキラリと幻想的に光る。
「……これは?」
「お前さんの身を守ってくれるものだよ」
「つまり?」
箱から取り出して照明にかざしてみると、ブルーに見えた石は紫色にも、緑色にも見える、不思議な色をしていた。首にかけると模様が明るく光を放ち、文字が浮き出てペンダントトップを一回りした。
「持ち主の命に危険が迫ったとき、安全な場所まで移転させる。効果は3回」
老人は作業台の上からペンほどの大きさのナイフを取り出すと、何かを唱えた。ナイフの先に小さな魔法陣が現れる。それから、リディアがかけていたペンダントトップを思い切り掴んで引き寄せた。後ろで待機していたミラが警戒して動き出そうとしたのをリディアは手で制する。
「どこにする」
どこ、というのは指定する「安全な場所」のことだろう。リディアは思考を巡らせた。実家、というわけにはいかないだろうし、かといってローゼンブルク家を指定するわけにもいかない。どこか安全な場所を作ってから来るべきだった。また今度にする、と言いかけたところで近寄ってきたミラがどこかの場所を職人に告げた。リディアの聞いたことのない場所。帝国の地理についてはアークェット家にいたときに結構きちんと勉強したはずなのに、まったく聞いたことがないというのはおかしな話だ。リディアはミラに問う。
「それ、どこなの?」
「詳しくは言えませんが、とにかく安全な場所です」
ミラとは幼い頃からの付き合いで、強い信頼を置いているが、同時に秘密が多いことも確かだった。大体のメイドは使用人の子どもがそのまま同じようにそうなるか、もしくはどこかの爵位の低い貴族の子女だ。しかし、ミラはリディアの実家であるアークェット家に仕えている使用人に親類はいないし、どこかの貴族の子どもというわけでもない。彼女の素性は未だ不明だ。ここも彼女の紹介だが、どこからここを知ったのかということについては教えてくれない。
両親に聞いても、ミラの素性は教えてもらえなかったが、彼女が裏切るような人物ではないことは今まで過ごした長い時間の中ではっきりしている。安全な場所に関しても、ミラの言う場所なのであれば、疑う理由はないだろう。
リディアは職人にその場所を彫ってくれと指示を出した。石に普段使っている文字とは違う文字が刻まれると、もう一度模様が強く光って、くるりと石の周りを一周し、暗くなった。
「これで作動するの?」
「あぁ、そのはずだ」
リディアはペンダントトップを撫でる。石は模様や文字が刻まれているはずなのにつるりとした感触で、ひんやりと冷たかった。
「ありがとう、お代はそれで足りるかしら?」
「十分すぎるくらいだよ。これも持って行きな」
職人はさらに後ろの棚に入っていた箱からブレスレットを取り出した。軽い防御魔法がかけられていて、ダメージを受けたときにそれを軽減してくれる効果があるという。
「耐久性はそんなにねえから、ときどきメンテナンスに持ってくるといい」
そう言った職人にもう一度礼をして、リディアとミラは店を後にした。
***
道具を作り、そこに魔法をこめるということは簡単ではない。あの職人は本当に腕がいい、ということが今は実感としてよくわかる。
ファンタジー要素のひとつとしてあまり深く考えずに魔法が使える世界観にしたが、実際作中ではあまり魔法の使える人物は登場しない。主人公のアリシアは実はすごい魔法の才能の持ち主である、という設定にしたので彼女はきっと苦労しないだろうが、リディアのような名前のないキャラクターは、ほとんどの場合幼少期にある素質を測る検査ではじかれてしまう。
そもそもリディアの実家のような家では魔法を使うような機会もそうそうなく、教えられたのも魔法の座学がいくつかだけだ。概ね現代の世界のように、ビジネスや交易で領地や家が運営されている。魔法があればもちろん便利だが、自らで使う必要はない。国の運営する研究機関で作られた、魔法のかかった物品などを購入することはできるので、それを使う程度だ。
しかし、ローゼンブルク家のような家は話が別だ。国境を守るという性質上、どうしても魔法を使った戦いも多い。実際、キースは非常に優れた魔法使いという設定にしたはずだ。
——アリシアに氷で作った花をプレゼントするシーンを入れたかったから、氷の魔法をメインで使うってことにしたんだっけ。
揺れの酷い馬車で、前世の静かでスムーズに走る自動車を懐かしく思いながら、リディアは先日キースと初めて顔を合わせたときのことを思い出していた。
前世の記憶を取り戻してすぐ、キースとの顔合わせの予定が入っていた。リディアはミラに事情を説明する暇もなく、入ってきたローゼンブルク家の侍女たちに身支度を整えられ、部屋で朝食をとり、執務室へと向かわされることとなった。
「旦那様はお忙しい方ですので、顔合わせはあまり長くならないようお願いいたします」
いかにもメイド長といった出で立ちの、50代くらいのキツイ顔立ちのメイドがそう告げた。仮にもこれから、使用人たちの管理を担当することになる妻だというのに、頂けない態度だなと思いつつも文句を挟む隙なく扉が開かれる。
やっぱり少しは緊張した。リディアとしては、これから結婚相手になる人なわけだし、この小説の作者としては、自分の生み出したメインキャラクターを目の当たりにすることになる。
扉が開くと、机に向かっていた顔がこちらを向いた。リディアは思わず息を飲む。
——美しい。
一番最初の感想はそれだった。やはりメインキャラクター、それも主人公の相手役だ。前世のリディアが持てる語彙すべてを使って美しく描いた特徴がきちんと反映されている。光をすべて吸い込んでしまうような、艶やかな黒色の髪。彫刻のようにくっきりとした目鼻立ちは冷酷にすら見える。そして、吸い込まれそうな明るいブルーの瞳がリディアを見つめていた。
ハッとして、慌ててお辞儀の姿勢をとり、心臓を落ち着けるために一度軽く息を吸って吐く。
「リディア・アークェット侯爵令嬢、ローゼンブルク公爵様にご挨拶申し上げます」
「あぁ、君がアークェットの……」
低く澄んだ声が部屋に響く。想像通りの良い声だ。リディアはドキドキしながら顔を上げたが、一瞬目を合わせたキースはまるで興味がないとでも言うようにすぐ手元に視線を戻した。そして、妻としての仕事はメイド長のイザベラに、そして結婚式の準備は執事長のウィリアムに聞くようにとだけ言って、「あとは君の自由に過ごしてくれていい」とリディアを追い出した。
***
——あの野郎……いくら政略結婚で、私がアリシアじゃないからって……!
馬車の中で思い出しながら、リディアは握った拳を震わせる。リディアの方だって、自分の身を守って2年間生き残るということで手一杯で、キースとのロマンスだなんて期待しちゃいないけれど、一応妻は妻だ。もう少し態度がどうにかならなかったのだろうか?
挨拶以降も、キースは食事の時間に食堂に現れることもなく、リディアはリディアで忙しくしていたため、結局一度も顔を合わせていない。
——もっと誰にでも優しいとか、人格者っぽい設定にしておくべきだった。
自分の考えたキャラクター設定を後悔したところでもう遅い。
「ミラ」
「はい、リディア様」
「私、絶対に公爵様と離婚するわ」
「……そうですか」
相変わらず反応の薄いミラを相手に、リディアは決意を固めた。