第1話 荒らす路
雨に泥濘んだ畔の道に、馬車の轍が幾何学模様を描いていく。
セピア色の鱗に覆われた肌を弱い日差しに曝しながら、「馬」はリズミカルに乗客を運んでいく。幌の影から外を眺める。折しも馬車は古びた橋の上に差し掛かり、増水した川の濁流を越えていくところだった。
河の水域は橋げたの際にまで差し上っていた。つい一昨日、西面の田畑の付近にある関所をせき止めたばかりの河は、いつもより激しく魔境を流れた。それにより本来昨日行われるはずだった召喚の日時が、一日だけ先延ばされていた。氾濫した河を渡るのが困難であると判断されたためであった。
「これから裁かれるというのに、随分と余裕そうだな」
正面で仏頂面を見せていた監視役が、俺の縄を握りなおしながら語りかける。紫の長い前髪と、片目を覆う黒の眼帯も、その不機嫌な気色までは隠してくれなかった。
廃都決戦……、緑衣の鬼の計略による警察隊と魔境連合の一大抗争から一ヶ月、俺は警察隊の監視の下、魔境に抑留され続けていた。見張り役は持ち回りだったが、何度も顔を合わせるうちに、眼帯の彼女のその日の気分が声色から分かるようになってきた。無論、お目付け役と沙汰を待つ監視対象、気心の知れぬ仲というわけにはいかなかったが……。
「これでも緊張しているんだけどね、メル次官」
彼女の言葉に、俺はにこやかに答えた。
「気安く略称で呼ぶな。メルトグラハ上級次官殿と呼べ」
彼女が口をへの字にして答える。
「事の重大さを考えれば、旗色が悪いことは流石に分かるだろう。ドクター・リリが前後不覚の貴様を保護してからの一年……、お前が起こした事件の数々を覚えていないのか?」
「事件っていうと、無実の罪で追われていた令嬢を助けるためにあんたを殴り倒したことか? それともその後ぶちこまれた監獄を、その子や他の囚人と一緒に脱獄して警察隊の隊長を川に沈めたこと……、いや、その後この大貧民街に落ち延びて、ヒト族と敵対している猿族……、『野風』たちを一つにまとめて、禁則地の古代都市で警察隊の大群と派手な戦闘を行ったのがまずかったか。まさか王族の所有する古代兵器を勝手に使用した挙句破壊してしまったことじゃないよな?」
「分かった、もう黙れ……。聞いてるこっちの胃が痛くなる」
メルトグラハは褐色の肌に冷や汗を浮かべて俺を制止した。俺も数えていて頭が痛くなってきた。どれも事情があってのことだが、傍から見るとなかなかの蛮行だ。
「まあ最後の古代都市の一件では、お前はむしろ活躍してくれたがな……。あの事件は、人間を猿族……もとい野風に変身させるという世紀の犯罪を企てた誘拐魔、緑衣の鬼の謀略だった。お前も件の令嬢……アテネと言ったか、彼女も鬼の「魔法」で猿の血を混ぜられた被害者ながら、事件の解決に大きく貢献してくれた。もっとも……、緑衣の鬼……、ドクター・リリと一年も一緒に過ごしながら、彼女の正体に気付けなかったというのは、お前にとって不覚かもしれないがな。なんなら数ヶ月の間、彼女の診療所に居候していたのだろう?」
「それはまぁ、惚れた弱みという奴でして……」
痛い所を突かれた俺は、頭を掻きながら茶化した。メルはそんな俺を片方の目でじっと見る。瞳の中に、毛先にかけて白へのグラデーションをなしているブロンドの二色髪と、他にこれといった特徴の無い凡庸な顔が映っている。
「……にしても、未だに信じられんな。貴様が旧世界からやってきた我々の先祖で、おまけに戦争兵器として改造された人間だなどと……。傍目には普通の人間にしか見えん。数万年の時を経ているなら、ヒトという種の外見が大きく変化してもおかしくないとおもうのだが。……むしろ私が最初にあった頃の方が、人外らしかったな」
彼女と会った……、というか交戦した時は、俺はまだ野風の姿に変身させられていた時期だった。今でこそ鬼事件の解決で、人間の姿に戻ったが……。
「まあ、その見解はある意味当たってるんだよな。お前たち12民族……、もといヒト族が、俺のいた西暦2244年頃に改造された12人の祖先なのに対して、野風たちはその時改造されなかった一般人たちから進化したしてきたわけだから」
「眉唾だな。お前が失われたはずの人種……、サジタリオ族固有の『量子器官』を持っていなければ、一笑に付していた所だ」
彼女は小さく唇を尖らせて幌の外に顔を向けた。「故郷に帰るつもりはないのか?」
俺は少し黙ってから問い返した。「故郷?」
「お前にとってこのジパングは異世界も同然なのだろう。貴様の能力が時を渡るものだというのなら、もといた時代に戻ることも可能なのではないか?」
「それは……」
俺は再び口をつぐむ。
「迷いがあるのか」メルが組んでいた足を下ろして聞いた。
「少なくとも、すぐに帰るほどの動機は無い……、といったところだな。さりとて生まれ育った土地を捨てるのも簡単に踏ん切りがつくものではない。故郷に残して来た家族もいるだろうしな」
「いや……、俺に家族は無い。生みの親も、孤児院の家族も皆他界している。是が非でも会いたいという人間もいない。元の世界に凱旋して、英雄になれという枷からも解放された。……だが」
あの世界の全てを失うと考えると、踏ん切りがつかないのも事実だった。それにそもそもの問題がある。俺の力で、過去に遡ることは可能なのか?
