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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

浮気した裏切り者のあなたには死ぬ程後悔して欲しいから

作者: 白水那由多

 澄んだ空の下。


 色とりどりの美しい花々が咲き乱れる自慢の庭園にて。


 そこに集い淡い色のドレスを身に纏った貴族令嬢たちは、いつものようにお茶会を優雅に開いている。


 召使いが銀製のティーポットから紅茶を注いでいるが、それに気を取られることなく彼女たちのお喋りが続く。



 様々な話をしている中、黄色のドレスを纏った娘がこう言った。


「ねえ、ねぇ、ところで知ってる? 最近、ある舞踏会で某侯爵令嬢に言いがかりをつけた男が、目の前で自殺を図ったらしいの!」


 彼女によれば、男は自殺する直前にその令嬢に向かって、彼女とは異なる女性名を叫んでいた。


 その後、男の身元を調べると、なんと男は殺人を犯しており、被害にあった女性は複数回刺されたうえ、男が叫んでいた女性の名前と一致したそうだ。



「あら。その話ではないけど、似た話なら数週間前に聞いたことがあるわよ」


 まあ怖い! と皆が驚いた顔をする中、紫色のドレスを着た娘は涼しい顔をしながらそう話した。


 彼女によれば、その男も女性の前で別の女性名を叫んでいきなり自殺をしたのだが、その前に女性を湖に沈めてきたらしいと言った。


 そして奇妙なことに、そちらも沈められた女性と男が叫んでいた名前が一致したと。



「何それ。言いがかりをつけられた令嬢と男が実は浮気をしていて、殺された女性は二人の邪魔になったから……とかではなくて?」


 そう問うたのは、タルトにフォークを入れたグリーンのドレスを着た娘だ。


「だってそれなら、知らないふりして当然じゃない。男性の方が勝手にやったとしても、共犯なのかと周りから疑われるのは御免だわ」


 しかし、先ほどの衝撃的な事件を話した娘たちは、揃って首を横に振った。


 驚くことに、両事件とも共通しているのは、言いがかりをつけられた令嬢と自殺を図った男との間柄は、その関係者全員が認めるほど、完全に見ず知らずの関係だったのだと彼女たちは言った。



「なのに相手の男はよりを戻して欲しいとか叫んでたんですって。なんて気味の悪い話なのかしら!」

 

 黄色いドレスの娘は、顔をくしゃっとさせて大袈裟に困ったような顔をした。



 それを見た一同は、同時に吹き出し笑いをした。


「何それ。話のオチはその殺されてしまった女性たちが実は同じ名前だったとかやめてよ!」


「やだ。確かに怪談話だったらそういう展開もありそう!」 


「というより、そんな変な男性に好かれること自体が恐ろしいわよね」


「そうね。何とも思ってない男の人から好かれてしまうのは意外とあること。だから、私たちも注意しないといけないわ! だって私たちは可愛いんだから!」


「そうそう。みんな今日のドレスも素敵だもの!」


「え、それってドレスが可愛いからってこと?」


 娘たちはもういやだと言いながら、楽しそうにさらに笑った。



 しかし、エミリアだけはその輪に入らなかった。


「あら。ゾフィーならそんな心配ないわよね、だって愛しの彼に夢中なんだから。仮にこの国の王子が惚れたから婚約して欲しいと言ってきても、絶対に動じないんでしょう? そこまで好きだなんて羨ましい限りよ」


 隣に座るゾフィーを見つめながら、エミリアはカップに一口つけて微笑んだ。


 一方、そう言われてしまったゾフィーは頬を赤らめた。


 しかし、彼女はエミリアの言ったことを否定はしなかった。



「そうね。エミリアの言う通りだと思うわ」


 ゾフィーは他の男性とトラブルになるような事はないだろうと微笑んだ。


 第一、自分には相思相愛の婚約者がいる。


 彼がいるというのに、他の男性に惚れられるような軽率な素振りはしたことがない。


 だから惚れられることもないだろう。


 自分を好いてくれているのは婚約者だけでいいのだ。


 そう思っていた。



 それに、ゾフィーの婚約者は現在任務のために遠方にいるが、まめに手紙を送ってきている。


 手紙には、今は我慢させてしまっているが、任務が終わったら早く会いたいという言葉と共に"愛している"だけではなく、ゾフィーのことを色彩豊かな花、満点の星、水面の煌めきなど、情熱的に例えたメッセージが常に添えられていた。


 自分たちの関係性に揺るぎなどない。


 他の娘たちも、ゾフィーたちの熱愛ぶりなら、誰も近寄らないだろうと言って笑った。



「でも……」


 そのように声を上げたのは、ブルーのドレスを着た、すこしふくよかな体形をした娘だった。


「逆に婚約者が他の女に言い寄られてたらどうする? 私、そんなことされたら、向こうは相手側に行ってしまいそうな気がするの。私はみんなと違って可愛くないから。取り戻せる自信がない……!」


 彼女は皆にそう質問を投げかけると、起こって欲しくない未来を想像して両手で顔を覆った。


 

 彼女に対して、皆がそんなことはないと声を掛けるが……


 その場にいた面々の反応は様々だった。


 あるものは自分だったら絶対に許さない、すぐ別れると言った。


 別のものは、自分は相手の事がそもそも好きでも嫌いでもない。だからこっちも好きなようにやると宣言した。


 さらに、別のものは、好きだからこそ関係を壊したくない。我慢するしかない、と静かに語った。



 かたや、話を黙って聴いていたエミリアは、左指に嵌めたピンク色の石がついた婚約指輪を右手の指先で触りながら、私だったら許せないと呟いた。


「でもゾフィーは? 婚約者がそんな事をしてたらどうする? とっても一途なんだもの。平手打ちの一つや二つくらい食らわせたくなる感じかしら?」


 とても興味しんしんだと言うように、目を輝かせるようにしてエミリアは彼女に尋ねた。



「私は……」


 ゾフィーは声を詰まらせた。


 なぜなら彼女には答えようがなかったのだ。


 そんな事、実際に考えたことは一度たりともなかったのだから。


「正直言って、その時になってみないとわからない。彼がそんな振る舞いに出るということは、もしかしたら私に不満があったのかもしれないし」


 真剣な顔をしながらそう返すと、真面目に考えるなんて本当にゾフィーらしいとエミリアは無邪気に笑った。



 二人の様子を見ていた赤いドレスを着た娘は確かにねと呟いた。


「そうね。いくらここでは自分は冷静に対処できるって言い張ったって、実際に起きたらどうなるかわからないもの。まあ、私なら相手の女の首を締めに行ってしまいそうだけど。ところでね……」


