エピローグ 仕舞(しまい)
「終わってみれば、なんということも無かったな」
帝は御所の高い天井を見上げながら、静かに独りごちった。
「全地域において我が軍は圧勝……、局所的に危ういところもあったが、クラマ陥落の勝報が届くのが間に合って何とかなった。やたらと功労者が出てしまったが、手に入れた夷の金脈で補填できる。後は逃げた夷軍の残党さえ捕えられれば、言うことなしだ。……それに引き換え……、お前は役に立たなかったな、ユダ」
冷たい琥珀色の目に見下ろされたイスカリオテは、跪いたまま不動の姿勢で言葉を受けた。
「戦争終結から三日経って、ようやくの帰還か。よもや逃亡したのではと疑ったぞ。何をしていた?」
「敵軍の牢におりました」
イスカリオテは床を見たまま答えた。帝が残念そうに首を振る。
「戦後処理で夷に向かった軍に、救出されたわけか。ましら暗殺の失敗といい、新皇暗殺失敗といい、アサシンの面目丸つぶれだな。……お前には、期待していたのだが」
帝は溜息をつく。
「貴様に市民権を与え正規の職を与えるという契り……、まだ果たせそうにないな」
「そう仰ると思って、手土産を持参して参りました」
イスカリオテは背嚢からごろごろといくつもの首を転がす。帝が興味深げに眉を上げた。
「夷幹部……、残党のリーダーたちか」
「脱獄には半日とかかりませんでした……。しかし手ぶらで帰ったのでは詰まらない。道すがら落武者狩りをしてきました。耳は良い方でして」
「ふっ、転んでもただでは起きない女だな。仕事はやり遂げる……か。結果としてましらとクロウを生かしておいたことは、正解だったわけだしな。ここまでの完勝……、あの二人の功績が大きい」
「どころか、クロウ殿が居なければ危うかったのでは?」
横に控えていたイタロが口を挟む。
「その時は『八尺瓊勾玉』を使っていたさ」帝は優雅な微笑みを浮かべて足を組みかえる。
「目の上のたんこぶだったアテルイの一族は滅び……、金脈の直接支配権も手に入った。厄介な契約をしてくれたクロウは死亡、お陰でクラマを空中楼閣に繋ぐことができた。残党も消えて後顧の憂いも無し、はぐれ狼のましらを手懐けることにも成功した。世は並べて事も無し。欠けたることも無しと思えば……、だな」
帝が手を叩く。
「ユダ。今回の失敗には目をつぶってやろう。次の任務の出来次第で、約束通り市民権を与えてやる。さすれば暗殺者の身は卒業、地位のある仕事を与えてやる」
「は……」
イスカリオテは一層深く頭を垂れた。感謝の念からではなく、己のほくそ笑んだ表情を見せまいとしたからだった。これで帝の支配から逃れられる。ユダは久方ぶりの安堵の心地を噛み締めた。
「ではユダ」帝が厳かに言い放つ。「貴様に新たな任務を与える。この度新たに加わった殿上人……、真白雪の護衛を、そなたに任せる」
ユダが頭を垂れたまま固まる。顔を見ずとも、帝が底意地の悪い笑みを浮かべていることが分かった。「身命をとして守るがいい。殺しの標的だった男を……、な」
・・・
暮れなずんだ薄暮の港に波が打ち寄せる。白波の運ぶ泡立ちが星屑のように紅い海の上に散らばった。斜陽の名残がまだ砂浜を温かくしている。軍の引き上げたひっそりとした湾岸に、息をひそめるように一隻の玄い船が停泊していた。船の縁に背を持たせかけ、煙草をくゆらしてひそひそと言葉を交わし合っていた兵隊らしき男たちが、浜辺の砂を踏みしめる音に気付いて声を荒げる。
「止まれ!」
男たちは近づいてくる大きな野風に向かって木製の火縄銃を突きつけた。殺意を向けられた野風は棺桶を引きずる手と足を止め、訝し気に首を傾げ、それから得心したように手を打った。「そうか。この姿、お前たちに見せるのは初めてだったな」
紅毛の野風の体が奇妙に蠢き、バキバキと骨をひしゃぐような音が波の上を覆う。兵士たちは恐怖に駆られたように引き金に指を添えた。それから、そこに現れた華奢なシルエットを見て、弾かれたように銃を下ろした。
「これは……、大変失礼いたしました、バフォメット=カプリチオ騎士団長」
「良いよ。私も変身を解除するのを忘れてた。もうずいぶん長いこと、あのむさくるしい姿でいたからね。何しろいったん解除すると二十四時間はそのままなんだ。見つかると具合悪くてね」
彼女は指通りの良い黒髪をなびかせ、低い艶のある声で答えた。「バフォメットか……。その名も久しぶりだね。言葉も……。こっちじゃ『紅喰い』という名で通してたんだ。貫禄あるだろう?」
「は……、紅喰い、ですか」