「……まあ、目下のところこの世界で生き延びようと必死なのは分かる。あの河川の氾濫を見てもな」
メルは幌の窓から、道路へ滲み出した濁流を指さした。先日の豪雨の影響で川が溢れ、一時は通行禁止になっていた。
「おいおい、俺の予知能力はそんなに万能じゃないぜ」俺は川から目を背けて言う。「天気予報は出来ても、天候操作まではできやしない。どこかの隊長殿なら別かもしれないが」
警察隊の特務上級次官、カミラタ=ライブラの顔を思い出す。正義感の強く職務に篤い彼には幾度となく追い詰められた。彼の一族の固有能力は電気を発生させることだった。
「隊長にも雷は降らせられまいて……。私が言っているのは河川の増流のことだ。事前に大雨を予知して、西面の野風共に関所をせき止めさせたな?」
「彼らは農耕計画に従っただけだよ」
「その計画を立てているのはお前たちだろうが」
メルトグラハはわざとらしく顔をしかめてみせた。「猿族共……、いや、野風と言うべきか。今や正式に我が国の市民権を得たわけだからな。その彼等の親玉はお前だ。お前の一存でどうでもなるだろう」
「生憎だけど、この貧民街の政治を回しているのは評議会の面子だよ。魔境統一以前の各地区のリーダー5人。俺はあくまで象徴的に座主の地位を与えられているだけさ」
「どうだかな。どの道5人はお前に好意的だろう? 魔境統一の立役者にして、緑衣の鬼討伐の最功労者。野風の地位向上にお前の功績は欠かせなかった。朝廷がお前に下す沙汰を有利な方に傾けるためなら、多少の細工は厭わないと思うがな」
「ま、彼らと上手くやってることは確かだな」
俺は曖昧にお茶を濁して答えとした。メルトグラハは小さく鼻を鳴らし、組んでいた腕を解いた。
「まあこの件は我々も追及するつもりはない。法の範囲内の足掻きだし、被害が出てるわけでもないからな。それに、お前の判決がどう転ぼうと私の知ったことじゃない」
「連れないな。熱い拳を交わした仲じゃないか」
彼女は車外に向けていた顔を再びこちらに向けた。また叱られるか……と思った矢先、彼女は脚を組み替えて簡潔な返事を漏らした。
「そうだな……」
俺が拍子抜けしたような表情を見せると、彼女はまた不機嫌そうな顔を作って問うた。
「なんだよ」
「いや……、てっきりあんたには敵対視されているものと思ってたから。ほら、最初の遭遇の時からキレてたし……」
メルの追跡の手から少女を逃がすために、割って入った件だ。
「勘違いするな。あの時は貴様がナメた態度をとっていたからだ」
メルがこちらに指を突きつける。
「舐めた態度って、加減して攻撃したことか?」
「そうだ。私は闘いに中途半端な覚悟で臨む奴が嫌いだ。それに引き換え廃都で戦った奴、あいつは良かったな。正々堂々と勝負できた。ほら、お前と入れ替わりで挑んできた、赤毛の野風……、ユーメルヴィルとか言ったか」
幌の木枠をノックする音が聴こえた。メルトグラハが幌を持ち上げると、馬でゆっくりと並走する赤毛の姿が目に飛び込んできた。
「俺の名を呼んだか?」
馬車の速度が緩まる。辺りを盛んに王都の住人が行きかっていた。いつの間にか馬車は宮廷の目前まで迫っていた。
俺は警察隊との武力衝突でメルと交戦した時のことを思い出し、首を傾げた。
「妙だな。俺と廃都でやり合った時は、あんた怒ってなかったか? あれは手加減なしの攻撃だったぞ」
「痛かったからな。それはそれで怒る」
「それは理不尽すぎやしないか……?」
肩を落とす俺の顔を見て、メルトグラハは微かに口角を上げた。
「気を落とすな。あれは良い一撃だった」
俺たちの会話を黙って見守っていたユーメルヴィルが、やおら目前を指さした。
「戯れも良いがお二人さん、そろそろご到着のようだぜ」
黒い石壁が高くそびえる宮廷は、王都の街を悠然と見渡すかのように王都の中央に鎮座していた。いや、本当に見渡せるように位置取ってあるのかもしれない。その証拠に王都の街路は宮廷を中心に放射状に広がっていた。よく見ると建物たちは碁盤の枡目のようにきっちりと分けられた区画の中に納まっていた。