 他の仲間からも同調する声が上がったが、深刻な話は皆嫌いなのだろう。


 すぐさま話題は彼女によって、別の話へと切り替えられた。


◆◆◆


 その日、ゾフィーは家族に連れられて親類が住まう隣国へと招かれていた。


 隣国と言ってもさほど距離は遠くなく、むしろ自国の隣の都市よりも近いといった具合だ。


 しかし、ここは大した娯楽がなく、ゾフィーは窓の外を見てため息ばかりついていた。


 そのように日中は暇を持て余していたところ、親類の年の近い女性から、今夜知り合いが行う夜会に出かけないかと誘われた。



 もちろん、ゾフィーは喜んで参加した。


 あいにく外はしとしとと降る雨で少し気を滅入らせたものの、ゾフィーは到着した屋敷に目を輝かせた。


 誘われて向かった先の屋敷はこの辺りでもとりわけ大きく壮麗な佇まいをしており、雨に濡れた大地が屋敷の明るさを反射させ、より一層美しくみせていた。


 内部は同じように退屈さから抜け出したいのか、予想以上に多くの人で溢れかえっている。


 ゾフィーはその人たちをしり目にしつつ、自分の国とは異なる文化に好奇心を刺激された。



 しかし、少々はしゃぎすぎたのだろうか。


 踊りつかれて休もうと、彼女は一人になれる静かな場所を探していたところ、ある状況に出くわした。


 それは静かな場所で情熱的に愛を語り合っている、何の変哲もない恋人同士に見えた。



 だが相手の男の顔をよく見れば……


 なんと、ここには本来いないはずの婚約者だったのだ。


 あの特徴的なプラチナブロンドの髪は間違いない。

 

 彼はゾフィーではない他の女性とキスをして、抱擁しあっていた。



 ゾフィーはこの光景に、先日の茶会でのやり取りを瞬時に思い出したが、いざその場面に出くわしても、動く事ができず影から様子を伺うのが精一杯だった。


 そして女の顔は影になっていてよく見えないが、妙に聞き覚えのある声をしている。


 さらに女は、自分が結婚しても愛し続けてくれるか、ゾフィーよりも自分のことが好きかと婚約者に尋ねた。



 その瞬間、ゾフィーの体に戦慄が走った。


 なぜ自分の名前を彼女が知っているの?!


 ゾフィーは心臓が張り裂けるかと思うほど、鼓動が早く鳴り響くのを感じ取っていた。


 この時、彼女がさっと両耳を塞いでいれば、状況は変わっていたのかもしれない。


 しかしながらそうするよりも前に、彼女の耳には婚約者の言葉がこう届いた。


「困った質問だな。好きな種類が違う。ゾフィーは人間として好き。でもエミリアのことは女性として好きなんだ。正直俺は君の婚約者に嫉妬してる。男として。だから君が結婚したとしても、俺が結婚したとしてもお互いにずっと好きでいよう」



 エミリア……?


 エミリアですって?!


 聞き間違いでなければ、エミリアって確かに聞こえたわ!

 


 婚約者から女の名前を聞いた瞬間、ゾフィーは自然と片手で口を押えていた。


 さらに婚約者はこうも言った。


「そうだ。もしゾフィーとの間に女の子が生まれたら、愛の証としてエミリアって名をミドルネームを入れようかな」


「あら! それならゾフィーもきっと喜んでくれると思うわ。それじゃあ、もし私が男の子を産んだらあなたの名前をつけようかしら。でも、私が産む子はあなたの子供かもしれないけど。ふふふ」


「お互いに秘密の共有という訳だ。そそるね。でも子供同士がもし恋に落ちてしまったら大変だ。まあ、そこは上手くやろう。それより……あっちにいこうか?」


「やだ、もう我慢できなくなったの?」


 二人は笑い合い、女性は婚約者の腕に持たれるようにして、廊下の先にある小部屋と移動し始めた。



 ゾフィーはさらなるショックのあまりに凍りついたが、彼女の不幸はこれだけに留まらなかった。


 心の中ではどうか違っていて欲しい。そう願っていた。


 けれどもその願いは叶わず───


 移動していく最中、蝋燭の明かりに照らされて見えた女の顔は、いつも友人として彼女の隣に座っているエミリアだった。



 その場にへなへなとゾフィーは座り込んだ。


 見間違うはずなどない。確かに彼女もこの国に親戚がいると言っていた。


 なぜエミリアと? 彼女だって浮気なんて絶対許せないと言ってたではないか。


 途端に気持ち悪さを覚えたゾフィーは、なんとか気力を振り絞って立ち上がって家族の元に急ぎ、一人で帰ると言って、馬車に乗りその場を去った。



 馬車が走り出した途端、ゾフィーは堰を切ったように泣き出した。


 婚約者を交えて、エミリアも含んだ友人たちとはしょっちゅう会っていた。


 二人は一体いつからそんな関係だったのか。


 誠実だと思っていた彼の本性は、とても不誠実な人間だった。あのまま、自分が知らなかったらどうしていたのだろうか?


 まるで、彼は突然別人にでも変わってしまった、というような感覚にゾフィーは陥っていた。



 ガタン。


 急に大きく車体が揺れた。


 続いて馬の嘶きが聞こえたと思ったあと、馬車が急に全く動かなくなった。


 どうしたのだろうか。


 ゾフィーは窓から外を見たが、親戚の家に到着したわけではない。


 また、親戚の屋敷から出た時に降っていた雨は止んでいるものの、暗くてよく見えないがどうやら外は霧が立ち込めているようだった。


 そのため御者が道を確認しにでもいったのだろうか。けれども、それなら一声掛けてくれるはずだが……



 不審に思った彼女は御者に声を掛けた。けれど返事はない。


 思い切って外に出てみると、霧の深い森で彼女はポツンと馬車ごと残されてしまっていた。


 なぜこんなところへ? 来る時はこんな場所は通らなかったはずだ。


 ここはどこ? そして御者はどこにいってしまったのか? 一体、なぜ置き去りに?


