16話 踊り明かそう
キースとリディアが交易場を出た頃には、暮れかけていた陽はすっかり落ちていた。街の夜はキースの記憶の中より幾分か暗い。よく見れば、経年劣化で街灯の光が弱まっている。夜に街に来ることなんて滅多にないので気が付かなかった。彼は近々街灯を増やそうと決めた。
「そろそろ帰ろうか」
もういい時間だ。治安の維持に努めているとはいえ、夜はやはり危ない。リディアもいい加減満足しただろうと思ってキースはそう提案した。ぼんやりと街を眺めていた彼女は、キースの声にハッとして「えぇ、そうね」と答える。
そして2人が屋敷に向かって歩き始めてすぐ、
「あれ、ケインじゃないかい!?」
と声をかけられた。
声の主はふくよかな体型のはつらつとした女性だった。聞き覚えのない名にリディアが首を捻っている一方で、キースには心当たりがあるようだった。「アンタ、久しぶりだねぇ!」とバシバシ肩を叩く女性に「お久しぶりです」なんて返している。
クイ、と服の裾を引いてジェスチャーで誰か訪ねようとすると、それより先に向こうがリディアに気が付いた。
「あら! アンタ、彼女連れてきたの!? やだぁ、すっごい綺麗な子じゃない!」
キースにもリディアにも、少しも口を挟む隙を与えない彼女はまくし立てるように喋り続けて、
「やぁね、アタシばっかり喋っちゃったわ! ここじゃなんだから、店寄ってきな!」
と半ば無理矢理2人をすぐそばの建物の中へと押し込んだ。
「ジョージ! ほらアンタ見てごらんよ、ケインだよ!」
「えぇ? あら本当だ、ケイン、久しぶりだなぁ! アダムはどうした?」
「あぁいや、今日は一緒じゃなくて……」
「そうかい? アダムは時々見かけるのにお前さんは全然来ないから心配してたんだよ」
リディアは話にちっともついて行けず、代わりに周りを見渡した。
古いパブのような風貌のこの店は、中心に大きなステージがあり、そこで楽器を持った人たちが軽快な音楽を奏でていた。まだ日が暮れたばかりでも、客の数は多くかなり繁盛している。皆が大きなジョッキでビールをあおっていた。
「ほら、あそこの席空いてるから座りな。ビール持ってくから待っといて!」
リディアが店を眺めているうちにようやく話が終わったものの、強引に席に座らされてしまった。すまない、と謝るキースにリディアは気にしないでと告げる。むしろ、これまでリディアとして貴族社会で生きてきた彼女にとって、こういう場所は新鮮で、かつ居酒屋通いが趣味だった里奈にとっては懐かしかった。
「……ケインとアダムって誰?」
ヴァイオリンが奏でる愉快な曲に耳を傾けながら、リディアはずっと気になっていたことをキースに尋ねてみる。キースは苦い顔をして、渋々といった感じで
「……偽名だ」
と話し始めた。
「ケインは俺、アダムは幼馴染だ。……ここにも、そいつに連れられてよく来てたんだ、何年か前まで」
ケイン、アダム、とリディアは何度か唱えてみる。ケインがキースだとしたら、アダムは——
「エド!」
「あぁ、よくわかったな」
キースは驚いた顔でリディアを見る。「アイツから聞いてたか」と聞かれたので、そういうわけじゃないと返した。リディアの脳裏にエドの軽薄な笑みを浮かべた顔がよぎる。そうか、やけに親しげだと思っていたけれど、キースとエドは幼馴染なのか。やっとエドのキースに対する態度の謎が解けた。
「そう、顔を合わせたことはあると思うが……」
運ばれてきたビールを、勧められるままに一口飲み、彼はエドとの思い出話を語った。その楽しそうな語り口や表情はこれまでの冷たさやそっけなさからは考えられないものだった。この場所がキースから、ローゼンブルク家の当主という肩書を取り払って素直にさせているのかもしれない。ここでは彼はキース・ローゼンブルクではなくただのケインなのだろう。
しばらくそうして話していると、音楽がさらにテンポの早いものに切り替わった。客たちが歓声をあげて盛り上がりを見せ、次々と中央のステージに集まる。
「これは何?」
「皆で踊るんだ」
ダン! と数人分が合わさった足音が木造の床に響いた。リズムに合わせてステップを踏んで、楽しそうにくるくると回る彼らに、周りからどんどん新しい人が参加する。
「楽しそう! 私たちもやりましょうよ」
