1話 目覚めた記憶
「リディア様」
主の名前を呼んだメイドのミラの視線が上を向いていたので、反射的に持っていた傘を開く。頭上から落ちてきた何かを受け止める手ごたえのあと、跳ね返ったそれが地面に叩きつけられて、ガシャンと大きな音をたてて割れた。
「花瓶……」
落下してきた元の場所を辿るように上を見上げると、そこでは真っ青な顔をした若いメイドがペコペコと頭をさげていた。大声で何か謝っているような雰囲気だが、遠くて声はよく聞こえなかった。悪意はない様子だったので、軽く手を挙げて気にしないで、と伝える。
「うん……これは使えそうね」
骨の部分を触って損傷がないか確認しながら傘を閉じる。布にも骨組にも傷や破れはなく、新品同様だ。きちんと防御魔法が作動したとみえる。どうやら、これを作った職人の腕は偽物ではなかったらしい。
「そうですね、追加でいくつか手配しておきましょうか」
ミラの無表情のままの問いかけに、リディアは赤みがかったブロンドの長い髪を軽くはらい、「そうね、そうしてちょうだい」と答えた。
”物語”の開始まであと二年、死ぬわけにはいかないのだ。
***
リディアが国境付近を領地とする公爵キースとの婚約を結び、今の屋敷に越してきたのはエレミヤ歴997年の秋のことだった。
家柄はそこそこ、貴族の中では上の下から中。そこそこ力はあるが、これ以上力を持たないよう制限されるほどではないという具合のアークェット家に生まれた彼女は、ごく普通の貴族の令嬢として育てられた。これといって何かに特別秀でているわけではないが、不出来でもなく、性格も特別穏やかでもなければキツくもない。これといって特筆すべき点のない令嬢だ。
だから彼女は、18歳になった年に両親がいきなり公爵との結婚話を持ってきたときも、特に反抗することはなかった。割にのんびりとした両親が、ふつうこの年頃になるよりもずっと前にはいるはずの許嫁を作らないでいたところに、突然降ってきた話だったとか。
急に婚約者となったその公爵は、リディアよりいくつか年上だった。それでも一応は同年代だが、彼は社交界などには顔を出さなかったので、それ以前の面識はなかった。国境に面した広大な領地で国を守る、帝国の剣であるローゼンブルク家の跡継ぎ。人付き合いが苦手だったという先代が息子の結婚相手を探さないうちに急逝し、家を継いだという噂が流れたのが2年ほど前。彼は後を継いでようやく落ち着いたので結婚相手を探していて、そこで白羽の矢が立ったのがちょうどいい家柄で年齢も近く、相手のいないリディアだったというわけだ。
キースは社交界に顔を出さないせいか、冷酷な人間だとか、果ては人をとって食うというものまで嘘か本当かもわからない話がまことしやかに囁かれていた。だからだろうか。一部の人はリディアの結婚を「人身御供だ」と噂した。
それでもこの国の貴族にとって、好き好んだ相手と結婚するというのは稀なこと。ほとんどの場合は家のためで、それを思えばこの結婚を拒否するなんて選択肢はリディアにはなかった。だから彼女はその話を何の疑問を持つこともなく承諾し、手続きを済ませて、一番信頼のおけるメイド一人だけを連れて馬車に乗り込み、国境近くの領地へと向かった。
異変が起こったのは結婚相手だというのに、それまで一切顔を合わせることはなかったキースとの初対面を控え、通された客間で眠った、翌朝のことだ。
「ん〜……」
ここ、どこ? おかしな夢を見た気がする。リディアは一瞬、今自分がどこにいるのかわからなかった。寝起きでぼんやりとする頭の中を探る。
そうだ、昨日キース様のところに来て——
キース様? ざわ、と胸が騒いだ。脳内に走る違和感。その名前になにかが引っかかる。頭が強く痛んだ。さっきまでみていた変な夢。ここではないどこかの景色、知らない人たち。
——あぁ、あれは夢じゃなく、記憶だ。
そのとき気が付いた。私は、この世界の人間ではなかった。
いや、正確にはこの世界の人間ではある。だが同時に、別の世界の記憶があった。
前世の記憶、と呼ばれるものだろうか。はっきりと頭の中に流れ込んでくる、二十数年分の人生。
この世界を創りだしたのは、私だった。
リディアの前世での名前は里奈。日本で平凡な会社員として生きていた。
そんな里奈の趣味は、ウェブサイトで小説を書くこと。ちょうどそのとき流行っていたのが西洋風の世界観を元にしたファンタジーで、彼女が書いていたのも例に漏れずそういう世界観の貴族令嬢の恋愛もの。
リディアの嫁ぎ先である公爵、キースは、そのメインの登場人物——それも、主人公が結ばれる相手だった。
里奈の書いていた小説の内容は、弱小貴族の令嬢であるヒロインが、偶然出会ったキースと紆余曲折の末結ばれる、という至ってシンプルなものだった。特別変わった設定があるわけでもないので、読者もごく少数。それでも彼女は忙しい中でもできるだけ毎日更新を欠かさず、余暇のほとんどは執筆に充てていた。最後の記憶は、夜に小説の更新をして、いつもと同じように家を出たところで——
「死んだ、のか。私」
つい話し方が昔のものに戻る。前世の小説サイトで流行していた転生物を参考にするのなら、前世の里奈は死んで現在のリディアに生まれ変わった、ということになるのだろう。
リディアはぐっと自分の手を握ったり開いたりを繰り返す。
——今の私も、私ではあるのよね。
不思議な感覚だった。前世の里奈も、現在のリディアも、両方が自分自身。今までリディアとして生きてきた記憶もそのままだし、そうであることに違和感もない。日本で見た、驚き体験! などと称したテレビ番組に出てきた前世の記憶を持つ子どものことがふと頭を過った。彼ら彼女らも、こんな感覚だったのだろうか。今の生活に不満はなかったけれど、思い出してしまうとやはりこの世界での生活はエンタメに乏しかった。ああ、テレビとネットが恋しい。こんなことになるのなら小説の中にそれらを登場させておくべきだった——などと、余計なことを考えている場合ではない。ここにひとつ、大問題がある。
リディアなんて人物は、小説の中に登場しないのだ。
——私って、誰?