 この状況にますます不安を募らせた彼女は叫んだ。


 それでも返事は全くない。



 しかも遠くからはフクロウの声だけならまだしも、野犬なのか、狼なのか、空に向かって叫ぶような遠吠えが聞こえる。


 霧の影響で気温も低く、両手で腕を摩りたくなってくるような寒さがさらに彼女を襲う。


 このまま森にいるのは危険だと思った彼女は、御者の席に置きっぱなしになっていたランタンを手に取った。


 手を伸ばしてよく目を凝らしてみれば、何か灯のようなものが少し遠くに見える。


 民家、あるいは教会だろうか。


 ゾフィーはここを離れるべきだと判断し、慣れない馬車を走らせて、一晩過ごさせて貰えないかと頼みに行くことにした。



 到着したのは、天まで届きそうなファザードを持つ古びた屋敷だった。


 古めかしい鉄の扉をノックをすると、年老いた執事が彼女を出迎えた。


「すみません。道に迷った上に馬車の御者に置き去りにされてしまったのです。どうか一晩泊めさせていただけないでしょうか」


 そう執事に頼むと、彼は無言のまま頷き、丁寧な仕草で手を奥の方へと向けた。



 館内は大きな屋敷の割にはとても殺風景な様子だった。


 通常ならこのような屋敷なら、美術品の一つや二つはあってもおかしくないのに全く何もない。肖像画すらないのだ。


 まるで、引っ越してきたばかりの所に来たようだと彼女が感じていたところ、執事に通された部屋まで行くと中にはすでに人がいた。


 黒髪の男性で、年頃は40過ぎくらいだろうか。


 執事が恭しく頭を下げたため、彼がこの屋敷の主人である事は明白だった。



「ようこそ、いらっしゃいました。ゾフィーさん。そんな顔をなさっているなんて、とても傷ついているようですね。まあ、無理もありません。さあどうぞおかけになって」


 彼に長椅子に腰掛けるよう示されたゾフィーが、どうして自分の名を知っているのか尋ねるよりも前に、彼はまるで現場を見ていたかのように先ほどの婚約者との一件を言い当てた。


「な……なぜ、その事をご存知なのですか?」


 驚いているゾフィーのその問いに、男は真剣なトーンでずっとここで魔術を研究しているのだと言った。


「だから私からしたら、人の業を見抜くといったものはお手のものなんですよ」



 男はさらにこう語った。


 ゾフィーの婚約者は元々軽薄な性格で、エミリアも一人の男性では満足できないタイプだ。


 ただし、彼女は計算高く、秘密を隠し通す。互いの領域を侵さず、秘密の関係を楽しみたい二人は、妙に気が合ったのだろう。


 また、人は理解しがたい事象を、相手を別次元の存在や、特定の類型に当てはめて納得しようとする。


 例えば、エミリアがゾフィーに嫉妬し、婚約者を奪ったとか、情熱的な国の出身だからだとか考えるなら、それは恋愛を知らない者の発想だ。


 嫉妬で寝取るというのは、された側の都合の良い解釈に過ぎない。


 実際は単純で、欲望に忠実か、抑えられるかの違いだ。二人は罪悪感よりも欲望を優先した、ただそれだけ。


「それも人間らしい感情ですよ。ちなみに、どちらが先に誘ったか、知りたいですか? 私にはそれも分かりますよ」


 男は軽く笑いながら、両手を広げてそう言った。



 一方でゾフィーの顔には悲しみの色しかなかった。


 彼らは欲に忠実といわれても、それを元に自分には見えない絆を紡いでいる。


 そして、その欲に共感できない自分は彼らの世界の外におり、まるで自分など価値がないと言われるかのように感じていた。


 果たして、どちらが先に好きになったのか知りたいか?


 そう問われたものの、ゾフィーは首を横に振った。


「ほほほ……そうですね。懸命な判断だ。それを知ったところで何の意味もない。むしろ知ったところで余計にあなたが傷つくだけです」


 真実を知ったところで、結果は変わらないという男のさらなる言葉に、ゾフィーは気がつけばまた涙がぼろぼろとこぼしていた。



 男は、彼女が落ち着くまで辛抱強く待った後に口を開いた。


「それであなたはどうしたいとお考えですか?」


 先ほどの涙で、少し気持ちに整理がついたゾフィーはこう答えた。


「あんな人だとはつゆにも思いませんでした。いえ、もしかしたら気づかないふりをして自分を誤魔化していたのかもしれません……本当に、今言えるのは彼を好きだと思っていたのがバカバカしいと思うくらいに辛い。いっそ全てを忘れてしまったらどんなに楽なことか……」


 ゾフィーの目には再び涙が現れ始めていた。


「それにもしかしたら……」


「もしかしたら?」



 これは罰なのかもしれない、と彼女は目を瞬かせなかがらそう言った。

 

 実は今の婚約者から婚約を申し出た時に、同時に幼馴染からも婚約を申し出され、自分はそれを断って酷く彼を傷つけてしまった。


 婚約者が大量の薪の上で揺らめく炎というのならば、幼馴染は揺らぐことのない静かな水面。


 こちらを熱心に口説いてきた婚約者と比べてしまうと、幼馴染は物足りなく、また頼りなさを感じてしまったのだ。


 断ってから数年経つというのに、彼は未だに恋人がいないと聞いている。


 婚約者よりもずっと長くそばにいてくれたのに。


 彼なら本当に誠実だとわかっていたはずなのに。


 自分の事よりも相手を思ってくれる性格だと知っていたのに。


 婚約者と婚約を決めたと伝えた時も、静かにおめでとう、幸せになってねと言ってくれた……


 その報いなのかもしれない、とゾフィーは泣きながら話した。



 男は彼女に同情を寄せるような表情を浮かべた。


 しかし、すぐに何か含みを持たせた笑いに切り替えた。


「さあ、ところで!」


 声を少し大きくして、彼は手をぱちんと叩いた。


「驚かないでくださいね? 実は私は好都合なことに、記憶を消し去る方法を知っているんですよ。そんなにお辛いならぜひ協力して差し上げたいところ……ただし、本当に彼の事を愛していた記憶は完全に消えますが、それでもよろしいですか?」



 男の言っている事は突拍子もない。


 記憶を消す? 一体どうやって? 


 ゾフィーはその場で固まった。


「まあ、そんな事を言われても信じられないと思うのは普通ですがね。でも私は実際見ず知らずのあなたの名前と、先ほどの一件を言い当てました。けれど、なんでそのような事ができるんでしょうかね?」


 それを出来たのは、彼も実はあの現場をこっそり見ていたのだろうか?


