第29話 斜陽
緑色に光る鉱石が、地下道を照らしている。洞窟の中に聳えた銀色の巨大な壁には、その中央に禍々しい光を放つ裂け目が刻まれていた。
洞穴に点々と続く血が緑色の光を受けてオレンジに反射する。足を引きずり壁にもたれた巨躯が、荒々しく息をついた。
「刃折れ矢尽きるとはこのことだな……。ドストスペクトラめ……、大陸より更に鋭く……」
折れた肩を抑えながら、紅喰いが息を吐く。
「空中楼閣……、この戦争の渦中ならば警備も手薄になっていると踏んだが……、当てが外れたな。元より警備すら無人か。それも道理……、この監獄ならばな。まさか次元の狭間に存在しているとは……」
紅喰いは銀色の壁に触れ、口惜し気に笑う。
「侵入は不可能か……。このために遠路はるばるやってきたのだがな。まあ良い、今は入り口を掴んだだけでも良しとしよう。何より、今の本命はクロウ様……。……そろそろ回収に向かうとするか」
紅喰いは地上に向かって踵を返し、二、三歩進んでから、邪悪な笑みを浮かべて振り返り、呟いた。
「……再会は次の機会にお預けだ。楽しみにしていろ、リリパット」
・・・
血煙上げる戦場の真ん中で、クロウは目を見開いた。
「クロウ殿!」重力波で敵を圧し潰しながら、部隊長が叫ぶ。「何を呆けておられる!」
「事態が変わりました! ここの指揮はお任せします!」
クロウは敵に背を向けて、王都に向かって走り出した。輪具に手を当てて呼びかける。「ましら殿! 今すぐ私を御所へ! ……ましら殿!!」
応答はない。回線は虚しく気泡のような音をクロウの耳に届けた。
「お待ちください総大将!」
部隊長がクロウに追いついて引き留める。
「本部で何があったかは分かりませんが、戦況は複雑化している。この戦況をコントロールできるのはあなただけです。今あなたが抜ければ、夷の大群が王都へ押し寄せる。それでは元も子もありません」
クロウは奥歯を噛み締める。この敵部隊は手強い……、氷結とも重力操作とも相性が悪い相手と戦わされている、制圧するには時間がかかる……。
息を吐き、目を閉じる。周囲の環境と兵の配置、記憶に並んだ付帯情報を、思考の中で同時に展開させる。最適の戦略を頭の中で弾き出す。
「部隊長に荷の重い戦況ならば……、簡略化すれば良いだけのこと」
クロウは地表に這わせた氷をそのまま地中深く伸ばし、穿った。「総大将、何を……?」
大地が割れ、空洞の道が開ける。
「これは……、『蛇行』の通り道?」
部隊長が目を見張る。こちらの混乱に目を付け、抑えていた敵部隊が一気に押しよせてくる。
「左様。『蛇足』の路線図と減便時の運行状況は把握しています。アテネ一行の情報のお陰で……、運休でないことは分かっている」
クロウは氷壁を作り出し、地面から割れた線路に橋を架けた。冷たい空気が、高速で近づいてくる蟒蛇の息と、攻め入ってくる敵軍の勝鬨に挟まれた……。
地面からものすごい勢いで飛び出してきた巨大な蟒蛇が、大量の敵軍を蹴散らし、跳ね飛ばした。後続の部隊も次々と下敷きになっていく。
「……これで厄介な遊撃部隊は潰しました」
クロウは呆気にとられた部隊長の肩を叩いた。
「後は正面から攻め入るだけです。簡単でしょう」
踵を返す。そしてもう一度輪具に呼びかける。
「目を覚ましてください! あなたの力が必要です、ましら君!」
・・・
遠くで誰かが呼んでいる気がした。
目覚めようかなと思った。でももう少し眠っていたい気がした。まだ寒い冬の日の朝のように、布団の中で微睡んでいたいような幸福な夢心地のようだった。