貴族の令嬢としてダンスは習ってきたが、姿勢や身のこなし、ステップなど細かく規定のあるそれよりも、ここで皆がやっているものの方がもっと楽しそうだった。型も決まっていないようで、相手を変え動きを変え、めいめい自由にリズムに乗って踊っている。
リディアは立ち上がり、見よう見まねで踊ってみる。周りの人たちが彼女をリードするように動きを教えてくれた。だんだんわかってきたところで、乗り気じゃなさそうな表情のキースの手をとって一緒に踊ろうと誘った。
「どうせ結婚式では一緒に踊らなきゃいけないのよ」
ね、と誘うリディアの周りに何人かが集まって、皆でキースを立ち上がらせた。渋々といった様子の彼の両手を掴み、顔を見合わせてくるくると回る。体が軽い。コルセットも、重いドレスも、転びそうなヒールも無い。足音をおもいきり立てながら、次々変わる相手と顔を見合わせて、飛び回るようにリズムに乗った。
リディアの顔に笑顔が溢れる。これだけ羽目を外すことはこれまでリディアとして生きてきた彼女の人生には無かったので、冗談抜きで今日が一番楽しい日だと思った。
あと少しで曲が終わる。と、そのとき、床が強く軋んだ。咄嗟にキースがリディアを引き寄せる。
「——わ、ッ!」
リディアはキースの腕の中に思い切り飛び込んだ。いつも着ている服と違って軽く、薄い素材の向こうからは温かい体温が伝わってくる。リディアはふと、キースが生きた人間であることを実感した。
「危なかったな……」
「え……?」
キースの声にリディアが後ろを振り向くと、そこには人ひとり分程度の穴がぽっかりと開いていた。ちょうどそのタイミングで曲が終わる。床に穴が開いたことに徐々に皆が気付きだし、そのざわつきに店員が駆け寄ってきた。
「あら、穴開いちゃったわ! アンタ!」
「あー……こりゃ修理しなきゃだな……すまねえ! 今日はもうダンスは終いにしてくれ!」
店主がステージの上に集まっていた客たちを解散させる。皆既に満足するまで踊ったからか、そこまで不満の声はあがらず、それぞれ元のテーブルへと戻って行った。
ダンス用のそれより少し落ち着いた曲の演奏が始まる。リディアはその音で、何故だかまだキースと抱き合うような姿勢のままだったことに気が付き、慌てて距離をとった。気まずい沈黙がその場に流れる。
「……楽しかったか?」
先に口を開いたのはキースだった。手を差し出し、ステージから降りるためのエスコートをしてくれるようだ。リディアは素直に手を取った。
「……ええ、とっても……。毎日でもやりたいくらい」
リディアの言葉を聞いて、キースはふ、と表情を緩めた。彼女がキースが笑うところを見たのは、このときが初めてだった。
***
結局2人が屋敷に戻ったのはそれからさらに1時間後のことだった。
リディアは家じゅうが大騒ぎになっていて、こっぴどく叱られるのではないかと怯えていたが、屋敷の扉をくぐると、従者たちは案外普通の顔で2人を迎えた。
「おかえりなさいませ」
「あぁ、急に家を空けて悪かったな」
キースも普通の顔で執事とやりとりをしている。すると、彼は突然どこに向かってでもなく「もういいから早く出てこい」と語りかけた。
「あー、疲れた!」
それを合図に開いた扉から入ってきたのはキースと同じような、一般人の服を着たエドと、何人かの騎士だった。
「えっ!? いつから……!?」
驚きの表情で顔を見比べるリディアに、エドは
「んー、裏路地を歩いてたあたり?」
といつもの軽い笑顔を浮かべた。
「じゃあ俺は残ってる仕事にとりかかるから、お前たちは彼女を部屋まで送ってやってくれ」
そう言って、すぐに執務室へと戻ろうとするキースの裾を掴んで引き留める。振り返った彼は「どうした?」とまっすぐ目を見つめてきて、その予想外の反応に、リディアは思わず言葉を詰まらせた。
「あッ……ありがとう、いろんなところに、連れて行ってくれて……」
徐々に彼女の声は小さくなり、後半はきちんとキースの耳に届いたかどうか微妙な音量だった。リディアの言葉を聞いて少し目を見開いた彼は、すぐいつもの表情に戻り、
「いや、礼を言うのはこっちの方だ。いい息抜きになったよ」
とほんのわずかに眉を下げた。
「お嬢さんさあ」
執務室へと消えていく背中を見ていたリディアに、エドが周りには聞こえない小さい声で話しかける。
「ほんとはもう酔ってないだろ」
「……途中からいつも通りに戻ったらおかしいじゃない」
リディアの耳元で、青い花が揺れていた。