 一瞬、ゾフィーはそのように考えてみたものの、自分がここにやってきたのは本当にただの偶然だ。



 やはり本当にこの男性は魔術師なのだろうか?


 いや、過去に魔術師がいた伝説は聞いているが、そんなのを間に受けるのは愚かしい。


 魔術師なんて、結局ただのおとぎ話の存在でしかないだろうと返したくも、ゾフィーは答えに詰まった。


「信じられないと顔に出ますね。私が詐欺師かもしれないとお思いなのかな? いえいえ、そんな訳ありません。ご安心ください。お金など今の私にとっては何の価値もない。それよりももっと欲しいものがあるのです。でも、清らかな心を持つあなたからは頂けないので要りません」



 では、質問を変えましょうかと彼は言った。


「彼の気持ちをあなただけに向けるようにする、というのはいかがでしょう」


「え……? あの人の気持ちを私だけに……?」


「はい。エミリアに向ける情熱を完全に断ち切り、あなただけに向けさせるのです」



 ただし! と男は人差し指をピンと上に向かって上げた。


「あなたは裏切られた記憶を持っている事に変わりありません。エミリアへの気持ちを切れたとしても、いつかまたエミリアの方に、いや、もしかしたら新たな女性に気が向くかもしれないと日々不安にならない自信はありますか?」


 男のその言葉に、ゾフィーはまたしても黙ることしか出来なかった。


 婚約者を繋ぎ止めておく自信を問われたならば……


 今までのゾフィーならば、自分たちには揺るぎない絆があるからきっと大丈夫。彼を信じると答えていたに違いない。

 

 だが結局のところ、そんなものはただの儚く消えていった幻にしか過ぎなかった。



 そして、男はさらにこのように問うてきた。


「あなたはこの裏切りを覚えている。でも相手は綺麗さっぱり過去の事は忘れて、あなたとの日々を楽しもうとする。それを許せるのか、許せなく思うのか……どちらなんでしょうかね? やり直すと言うのは自分自身との戦いでもあるんですよ」


 ゾフィーはその問いに、先ほどの二人の会話を思い出した。


 人間として自分のことは好き、でも女としては……



 あの場で彼が語っていたのは本心だったのだろうか?


 それともエミリアを喜ばすための嘘?


 自分は人に対して誠実であろうと常にしてきた。


 でも彼は……



「きれいさっぱりあなたが忘れて新しい道を行く。そうではなく、彼がきれいさっぱり忘れてあなたとやり直す」


 男は席から立ち上がると、棚の中にしまわれていた黒いボトルを取り出してテーブルにそっと置いた。


「重大な決断ですからね。ご自身が納得のいく答えが出たら教えてください。そうしたら、このボトルの水にあなたの願いを掛けましょう」


 ボトルはよく冷えているのか水滴がついている。


 その水滴が下へゆっくりと垂れていくのをゾフィーは見つめた。


◆◆◆


 急にあたりが眩しくなった。


 ゾフィーは力いっぱいに何度も目を閉じたり開いたりしていると、白くぼやけた光景からはっきりと誰かの影をとらえた。


「大丈夫?」


 目の前の影が優しくそう聞いてきた。

 

 ゾフィーが大丈夫と答えると、影の主の姿がはっきりと見えた。


 尋ねてきたのは彼女の婚約者だった。


「ええ、大丈夫……ごめんなさい! 寝てしまったのかしら?」



 彼女は彼に体を預けていた姿勢を正すと、カタカタと体に振動が伝わるのを感じた。


 どうやら自分は馬車の中にいるのだと彼女は気が付いた。


「うん。俺の肩に寄りかかってぐっすり寝てた。よほど今日は緊張と準備で疲れていたのかな? どんな夢だったの?」


 婚約者がゾフィーに向って尋ねると、彼女はよくは覚えていないがとても悲しかった夢だと答えた。


「そう。でもそれなら安心して。もう夢からは醒めてるよ」


 婚約者はゾフィーの手の上に、そっと優しく自身の手を重ねて彼女に向って微笑んだ。


 手の甲に確かな彼の温もりを感じる。


 自然とゾフィーも彼に向って微笑み返した。



 それから馬車は目的地に到着した。続々と他の馬車も到着している。


 ここは王宮だ。


 今夜は宮廷主催の舞踏会が開かれる予定で、貴族や僧侶たちはしっかりとめかしこんでいる。


 さらには来賓として、外国の王室や貴族たちも招かれていていた。



 ゾフィーと婚約者がそろって数千人は優に入れる大広間に行くと、すでにいつものゾフィーの友人たちが揃っていた。


「あらゾフィー。それに愛しの彼も。あなたたちって本当に仲が良いのね。今日はいくら久しぶりだからって、まさか二人ともお揃いの色で揃えてくるなんて! どこまで仲良しなの?」


 友人の一人からそのように囃し立てられると、ゾフィーと婚約者は同時に顔を赤くして下を向いた。


 今日はそのようにするつもりは全くなかったのだが、何となく選んだ服装の色がお互いに同じものだったのだ。


「まあ、まあ。いいじゃないの。ゾフィーたちはようやく会えたんだから。ねえ、ゾフィー? 彼がやっとこちらに戻ってこられて良かったわね。次はワルツが始まるわ。さあ、踊ってきなさいよ」


 他の友人たちからも、そうよ、そうよという言葉が上がり、ゾフィーはお言葉に甘えてと婚約者と共に踊りの輪に加わった。



 音楽が始まり、婚約者の手が自身の腰に回される。

 

 踊っている最中、彼女が彼を見つめると、彼も同じく彼女のことを見つめ返して嬉しそうな笑みを返した。


 途中で彼がゾフィーに何かを囁いた。


「今、なんて言ったの?」


 そう彼女が聞き返すと、婚約者は顔を少し赤くして何でもないと照れ笑いをしていた。


 聞き返したもののゾフィーは婚約者が何と言っていたのかわかっていた。


 きっと恥ずかしがり屋の彼が言った言葉は……


 静かに愛情を返してくれる彼を選んで良かったとゾフィーが改めて感じたところで、ちょうど曲が終わり、再び彼女達は友人達の元へと戻った。



 しかし、戻ったところでいつもと様子がどうも違う。


「あら? ところでエミリアはどうしたのかしら? 今日は宮廷が主催する舞踏会なのに……もしかしてまだ来ていないの?」


 エミリアはいつもなら皆が集まる時間よりも早く来る。


 まだ来ていないことにゾフィーが首を傾げていると、他の友人たちはざわめき立った。


「ちょっと、ゾフィー。なんでエミリアのことなんて心配しているの?」


「……え? どういう意味?」


 ゾフィーのその問いかけに、その場にいた友人たちは一斉に苦虫を噛みつぶしたような顔をした。


「あっ……仕方ないわ。ゾフィーはあの場にいなかったから」


 少しふくよかな体型の友人は、こう話してくれた。


 