「そう。返り血を浴びた顔とか、如意宝珠を呑み込む姿とか、意味する所は諸説あるけど、私はこれが気に入ってるよ」彼女は真っ赤な舌を出して言った。「『炎を喰らう者』」
「噂に聞けば、クラマという炎熱使いの公家が、中つ國に反乱を起こしたということでしたが……」
「もちろん私の差し金だよ。彼女の妹が良い器でね。中つ國への潜入……、元々はリリパット=アリエスタが目当てだったが、ラックルクロウ=スコルピオ……、思わぬ掘り出しものだったよ」
「では……、見つかったのですね、我らが『汎』の大帝国軍を率いる、将軍の器たる者が」
「ああ……、彼女の指揮力を確かめるのに、数年かかった。私の演技も大したものだろう? 荒くれな大男の武人という役を、怪しまれず演じ切ってみせた。側近として側で彼女の力を量っていたが、姉の方が警戒心強くてね、頑としてクロウに指揮権を握らせなかった。お陰でこんな大がかりな戦争まで起こす羽目になったよ。まったく、骨が折れた」
「しかし、全ては筋書き通りということですか。さすがはバフォメット殿……、皇帝の右腕と称されるお方だ」
「いや、それが問題ばかりでね」
彼女は棺桶に繋がった縄を彼等に預けて、船の上に乗せるよう促して続けた。
「まず中つ國が広くて参った。大陸に比べればちっぽけな島国だと高を括っていたけれど、交通手段は少ないわ通信機器も貴重だわで調査が全然はかどらなかった。お陰でリリパットの居所を掴んだのもついこの間。しかも八虐とか呼ばれて厳重な監獄に収監されている始末。わざわざ最初の被験体になってまで協力してやった異種間混淆施術……、完成したかどうか気になったんだけどね。まあ今思うと彼女は単独で戦うタイプだし、将軍という柄でもないからね。単に一番強いからという理由で、据えようとしていたけれど」
彼女はひらりと船の上に飛び乗りながら語り続ける。数年ぶりに自国の言葉で喋る喜びを噛み締めているかのようだった。
「近頃じゃ、旧世界から来たとかいうとんでもない異分子が紛れ込んでね。数年がかりの計画がおじゃんになるところだったよ。夷の独立宣言と並行して帝の配下と接触……、少しずつ根を張り巡らせていた夷の反乱軍と連携してクラマを暗殺、クロウの逆鱗を刺激して敵討ちの戦争を仕掛けさせ、大軍をどう指揮するか見る、それが当初の作戦だった。だがあのましらとか言う男、クロウ殿を下して味方に付けやがった。それが高じて敵軍の総大将を務めてくれたから良かったけど、危うく振り出しに戻るところだったよ。あの野郎、いつか絶対痛い目見せてやる」
「それで……、肝心の将軍の器はどこに?」
船に乗り込んだ兵士たちが辺りを見回す。
「節穴……。ここに居るじゃないか」
彼女は棺桶の蓋をぱかりと開いた。祈るように瞼を閉じ、氷漬けになったまま眠るクロウの姿がそこにはあった。
「凄まじい狂花帯の強さだよね」バフォメットは緋い瞳を細めて語る。「生存本能からか……、死の危機に狂花帯が反応して、無意識に氷結が発動した。主を死なせまいとしたんだ。胸の穴を塞ぎ、全身を凍結させて仮死状態になった。汎の科学力なら蘇生出来るはずだ。……超大陸『オリジニア』の統一も、目の前だよ」
滑り出した船の影を闇が埋めていく。仄白い光がクロウの肌を蒼く染める。夜空には地球の裏側に落ちた太陽を追いかけるように、新しい月が昇り始めていた。
・・・
東国の不二原の郷に建てられた墓石には、クロウの死を悼む一首の歌が刻まれていた。
「良い歌ね」
弔いの言葉を述べたアテネが、俺を見上げて言う。俺は肯く。
「ある武将が、この東国の地に遺した歌だ。俺のいた旧世界の……、ずっと昔の時代にな」
クラマ確保の報告が入ったのは、俺が目を覚ました直後だった。
クロウをクラマの元に飛ばした俺は、御所に再び転移するまでの一瞬のうちに、クラマの熱放射を直に浴びた。クロウの凍結が僅かでも遅れていたら、そのままお陀仏だったろう。
御所に気絶しながら転移した俺は、アクアスタインの族長の介抱を受けて程なくして目を覚ました。気づいた時には決着は付いていて……、王都の平和は守られていた。クロウの命と引き換えに。
「分からないな。彼女はなぜ妹を手にかけた?」
眼帯を微かに歪めて、解せぬという風にメルが呟く。墓に向かって黙祷を捧げていたニミリが、静かに目を開けて答える。「……俺のせいかもしれない」
彼は布の切れ端に包んだ割れた鈴燈を、クロウの墓に並べた。「奥つ器は古代語で『墓』を表す。その時は知らなかったけど……、これは彼女の母親だったみたい。奥つ器は故人の狂花帯から作られる、形見であり亡骸だ。矢を射たのはクロウの指示だったけど、俺は図らずも故郷の借りをこんな形で返すことになってしまった。憎しみの連鎖を、繋いでしまったのかもしれないね」