だけど、最後にそんな気分を味わったのは何時の事だろう。孤児院の皆を失ってから、常に生き急いでいた気がする。休む暇もなく、甘えることもなく……、彼等の分まで立派に生きねばと、ずっと追い立てられていた日々。
もう、眠ったままでいいかな。俺は思う。いっそこのまま目覚めない方が、楽になれるんじゃないか。
……ああだけど、何かを忘れている気がする。俺は思い出す。俺はこの忙しない人生の中で、やっと息を付ける場所を見つけたんじゃなかったか。その人の隣で生きるために、またもう一度名前を呼んでもらうために、闘っていたんじゃなかったか。
……その人は、どんな風に俺の名を呼んでくれただろう。
「ましら君」
俺は弾かれたように瞼を開いた。
肺に水が流れこむ。辺りは一寸先も分からない海の中だ。瞬時に思い出す。笹竜胆の射程外で体の火を消すため、意識が落ちる寸前に定海の沖へ飛んでいたのだ。
我武者羅に泳いで、光の指す海面へ突き進む。
水面に顔を出すとともに、俺は激しく咳き込んだ。肺を空っぽにして再び息が出来るようになるまで、俺は水を吐き出した。
「大丈夫ですか、ましら君」
輪具から低い声が飛び込んできた。白衣が脳裏をよぎって、一瞬、頭が混乱する。だけど直ぐに、クロウの声だと分かった。
「ああ……、クロウか。すまない。ちょっと気絶していた。助かったよ」
それも、かなり切実に。
「ましら君、説明している暇はありません、今すぐ私を御所に飛ばしてください! 座標はこちらで指示します」
「……! 分かった……」
俺は波をかき分け、指定された座標へ意識を絞る……。
「良かった、無事でしたか」
目の前に現れたクロウが、地面に倒れかけた俺を抱きとめる。転移は成功だ、正確な位置に飛んでこれた。
「ああ、お陰様でね。状況はどうなってる?」
「……姉様が、最後の炎で王都を焼失させようとしています。今は私の分身が抑え込んでいますが、長くは保たない……。本体との同時凍結で封じ込めます」
「まだそんだけの力が残ってたか……」俺は独りごちり、クロウの肩を掴んだ。「分かった、飛ぼう」
視界が消し飛び、目の前に巨大な氷のドームが現れた。既に内側が透けて見えるほど熱を帯び、分身から反対側の氷は半ば液体化しかかっている。分身も力の底が見え始めているようで、肉体を維持できなくなりつつあった。
「思ったより進行が速い!」
クロウは溶けかかった氷に手を当て、一気に氷結を加速する。
それを感じ取ったかのように、ドームの中の青い炎がよりいっそう強く燃え上がる。
まるで命の炎を燃やしているかのようだ。
「この火力……、あいつ死ぬつもりか?」
呟いた俺は異変に気が付いた。ドームが真夏のアイスキャンディーのように、どろどろと片側から溶け始める。クロウの分身が崩れ始めていた。分身に与えられた力を使い果たしたのだ。
俺は氷の中の火勢を確認する。先刻の烈火の勢いはあくまで最後の足掻き……。既に火力は陰り始めていた。仮に氷の盾が消えたとしても、被害範囲は居住区まで届かずに済みそうである。
この分だと氷が解け落ちるのが先だ。俺はクロウの肩を掴む。
「逃げようクロウ! ここまで抑え込んだら十分だ!」
「駄目です!! 元より火炎を封じ込めているのは……、王都を守るためではない、姉様の熱を下げ絶命を防ぐため……」
クロウは歯を噛み締めて耐える。
「最後の手段です! 私をドームの中心に連れていってください! 姉様の体を直接冷やします。今の彼女に近づけるのは私だけ……、ましら君、あなたは私を送り届けると同時に外へ飛びなおしてもらいます。寸分のタイミングのずれが命獲りになる危険な賭け……。それでも、あなたにしか頼めないのです」
皮のめくれた彼女の両の掌から血が滲み出し、氷に紅蓮の花のような模様を描き出した。俺は眉間に皺を寄せて瞼を閉ざし、溜息をついた。