 実は最近のエミリアは、自分の婚約者にやたらとちょっかいを出していた。


 それに困った彼女の婚約者は物凄く迷惑してる、エミリアがいる集まりには自分は行きたくない、と彼女に正直に話した。

 

 そのため、彼女はどうしてあの子がそんな事をするのか、どうやったらやめてくれるのか、と思い切って友人達に相談することにした。


 するとなんと、エミリアは自分以外の婚約者にも声をかけていたという事実が判明する。


 仲間内のことだったため、該当者はみんなに相談しにくかったそうだ。

 

 そういう訳で該当者のみで集まり、なぜそのような事をしたのか、みんな知っているのだからやめて欲しい、謝って、とちょうど一週間前、エミリアに直接文句を言いに行ったのだが……



 私は一切そんな事をしてない! あなた達の婚約者に興味なんてない!


 それよりも淫乱な女とは結婚できないと、昨日、私は婚約者から一方的に婚約破棄されてしまったのよ!?


 ……そうよ。あなた達が面白おかしく変な噂を彼に流したのね!?


 私が珍しいピンクダイヤの指輪を貰ったり、名家に嫁ぐからって、みんな嫉んでいたんでしょう!?


 最低よ! あなた達なんて、もう友達でもなんでもないわ。大嫌い!



 彼女は泣き腫らした顔で、そのように言い張ったという。


「一体、あの子こそ何言ってるの? って感じでしょ。これだけ証言も集まってるというのに。浮気の誘いに加えて、当たり前のように嘘をつく。おまけに婚約破棄されたのは人のせい。だから、金輪際、あなたこそ私たちとは関わらないでって言ってきたわ」


 そう言った別の友人は、さらに続けた。


「でも、私たちの婚約者はアプローチされても全然彼女には興味なんて沸かない、むしろ必死すぎて怖いとしか思わなかったんですって! 何が彼女をそんなに突き動かしたのかわからないけど哀れよね」



 同じくその場にいた、さらに別の友人も少し小馬鹿にするようにして笑った。


「ええ。きっと嘘をつきすぎて訳が分からなくなってるんでしょうね。本当におかしいわ、あの子。自分が関係を持ったのはゾフィーの婚約者とだけ! ってとんでもない事を言ってたのよ。けれどその話もあり得ない。だって、マクシミリアンは私の父と共に遠方にずっといたというのにね。彼女の所になんか行けるはずがないのに」


 だから、あの子がここにきたところでもう前のように一緒にいるのは……


 友人がそう言いかけた時だった。


 

「ゾフィー!」


 突然、彼女たちに向って、見知らぬ男がそう声を張り上げた。


 彼の目は血走って、頬は痩せこけて必死な形相をしている。髪の毛も整えられておらず、寝起きのように乱れたままだ。


「どうして会うのを拒否するんだ! 手紙だって出しても返事を返してくれやしないじゃないか!」


 さらにそう叫びながら、彼女の方へじりじりと近づくと目を見開いたまま口角の両端を上げた。


「宮廷主催の舞踏会なら来ると思っていた。やっと君に会えた! ……やはり君しかいないと思っている。エミリアの事は一生謝るからもう俺を許してくれ!」


 男はさらに彼女の前に膝をつき、お願いだから、お願いだからと繰り返しながら、人目も気にせず四つん這いになって彼女に何かの許しを求めた。



 一方、ゾフィーは戸惑うしかなかったが、気味の悪い男は周囲の目も構う事なく、さらに彼女に向かって叫んだ。


「突然エミリアが急に気が狂ったように俺のところに押しかけて、何度も何度も自分の事を愛しているかと尋ねてくるようになったんだ!」


 それだけはない!


 俺の家ならず、仕事をしているところにも現れるようになった。


 拒絶しても全く動じない……


 だから彼女の家に向かい、こんな真似はしないで欲しいと話し合おうとした。


 だが、彼女は自分はそんな事をしにいっていない、知らないとシラを切る!


 そして自分が家に帰れば、勝手に家に入り込んだエミリアが微笑みながら自分の家でさも寛ぐかのように紅茶を飲んでるんだ!


 全く意味がわからない!


 どうしてこんな事をするんだと聞けば、ゾフィーに俺たちの関係を話さないと俺の愛が信じられないというんだ。


 君よりも自分の方を愛してるんだと、直接君に言ってほしいと言ってくるんだ!



 ああ、ああ……


 もう彼女はおかしいんだ。気が付けば街中でも俺のことを見つめている。


 そして気づいた瞬間に……


 前に立っている!


 横に立っている!


 後ろに立っている!


 さらには、ベッドの中に毎晩入り込み、挙句には窓や鏡の中に映りこんでで俺の事を見て、愛してる? って何度も聞いてくるんだ!



「あんな女はもう嫌なんだ! お願いだ! 僕は君に誠実ではなかったことを死ぬほど後悔してる。だから戻ってきてくれゾフィー! どうか助けてくれよ!」

 

 男は叫びながら立ち上がり、ゾフィーの手を掴もうと近づいたが、怯えた彼女は瞬時に後ずさりした。


 彼女の婚約者も手を伸ばして守る態勢を取った。


 彼女たちが親密な関係なのは明らかだ。


 男はゾフィーの婚約者に向かって指を指して、思い切り睨みつけた。



「なんだよそれ……この男は?! なんで恋人みたいな真似をするんだよ! 婚約者は俺だろ! この男は一体誰なんだ!?」


 胸に手を置き、叫んでいる男は今にもゾフィーの婚約者に掴みかかりそうな勢いだ。


 しかしゾフィーは、私はあなたなんて全く知りません! 誰かも分かりません! と婚約者に守られながら身に覚えはないと叫んだ。


 彼女の周りにいる女友達、さらにはその婚約者たちも本当にこの男は何者なんだ? と意味が分からないと言った顔をしている。


 さらには、あるものは完全に気が触れてしまっていると囁き、またあるものは怯えた様子を見せたり、呆れている表情をみせた。



 全員がまるで会ったことがない、お前とは全くの赤の他人ではないかという表情に、男は顔を絶望の色に変えた。


 男はどうして、どうして誰も自分の味方になってくれるものはいないのだと叫んだ。


「そんな……皆してどうしてそんな嘘を? あんなにも仲良くやっていたじゃないか! ほら、そこの君なんて、俺とゾフィーが絵描きに頼んで書いてもらったポートレートを誕生日にプレゼントしただろう? そっちの君には帽子を……」