「お前のせいじゃない」
俺はニミリの肩に手を載せる。
「死者の轍は……、時に生ける人間の絆よりも強く人を惹きつけるものだ。死んだ者に人生を捧げると決めた人間には、生者の愛を受け入れるのは難しい。それこそ、一度己の魂を壊して、生まれ変わりでもしない限りね」
俺は言葉を切り、クロウの墓に背を向けた。
「だからこそ俺たちは、死者ではなく生きている者のために、過去ではなく未来に生きなければならない。……クロウは立派に闘った。それが分かっていれば十分さ」」
そう俺は未来を生きていくんだ。俺は改めて自分の心に誓った。
過去には戻らない。戻ることはできない。俺はこのもう一つの世界で生きていく。
「ましらの言うとおりだ」背後から低く渋い声が飛んでくる。「過去は乗り越え、新天地を切り開く時だ。旧世界の言葉にもある。『私たちの畑を耕さなければならない』と」
森の影から、カミラタを伴って現れたスペクトラが言った。モノクルは罅割れ、片腕を添え木と包帯で固めている。
「ひどい怪我だな」
俺は声をかける。「これも過去からの因業というやつだ」スペクトラは肩をすくめる。隣で同じく包帯だらけの顔をしたカミラタが、口添えする。
「労いの言葉なら、あの赤毛の若造にかけてやれ。メルヴィルと言ったか……、奴は夷の古豪を相手に実力以上の応戦を見せたらしい。最終的にとどめは外道法師がかっさらったが……、武功は紛れもなく奴のものだ」
獅子奮迅の活躍をしたメルヴィルは、まだ王都の病院で入院中だ。東国には来ていない。
「魔境のことは残念だったな。帝の寛大な御采配で、この広大な東国の山脈を与えられたことが、せめてもの救いになると良いが」
「雨降って何とやらだ。故郷を失った哀しみは、この豊かな大地を耕すことで癒そう」
スペクトラの言葉にニミリは肯き、それから思い出したように俺に言った。
「そうだ、ましらクンには感謝しないといけないね」
「何のことだ? 思い当たる節が多すぎて分からないぞ」
俺がとぼけると、ニミリが苦笑いして続ける。「村の老人たちのことだよ。若頭クンも感謝してた。彼のお爺ちゃんを助けてくれたことをね。それと……、グラムシの兄貴を火の手から、逃してくれたんだって?」
「さあ、記憶に無いな。傷病人は漏れなく避難させた。その中にたまたま、あいつも混じっていたのかもな」
俺は素っ気なく答えた。「素直じゃないな」メルがにやりと笑う。そんなメルボルンをカミラタが何か言いたげな様子で眺める。「どの口が言ってるんだ?」そう顔に書いてあった。
「さて……、墓参りも済んだし、俺は城下に戻るとするよ。テレポートで一緒に運んでほしい奴はいるか?」
俺の問いかけに、メルボルンとカミラタは、微かに名残惜し気な様子で頭を振る。「悪いが俺たちは夷の後処理がある。ここにも仕事のついでにで立ち寄っただけだからな」
「そうか」
俺は肯く。野風の皆は、ここが新しい家だ。ここでひとまずお別れになる。アテネは何も言わず俺の服の裾を掴んだ。一緒に帰るつもりらしい。
「あ、そうだ」俺は背嚢を背負いながら、思い出したように言った。「ちょうど良いや。アテネ、この後時間あるか?」
「あら、デートのお誘い?」
アテネが悪戯っぽく問い返す。ショッキングピンクの瞳が俺の澄まし顔を写している。
「ま、そんなとこだな」
適当にあしらうと、兄の世話を焼く妹のような顔で、やれやれと首を振られた。
「そんなこと言って、どうせリリへのプレゼントでも見繕ってほしいんでしょ。もうすぐ面会の許可が降りるから」
「お……、鋭いな。半分は正解だ」
「もう半分は?」
「アテネの成人祝い。誕生日プレゼントはあげたけど、まだそっちは何もしてなかったろ。議会で助けてくれたお礼も、ちゃんとしてなかったし」
「あら」
アテネが予想外の返答に顔を明るくする。「……ならお返しを考えないといけないわね。ましらの、貴族就任祝いも兼ねて」
「ありがとう。……ゆっくり考えてくれればいいよ」
俺は素直に彼女の厚意を受け取ることにして、アテネの腕をとった。そう、先のことはゆっくり考えればいい。俺たちには未来も時間もあるのだから。
頭箍を頭にはめる。城下に座標を合わせて、空間移動に移る。転移の寸前、最後に皆の方を振り返ると、クロウの墓碑がちらりと目に写った。
————『後の世も また後の世もめぐりあへ 染む紫の雲の上まで』。
『夷征討編』 完




