第4話 番狂わせ
「5-3」。レーウェンフックが黒板に書き込む。
「あっけなかった」
アリエスタの代表が低く呟く。「これで彼の勝ちは消えた」
「まだ分からないわ。同票の可能性は残っている」
隣でアクアライムの代表が囁く。
「擁護票を入れるつもりだったんですか」
イクテュエス族の代表が聞き返す。「それは……」アクアライムは歯切れの悪い口調で返す。「まだ悩んでいるところです」
「諦めろよ。どのみちレオンブラッドは賛成票にいれるぜ。身内から鬼なんて犯罪者を出したんだ。大勢の意向に掉さす意見はできないさ。腹を括って来てるはずだぜ」
頭の後ろに手を組んだまま、タウロが指摘する。アリエスタが何か言いたげな顔で彼を見る。机の反対側でじっと考え込む表情をしていたレオンブラッドの族長は、意を決したようにゆっくりと起立した。
あと一票……彼の賛成票で過半数が割れる。アクアライムが反対票を投じた所で、追いつくことはできなくなる。そうなれば死刑は確定だ。
俺はぐっと目をつぶる。全神経を耳に集中させ、期待の音を聴きとろうとする。出来ることはやった。しかし、時間切れか……。
レオンブラッドが震わせかけた空気を覆い隠すように、扉の開く音が響いた。
俺ははっとして目を走らせる。重たい長靴の音が床の上を渡り、赤茶けたよれよれのコートが炎に照らされた。イタロが咎めるように言う。
「元老院会議の最中だぞ。平民不可入の禁則を忘れたか」
「失礼仕ります。禁則の条項は承知の上……、法に則って参上いたしました」
男は雷のようにエネルギーに満ちた声で、きっぱりと答えた。
「カミラタ=ライブラ……、準貴族階級「警察隊特務長官」として、ライブラ族代表代理の権でここに出廷します」
決然とした態度に、イタロが唇を微かに歪める。
「ずいぶん時間がかかったな」
ドストスペクトラが悠然と声をかける。カミラタが帽子を軽く持ち上げる。
「遅刻の非礼は詫びよう……。これでも任務明けで寝ずに飛ばして来たのだがな。当主の許可をいただくのに手間取った」
「カミラタ……、お前は昨日から、野盗集団の制圧に当たっていたはずだ。一昼夜で片の付く任務じゃない」
イタロが鋭く睨む。
「雨の中現場に向かってみた所、野盗と交戦する野風たちと遭遇しましてな……。彼らのお陰で楽に野盗を捕まえることができました」
カミラタが口角を上げてスペクトラに視線をやる。
「そういえば最近あの辺を、北面の僧兵たちが勤行場にしていると聞きましたな。雨の日も弛まず殊勝なことです。野盗の連中も気の毒に、返り討ちに遭ったのでしょう」彼は肩をすくめて飄々と答える。
「ところでずいぶんと事件の内情に詳しいですな、代表殿。そういえば捉えた賊共はヴァルゴー族の下層民兵ばかりでしたが……、何かご存じでありませんか」
カミラタの射るような視線に、イタロは眼鏡を押さえて静かに答える。
「知らないな。平民のすることは分からん」
「まあいいじゃねえか」イタロの肩を叩いて、タウロ族が鷹揚に取り成した。「カミラタは保守派の人間だ。大勢に影響ねえよ」
タウロはカミラタに気軽な調子で手を振った。
「さあカミラタ、お前の一票で真白雪の死刑は確定だ。早いとこ決めちまおうぜ」
「ええ」
カミラタはレーウェンフックから金属板を受け取ると札を親指と手の間に挟んで強く握り込んだ。
「議題には反対です。私は真白雪に市民権を与えることを支持します」
「冗談だろ」
炎にくべられた札を前にして、タウロが目を見張って叫んだ。タウロが無言で緑火を見つめる。
「待てよ。カミラタは真白雪と二度も交戦してるんだぜ。敵対関係のはずだろ」
「二度も闘ったからとも言える。鬼戦でカミラタと真白は共闘関係だったと聞いてる。その時に取り込んだのかもしれん。真白雪……、やはり危険な男だ」
イタロの言葉に、カミラタは慇懃に首を振った。
「私は信念に従ったまでです。拳を交わしたからこそわかる。奴は不当に死なせるべき人間ではない」
「我々の意向ではなく信念に準じたか……」イタロは平坦な声で呟いた。「変わったな、カミラタ」
「4.5-4」レーウェンフックが戸惑いがちに記号を書き換えた。逆転の可能性が出てきた。皆の目は炎の側で所在投げに立ち尽くすレオンブラッドの族長に注がれた。
「忘れられたかと思ったぜ」
族長は口をヘの字にして軽い口調で言った。
「ゴングジョード卿の投票途中でしたね……。鬼を生んだ一族の責任は重いですよ。どう捉えます」
イクテュエス族の代表が、アリエスタの代表に気を配りながらも、やや厳しい口調で問いかける。
「そうだな。国を危険に曝した一因として、元老院の意向として提出された議題に逆らうのは気の引ける行為だ」
ゴングジョードと呼ばれた大男の貴族は、聖杯に渦巻く緑炎の上に札をかざした。