「まったく、うちの総大将は人使いが荒い」
瞳を開き、彼女の背中を叩く。
「姉妹喧嘩の仲裁も楽じゃないな……。行くぞ!!」
・・・
熱に浮かされた頭が、ぼんやりと霞む。今自分がどこに居て、何を燃やそうとしているのか……、それすらも曖昧になる。いや、もしかしたら燃やしてしまいたかったのはずっと、自分自身だったのかもしれない。
意識が薄れていく。最後の瞬間に、家族の顔を思い浮かべたかった。惜しみなく愛を注いでくれた母。ほんの時々だけ、頭を撫でてくれた父。そうだ……、私は、彼等に認められたかったのだ。彼らのこの世に残す最期の息が……、自分の名前であってほしかった。
だが眼裏に浮かぶのは、自分によく似たあどけない少女の顔ばかりだった。
最後まで邪魔をするか。思わず、苦笑いする。切り立った崖道を覚束ない足取りで付いてくる姿、初めて付けてみせた炎を見た時の、きらきらした瞳、東国の豪族相手に大太刀回りを演じ、互いに預けた背中の体温、山賊を拾ってぼろぼろの姿で帰って来た時の無邪気な笑顔、父を失った夜に隠した涙の跡、政務の手を止めて、ふとした拍子に見せる慈愛に満ちた仕草。……思い返せば、いつも側にいた。想い出の傍らに、彼女の居ない頁など無い。しかし、だからこそ……。
靄が晴れて、視界がはっきりしてくる。火照った体をひんやりと冷ますような心地良い感覚が、体を包んでいた。
「姉様……」
聞き慣れた声が、耳元で囁く。クラマは顔を横に向ける。肌が焼けるのもかまわず、自分を抱きしめる妹の顔が、そこにはあった。
「クロウ……」
赤と青を混ぜたような紫の夕景から注ぎ込む斜陽に、クラマは目を細めた。妹の肩を掴み、ゆっくりと引きはがす。質の良い十二単はぼろぼろに焼け焦げ、雅さの欠片も無い。
「ふ……、貴族のお嬢様が台無しじゃな」
「それで良いのです、姉様」
クロウは正面からクラマの顔を見て言った。
「身分など些末な問題だったのです。姉様と二人で生きることが出来たなら、それで十分でした。これまでも、これからも……、たとえ流謫の身になろうとも」
そう言って静かな目でこちらを見つめる。「……何故だ?」クラマは顔を歪める。
「そんなに傷だらけになってまで、なぜわしの隣に立つ? お前にとって、わしは何なのだ?」
「姉様は……、姉様です。生まれた時からずっと……」
クロウは真っ直ぐに答える。
「姉様が私の手を引いてくれた日から……、孤独を感じたことはありませんでした。私には姉様が付いていた。そして姉様には私が付いている。姉様を、独りきりにはさせません」
クロウが冷えた両手で、熱を帯びたクラマの左手を握った。クラマは、ぼんやりと、その手を握り返そうと、右手を動かした。
ちりんと冷ややかな音が響いた。
クラマは地面を見た。己の手に握りしめていた、壊れた鈴が……、両親の形見が、滑り落ちていた。同時に、忘れかけていた痛みが蘇った。右手を貫いた矢の痛み、そして……。
「……すまないな、クロウ」
掠れた声で呟き、彼女は微笑んだ。
青い双眸が、赤い瞳の視線の上に重なる。
「お前を確かに愛していたよ……、クロウ」
クロウが微笑を浮かべ、口を開く。姉の言葉に応えようと声を発する。
その言葉は形を成さないまま、ぷつりと途切れる。驚きに見開かれた彼女の目が、己の胸に突き刺さった姉の右腕を捉えた。
「姉様……」
クロウの伸ばした手が前のめりにぐらりと揺れて空を掻き、力なく姉の頬をなぞった。
「お前の手は冷たいな」灼けた右腕を妹の心臓から引き抜いて、クラマが呟く。「私の孤独は……、お前が生まれた日に始まったのだ」