 

 過去あった出来事を彼は語るものの、誰一人、彼に声を掛けたり近づこうとするものは居なかった。



 あまりの周囲の無反応さに、なぜか突然男は肩を震わせ始めた。


 諦めから来たものなのか、この状況が異常なことに耐えきれなくなったのかは不明だが、はははと笑い声を上げ始めた。


「ははは……ははは……そうか。そうか! 俺とエミリアとの関係を知ったから、ゾフィーのためにみんなでやり返そうとしてるのか?」


 男は笑いながら再び床に膝をついた。


「もうさ……それなら本当に謝るから。どうかもう一度やり直すチャンスをくれ! ほんの出来心だったんだ! 彼女のことは本気じゃなかったんだ! 俺が愛しているのは、人間としても女性としてもゾフィーだけなんだ!」


 笑い声を混じらせながら男がゾフィーに謝罪していると、誰かが彼に近づいた。



 それはゾフィーの父だった。


 この異常事態を聞いた彼女の父は広間に駆けつけて、男に向って落ち着かせるように君……と後ろから声を掛けた。


 すると男は振り返り、まるで希望の光を見つけたかのような笑顔を見せた。


「ああ、伯爵殿! どうか彼女たちのいたずらを止めさせてくれませんか。ゾフィーの婚約者は俺だっていうのに……あなたともしょっちゅうチェスを対戦して、俺が負けるとゾフィーが励ましているのをここにいる皆も見ていたではありませんか!」



 だがゾフィーの父は、一瞬だけ片眉を上げた後、努めて冷静な口調で彼にこう返した。


「いいかね、若者よ。どうか落ち着いて話を聞いて欲しい。何を勘違いしているかわからないが……うちのゾフィーは君と婚約していたことは一度たりともないのだよ。娘の婚約者はずっと幼馴染の彼、マクシミリアンなんだ」


 そう言って父は、すっかり怯え切ったゾフィーを両手でしっかり抱き寄せている、茶髪で巻き毛の男を指差した。



 自分は婚約者ではないと、ゾフィーの父からすらも否定された。


 唯一の望みである人物からも否定されたことで、そんな、そんな……と男は繰り返す様に呟き、もつれたプラチナブロンドの髪を両手でくしゃくしゃにした。


「取り乱してしまうほど何か辛いことがあったのかね? それならここは王宮だ。食事もたんと用意されている。満腹になれば辛いことだって吹き飛ぶさ。しっかり食べて帰るといい。ほら、あそこには美味そうな炙り肉、甘味、そして酒が……」


 優しい声でゾフィーの父が話しかけたものの、男は突然顔を真っ赤にして獣のような唸り声をあげて彼のことを突き飛ばして、広間の中央への方へと進んだ。



「なんなんだよ! どいつもこいつも! 俺のことを馬鹿にしやがって! 俺は……俺は……ゾフィーの事をこんなにも愛しているというのに!」


 男はさらに大きく叫んだあと、上着の内ポケットをまさぐって何かを取り出した。


「ほら、見てみろ! 見てみろ! 俺は彼女のためにこんな事もやったんだ!」


 男は笑いながら叫ぶと、それを野次馬の最前列にいた派手な服装の貴婦人に向って投げつけた。



 びたんという音と共に、何かが床に落ちた。


 群衆がよく目を凝らしてそれを見ると───



 それは何か刃物で切断し、土気色をした人の手だった。


 黒ずんだ長い爪に、変な方向に折れ曲がった細い指。


 だが薬指に嵌められたピンク色のオーバル型の石が添えられた指輪が、きらきらと不釣り合いに輝きを放っている。


 腐ってはいるが明らかに女の手だとわかるものだった。


 そしてその持ち主はきっと……



「きゃあああああ!」


 目の前にそれを投げつけられた貴婦人の叫び声を皮切りに、この事態に気付いた招待客たちは目の前の異常者から逃げ出そうと、一斉に出入り口方向へ逃げ始めた。


 皆早く逃げろ、早く逃げろと逃げまどう中、一人の少年がその場に倒れた。


 すると、男はその少年の事をじっと見つめた後、ビクビクと震え始め、顔を歪ませながら両手で頭を押さえ、なんでまだ生きているんだ! と叫んだ。



「ああ! 本当に本当にいい加減にしてくれ! 君の事を何度も何度も殴り、見つからないように目をえぐり、話せないように舌を切り取ったのに! 体もナイフでバラバラにして、川に流し、湖に沈め、頭は野犬にくれてやったというのに! まだ足りないのかよ!」


 俺に向って指を指しながら笑うのはやめろ! その甲高い笑い声は耳障りだ!


 男は動けずにいる少年に向ってさらにそう叫ぶと、腰に嵌めていたベルトから銃を取り出して少年へ向けた。


「エミリア。お願いだからもう終わりにしてくれ。もう俺は君の事が……死ぬほど大嫌いなんだよ! 何度殺せば気が済むんだよ!」


 微かに震える銃口を、少年の頭に向けて男は引き金を引こうとした。



 だが───



 それは一瞬の出来事だった。


 まず先に彼らの頭上の明かりが消えた。


 プツンと何か紐が切れるような音がした。


 それから会場の中に黒い影が通ったと思った次の瞬間、ガシャンと派手に大きく何かが割れる音が広間内に響いた。


 埃が舞い、周囲にはその破片と蜜蝋が方々に飛び散っている。


 続いて見えたのは、穏やかな波が岸辺に押し寄せるように、静かに冷たい床の上に広がっていく赤い液体だった。



 ああ、大変だ。なんて事だ!


 シャンデリアが落下したぞ! みんな下がれ下がれ!