メルトグラハに引かれ、馬車の下に降りる。小石一つ落ちていない硬い石床の感触を確かめる。魔境を出る時に踏みしめた泥が、靴の裏から剥がれ落ちた。
「ましら。危い時は合図を出せ。城外に東面の衆を待機させてある。突入の準備は出来てる……。みすみす頭を捕えさせやしねえ」
馬を降りたユーメルヴィルが、すれ違いざまにひっそりと耳打ちする。
「心意気に感謝する。だが無茶はするな……。王権政治で叛逆は最も重い罪だ。折角築きあげたヒト族と野風の関係を、俺一人のために無下にするな。……これは頭としての命令だ」
唇を動かさず小声で返した俺の言葉に、ユーメルヴィルは不安げに肯く。
「こそこそと何を話してる? 準備が出来たなら行くぞ」
メルトグラハが植物の蔓で出来た縄を引っ張る。俺はユーメルヴィルに大丈夫だという風に肯きかけ、メルトグラハの方へ踵を返した。
「まるで舎弟だな」
眼帯を掛けていない方の目でユーメルヴィルの背中を追いながら、メルトグラハが言う。「……妙な気は起こすなよ。御所で面倒は御免だ」
「その釘を刺して来たところさ」
俺は肩をすくめて答えた。
御所の内へと続く三つの扉を通り抜け、俺は城の奥にある古びた扉の前に立たされた。
「私が入れるのはここまでだ。このまま御所を守る近衛兵に身柄を引き渡す。何か聞き忘れたことはないか?」
「裁定の流れについては道中十分確認させてもらったよ。……これを預かってもらえないか」
俺は縛られた手でどうにかポケットをまさぐり、メルトグラハにそれを見せた。日の光を受けて、白い模様の混ざった黒の水晶が気品のある輝きを散らす。
「ブローチ? ふん、貴様の髪の色にそっくりだな。……女への贈り物か?」
「色は偶然だけど、まあ、趣旨は間違ってないな」
俺は裏地のめくれたポケットを内側に引っぱり戻しながら答える。「今日が誕生日らしいんだ」
「ドクター・リリか? 彼女の収監先なら上層部しか知らんぞ」
透き通るような銀色の髪をなびかせた、白衣の姿、月明かりに揺れる緑の瞳が眼裏に浮かぶ。俺の血を流し……俺と心を通わせた女だ。廃都の事件以来……、声を聴いていない。警察隊が身柄を拘束しているはずだった。俺と同じように元老院の沙汰を受け……、しかしその後どうなったかは、誰にも分からなかった。彼女の治療技術は、朝廷も喉から手が出るほどほしがっていたと聞く。みすみす失わせるとは思えない。死罪は免れたはずだが……、今頃、どこで何をしているのだろうか。
俺は気持ちを振り払うように頭を振った。
「彼女の面会も望みたいところだが、それは別件だ」
「ふむ。ああ、じゃああの娘か。カプリチオ族の令嬢……。しばらく行動を共にしていたものな」
「そのアテネだよ。面識あるだろう?」
「いや、あれは面識というか……」
メルトグラハはアテネを追い回していた時期の事を思い出したのか、頬を掻いてばつの悪そうな顔をした。
「魔境の人間には頼みづらくてね。彼女の家は、野風のことをあまり快く思っていないようなんだ。鬼に野風の血を混ぜられた事件の後しばらく、勘当状態だったようだからな。今はリリが効果を解いてくれたから、家に戻ることができたみたいだけど」
「つまり万一貴様が死罪や懲役になったら、代わりにこれを渡せということか」
俺は無言で肯く。俺は朝廷の私有地で派手な戦闘を繰り広げた咎で、沙汰を保留されている身だ。どんな処遇を受けるか分からない。メルトグラハはしばらくそのブローチを眺めていたが、やがて思い直したようにそれを突き返した。「断る」
「む……、この流れで断るのか?」
俺は不服な表情を浮かべた。メルトグラハは俺のポケットにブローチをねじ込み、ちょうどやってきた衛兵に手を挙げて合図を送った。引き渡しの時間が来たようだった。
彼女はこちらに目線を戻すと、一瞬だけ表情を緩めた。「精々健闘することだな……。直接渡しに行けるように」
それから体裁を保つように例の難しい表情に戻り、来た道を辿って背中を向けた。
「まあ健闘しようにも……、貴様は突っ立ってるだけだがな」
肩越しにひらひらと手を振りながら、いつも通りの憎まれ口を残して、彼女は議場を後にした。