「……だがな、だからこそ俺はこいつに感謝しなきゃいけねえと思ってる。ましらはレオンブラッド族の生んだ鬼の過ちを止めてくれた。殺すことなくな。俺はましらがドクター・リリにやり直す機会をくれたことを嬉しく思う。これは俺たちにとってもチャンスだ。調書によれば、ドクターの再生能力は混血ではなく、純粋にレオンブラッド族の狂花帯の力によるものだ。彼女の知識と技術を受け継げば、俺たちにも再生の『魔法』が使えるようになるかもしれねえ。そうなりゃジパングの医療水準は飛躍的に向上する。今まで救えなかった命もいくら助かるかわからねえ。これをましらの功績と呼ばなくて何と呼ぶって話だ」
「レオンブラッド族の全員がそれをマスターできるとは限らねえぜ」
タウロ族が口を挟む。アリエスタ族もこくりと肯く。
「再生能力は超高度な技術。膨大な細胞学的知識と繊細なコントロールが必要とされる。高度な知能を持ち、雑種強勢で器官出力の高かったリリパットだからこそなしえた技」
「知識と技術ならば、世代をまたいで研磨していける」
カルキノスの老婆が冷静な口調で付け加える。
「現に東国地方の錬金術は、百年の内に相当進歩しました」
ゴング卿が肯く。
「そういうことだ。俺はこいつを生かすことに決めるぜ」
金属札を火にくべる。紫炎は燃え上がって黒板に書かれた「4.5-5」の文字を照らした。
「形成が返ったね」
「だが結局は次の票次第だぜ。一度表明した票は取り消すことができねえ。アクアライム族の票で決まる」
一同の目は再び一箇所に注がれた。アクアライム族の代表は首元に伸びた髪を揺らして火の側に立ち止まった所だった。
「私は一族の代表として判断させてもらいます」
彼女はきりりと口元を引き結び、目にかかる前髪を神経質そうにかき上げながら続けた。
「国政の観点からすれば……私は双方の意見に得心のゆく部分があった。だからこそ迷ったのです。であれば、アクアライムの人間として民族の意向を加味せねばならないでしょう」
彼女は炎の陰になった昏い目で俺を見る。「彼はリリパット=アリエスタの魂を救おうとしています」
彼女の視線が返答を求めているようだったので、俺は言葉少なに応じた。
「……そうだ。俺は彼女を助けたい」
「彼女は我が民族から死者を出しています」
代表は札を持たない方の手で握りこぶしを作った。
「モルグ亭の夫妻の事件です。あなたもよく知っているでしょう。善良なアクアライムの市民を死に追いやり、しかも夫にそれを実行させた。彼女は笑ってそれを眺めていたと聞きます。……残虐極まりない蛮行です。可能なら私は彼女を投獄ではなく死罪にしたかった。ましら君、貴方の考えは立派です。しかしそれは甘さでもある。謀反人に情けをかける優しさを持っていては、大任は全うできない。私は彼女のような大罪人に救いの道を与えるべきとは思いません。死罪が叶わぬのならば、せめて無間地獄の中で永遠の孤独を味わわせるべきです。それが罰というものでしょう」
「民族としての被害者感情は分かります。しかし責め苦を与えることが刑罰の本来たる目的ではない。それに被害者であるモルグシュテットその人が、戦いの最後ドクター・リリとましらの死を防ぐ決断をしたということは、覚えておられるでしょう」
カミラタのとりなしを制止して、アクアライムが続ける。
「わかっています。しかしこれは民族の代表としての政治的判断です。彼女に正当な報いを受けさせなければ、我々の同胞は納得しないでしょう。この禍根はいつか必ず災禍となって返ってきます。争いの芽は摘まなくては」
彼女の頭上に掲げた指先から、金属札が滑り落ちる。炎が大きく口を開け、それを呑みこんでいく。
「真白雪の市民権認定拒否に賛同します」
「5.5-5」。無情な白墨の音が議場に響き渡る。場内を重い沈黙が包んだ。
「……今度こそ決まりだな」
イタロが眼鏡を押し上げて確認した。
「帝……、これが我々の総意です。御約束どおり……承認を頂ければ会議は終わります」
「うむ……」
レーウェンフックが用意の羊皮紙を取り出し、恭しく帝に差し出した。
「ましら殿……」
ボアソナードが沈痛な面持ちでこちらを見つめる。打つべき手は打った。俺は無言で首を振り、その時が来るのを待った。
帝が親指の腹を噛み、血印の準備をする。
「真白雪……、所詮ここまでの男だったか」
金色の髪が宙に解け、紅く染まった指先が振り下ろされる……。
「お待ちください!」
勢いよく扉を開ける音がする。見覚えのある豊かな紅い髪の毛が、議場の一画を染めた。
「おい、衛兵は何をしている! ここは貴族の代表しか入れない間と言ったはずだ!」
イタロが鋭い声を上げる。中空で指を止めたまま、扉を見やった帝の口角が微かに上がる。レオンブラッドの族長が顎髭を撫でながら、愉快そうに尋ねる。
「おい嬢ちゃん……、ここは子供の来る場所じゃねえぞ。何しに来た?」
ショッキング・ピンクの瞳で真っ直ぐにこちらを見据えた少女は、緑の耳飾りを揺らして背筋を伸ばし、はっきりとした声で宣言した。
「アテネ=ド・カプリチオ、15歳、ただいま成人の儀を終え……、カプリチオ族の代表として参じました!」