 ……待て! 微かに動いた! 異常者はまだ生きている!  警備兵、発砲の準備を!


 大丈夫ですか、王子!? 他にけが人は……



 そのような声や銃声が広間に響く中、目の前の惨劇を否定するかのように、ゾフィーは婚約者にしがみついて目を伏せた。



 あなたのせいなのね……


 一瞬、恨みがましい聞き覚えのある女性の声が、鮮明に耳に響くのをゾフィーは感じ取っていた。


 しかし、それはどこから響いているのかわからない、轟々と激しく鳴る風のような音の中にすぐに消えていった。



 私のせい?


 ……いいえ、あなたたちの自業自得じゃない。


 人のせいにしないで。


 自分を守るようにしてその場から退出する婚約者の腕に抱かれながら、ゾフィーは無意識のうちに微笑むのだった。


◆◆◆


 霧の深い森の館。


 口の広い水の張った壺の水面が二度揺れた。



 おお、肉体から離れた罪深い二つの魂がやってきた。これでようやくあの忌々しい結界が解かれる!


 男は屋敷の外に出ると、屋敷の周りを覆っていた霧が徐々に晴れていくのを見守った。


「ほほほ……ゾフィーさん。あなたの願いはきちんと叶ったようですね」


 あの時のやり取りを思い出しながら、男は喜びに満ちた表情を浮かべた。



 彼が二つの提案をしたあの時。


 俯いていた彼女は急に、はっとした表情で顔を上げた。


「あ、あの! もしその二つのことが出来たとしても、やはり自分の心の中でどこか納得できない部分が残ると思うんです。だから……だから……」


「だから?」


「だから……二人に自分たちの行いに対して、何か後悔させるようなことはできませんか?」



 後悔!


 男はまるでその言葉を待っていたとでも言うように、一段と愉快そうな大きな笑い声を上げた。


「あぁ。何てことだ。素晴らしい思いつきだ! でも後悔といったって、どの程度のものをお望みなんでしょう?」


「えっ? 程度って……?」


「そうですねぇ。例えば出かけるたびに鳥の糞を落とされるとか、スリに会うとか、ここぞというときに大雨に降られてしまうとか……これはあくまでも一例ですが」



 ゾフィーはそんな現象が地味に続くなら、確かにざまあみろと思うかもしれない、と微かに笑った。


「あらあら。今、お笑いになりましたね。でも結局のところ、それであなたは現在の婚約者と関係を続けたいのですか? それとも終わらせたいのですか?」


 男からのその問いに、ゾフィーの顔には再び迷いが生じ始めた。


「まあ、仮に別れない選択をしたとしても、続く不運が関係を続けているから、と言う事にそもそも彼らは気づかないと思いますよ。何か分かりやすい大きなきっかけ……つまりあなたと別れたからとかでもない限りは」


 別れと言うはっきりした言葉にゾフィーは反応し、自然と手を強く握りしめた。


「それに優しいあなたのことです。婚約者が不運に遭っているのを目の当たりにしたら、本当にこれで良かったのかと、あなた自身が自分の選んだ事に、後悔をするのではないかと思いますよ」



 二人の間に再び沈黙が広がる。


 俯いているゾフィーを前に、男がその静寂を破った。


「ところで密会していた時、彼はエミリアに向かって、彼女のことの方が好きだと答えることだって出来たはずです。けれどもなぜ、そう言わなかったのかわかりますか?」


 ゾフィーは顔を上げた。


「あなたは微かに、彼があなたのことを人間として好きと言った事に───実は彼はあなたの方を愛していると希望を抱いていたのかもしれませんね。でも……彼がそう答えたのは、結局二人の事を真には愛していなかったからですよ」



 彼自身は上手く棲み分けながら、あなた方を愛していると思っているようですが……


 人の心なんて移ろいゆくもの。

 自分の中で、そんなにはっきりと恋愛対象を区別しながら愛することなんて出来ません。


 彼が愛してるのは、結局他でもない彼自身なんですよ。まあ、ありきたりな話なんですけどね。


 残念ながら、好きということ以前に、彼にとってあなた方は都合がいい存在というだけなのです。


 けれどもまあ、自分可愛さいうものはとっても厄介だ。


 それを認めてしまえば、彼は彼自身を残酷だと認めてしまうことになる。誰だって自分が悪にはなりたくないでしょう?


 だから、彼はあなた方を愛していると誤魔化しているのです。自身に嘘をついているのです。


 そして、最も恐ろしい事に、彼は自分自身に嘘をついていることに気づいていないのです。気づこうともしないのです。


 彼はあなたたち二人を愛している、という嘘をね。



「それでも、彼のことを献身的に愛したいと言うのなら私は止めませんよ。盲目的な愛に生きる人生もそれはそれで幸せでしょう。そうだ! なぜ思いつかなかったのでしょう。あなたには密会のことを忘れてもらい、彼の方はエミリアに向けている気持ちを完全にあなたに向けさせる併せ技というのも……」


 男がそう言い続けようとしたところを、ゾフィーは首を横に振った。


「いいえ!」


 いいえ!


 もう一度そう言ったものの、壁を見つめながら押し黙った。


 だが、何か覚悟を決めるように、彼女は目を赤くして唇を噛みながら視線を男の方へ変えた。


「私は彼にもエミリアにも後悔してもらいたい……やはりそれが自分が納得する方法だと思うんです」



 だって、あの人たちは私を裏切っていた事に変わりない。


 私が結婚準備を嬉しそうに話すエミリアの姿に羨ましくなって、会いたいと何度か彼に手紙を書いていたのに。


 彼は私に対しては会えないと拒否していたのに。


「でもエミリアとは実際ああやって、こっそり会っていたんですから……」


 彼女はさらにそう漏らした。


 男は二人のことを婚約者は愛していないと言っていたが、それでもエミリアが優先されていたと言う事実に、改めてゾフィーは惨めさと敗北を感じていた。



 彼女の返答に男は口角を上げた。


「ふふっ……いいですね。懸命な判断だと思いますよ。でも先ほどの話に戻りますが、やるとしたらどの程度の事をすればあなたは納得できますか? 先ほど私が提案した程度のことであれば、仮に物凄くポジティブな考えの持ち主なら、こんな程度のものであれば気の持ちようだと、後悔を感じても一瞬で終わってしまうかもしれませんからね」


 本当にそんな程度で済ませてもいいのですか? と男は少し前のめりの姿勢を取って彼女に尋ねた。


「……一瞬で終わってしまうなら意味はないと思います」


 ゾフィーは小さくため息を吐いた。


「でしょうね。そんなにも傷つけられたんですから。ですからまあ、やるならとことんやるのはいかがですか? そう……まるで死ぬほど後悔してる! と言いたくなってしまいそうな」


「死ぬほど……後悔ですって?」


「ええ、死ぬほどの! あ、でも彼らみたいな人間は、後悔はしても一生改心することなんてないかもしれませんがね。それ程までに人の心に巣食う欲は恐ろしいんです」



 一生改心することがない。


 男のその言葉に尚更やけになったのだろうか。ゾフィーは大きく笑った。


「ふふふ、ふふふ……そうね。改心しないなら、せめてあの人たちにはそれ程まで後悔してもらうのがぴったりなのかもしれない。いいえ、きっとそう。死ぬほどの後悔と聞いて、なんだか自分の気持ちが収まるのに一番しっくりくる気がしました」


「でしょう? では決まりですね」


 そう言って彼はボトルにおまじないだと言って、聞きなれない言葉を囁きながらと手をかざした。


「ついでのおまけです。私からのささやかなプレゼントです。これからのあなたにとって、必要のない記憶がきれいさっぱり消えるようにしました。さあ、このまじないをかけた水を飲み干せば、あの二人はあなたへの裏切りを死ぬほど後悔することになるでしょう」


 あなたの幸福な未来を願って、と男は冷えたボトルからグラスに透明な水を注ぎ、それを手に取って迷いなく飲み干すゾフィーの姿を静かに見守った。




「それにしても今回も上手く事が運んで良かった!」


 両手を上げて叫び、天を仰ぎながら男は大きく笑った。


 欲深い獲物を捕らえるには、人の情念が絡む恋愛相談が一番だ、と。



 魔術のリハビリにも、暇つぶしにも、人助けにもなって一石二鳥どころか四鳥だと思いながら、男はさらに回想した。


 数百年前、正確にどのくらい昔だったのかはもう覚えていない。


 かつて彼は、魔術研究のために魂を悪魔に捧げていた事でこの国の王から怒りを買い、自分以上に強力な魔術師から、今まで覚えたり開発した魔術を忘れる呪いと、この地から出られぬよう封印をされていたのだ。


 だが、わずかに覚えていた魔術で男もなんとか対抗し、悪魔の大好物である地獄行きにふさわしい欲望に塗れた魂を彼らに捧げ続け、その見返りとしてやっと封印が解かれた。


 そして悪魔の粋な計らいかわからないが、男が長い間待ち続けた人物が、ついに今目覚めようとしていた。


 魔術を求め続けている自分のよき理解者で共犯者となってくれる、闇の申し子と呼べる存在が。



 もしかしたら、むしろその人物と時空を超えて出会うために、自分は封印されていた運命だったのかもしれない。


 そう思いながら、男は上着のポケットから取り出した水晶を見つめて微笑んだ。


 そこに映り込んでいるのは、澄んだ水のように美しい顔をしながらも、その内面には自分同等の忘れ去られた沼地の泥のごとく、深く黒い欲望を抱えた少年だ。


 彼は目の前に突然落ちてきたシャンデリアを見て、驚き息を切らしている。


「ほほほ。あなたに死なれたら元も子もありませんからね。間一髪のところで助けが間に合って良かった……でもゾフィーさんの婚約者、いや元婚約者に見せていた幻影は効きすぎたようですね。力の加減が私にとっての当面の課題でしょうか」



 続いて場面が切り替わった。これは少し先の未来で起こることだろう。


 少年はちょうど父王や兄弟、そして別国の王族たちと会合をしている様子だ。


「それにしても、本当にこいつはトロ臭くてお恥ずかしい……まさか異常者に銃を向けられて腰を抜かすなんて。我々は常に堂々としていろと教育を受けているというのに。まったく情けない!」


 そう話したのは彼と一番年が近い兄だろう。


「私や兄はご婦人方を守るのに必死だったのに。とはいえ、こんな情けない弟を見捨てず助けていただき感謝します」


 兄は少年を一瞬見たあと、王族たちにわざとらしく頭を下げた。



 それに対して王族たちからは、こちらこそ不手際に対して、寛大に対処してくださり感謝しています。


 ただ、異常者が貴国の殿下に銃を向けたことは、どうかご内密に。


 そして、繰り返しになってしまいますが、異常者の死因は自殺であるという事でよろしくお願いいたします。と念を押した。



 一方、少年は自分の前で行われているやり取りを冷静に見つめていた。


「そうですね。兄上の豪胆さには恐れ入ります。僕も見習わなくては」


 しかし、テーブルの下で彼が拳を握りしめ、微かに震わせているのを男は見逃さず、静かに笑った。



 男はもちろんこの真実を知っている。


 彼は銃に怯えて腰を抜かしたのではない。


 先ほど彼のことを馬鹿にしていた兄に、邪魔だ私が先だと突き飛ばされて、その場に膝をついてしまったのだ。



「これでようやくお会いできますね。王子殿。虐げられているあなたのお辛い気持ちはよくわかりますよ」


 男は頷きながら、水晶の中にいる彼に向かって微笑んだ。



 さて。


 彼に会うと言っても何と名乗ろう。


 数百年まともに人付き合いをしてないので、本来の名前などとうに忘れてしまった。


 時折、罪深い魂を提供しに来てくれる客人たちにはいちいち名乗っていないが、今度会おうとしている王子は長い付き合いになるのだからちゃんとしておかなければ。


 男はそう思いながら、しばしその場で考え込んだ。



 そうだ! と彼は手を叩いて顔を上げた。


 結界を破った記念に、先ほど悪魔に捧げたゾフィーの婚約者だった男の名前を借りて、サルバトール(救世主)と名乗ることにしよう。


 名の意味も随分ご立派でパンチが効いている。気に入った!


 ああ、数百年ぶりに見れる朝焼けだ。


 この美しい瞬間をどれほどまでに待っていたことか。



 サルバトールは夜明け前の赤い空を見上げて、高らかに笑い声を響かせた。

最後までお読みいただきありがとうございます。


サルバトールと王子のその後の話は以下で展開しています。(完結)

「婚約破棄よりも重い罪をその令嬢は知らない」

https://ncode.syosetu.com/n1232kj/

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