第26話 魔境炎上
山脈深く、アクアスタイン隊が繁茂される樹々の上を自在に飛びかいながら、野風聯隊は怒涛の進軍を続けた。昼間なのに森の中は不気味なほど暗い。地の利を得た野風たちが、金の鎧を纏った夷の兵たちを次々と藪の中に引きずり込んでいく。
「こりゃ楽勝だな」
顎から滴る汗を拭いながら、ユーメルヴィルが独り言ちる。
「油断するなよ。奥にまだ部隊の長が控えている」
敗残兵の山に気絶した兵を追加しながら、スペクトラが窘める。「なんで分かるんだよ?」メルヴィルが不思議そうに尋ねると、スペクトラは事も無げに答えた。「空気で分かる。強者の気魄を肌で感じろ」
スペクトラの耳に付けた輪具からガサガサと藪をかき分けるような音がする。スペクトラは無線連絡をキャッチして聞き耳を立てた。
「どうかしたのか?」
メルヴィルが息をついて聞く。「どうも緊急事態らしい」耳から手を離してスペクトラが答える。
「ましらが魔境の異変を察知した。部隊を寄越せと言っている」
「総大将は何て?」
「魔境一帯の兵は既に北上していると言っている……。近くに回せる部隊がない。港にも異常はないそうだ」
「たしかに、南洋の港かここを通らなければ、魔境には進めないね」
追いついてきた魔境北面の主、外道法師が、敵兵の生首を投げ捨てながら口を挟んだ。
「そもそも魔境を狙うメリットがない。言っちゃなんだが、朝廷への打撃にはならない土地だからね」
「いや、メリットならある」
スペクトラが目を閉じて呟いた。「野風聯隊の動揺だ。我々は今敵軍の奥深くまで侵攻している。もし故郷が襲撃を受けたとなれば……、先頭のいくつかの部隊には引き返す選択肢が生じるだろう。そうなればアクアスタインと野風聯隊の指揮系統は、敵陣の中心で大いに混乱することになる。なんならこちらの部隊を間引くこと自体が目的かもしれない」
「ならどうする?」メルヴィルが興奮気味に詰め寄った。「実際俺も引き返したい気分だぜ。爺共を残してきてる」
外道法師も意見を求めるようにスペクトラを見る。スペクトラは徐に瞼を上げて言った。「俺が行こう」
「部隊を連れてく気か?」
外道法師が眉を顰めて聞き返す。スペクトラは首を振る。
「いや、俺独りで向かう。野風一人の脚なら、森を抜けるのにそう時間はかからない。こちらの連隊の指揮はアクアスタイン隊の隊長がとっているから、指揮系統に支障はないはずだ。野風たちの統率は外道法師、お前に任せる」
外道法師は彼の意図を汲み、真剣な面差しで肯いた。メルヴィルが少し不安げに問いかける。
「単騎で大丈夫か? 敵の規模も分からないんだぞ」
「陽動が目的なら、それほどの戦力は割いていないはずだ。ましらも付いているしな。それに重要なのは野風たちに動揺を与えないことだ。俺が向かったと聞けば、彼らも安心してこちらの戦いに集中できるだろう」
たしかに、部隊を削がず背中を任せるには、これ以上ない人選ではある……。メルヴィルは渋々口を閉ざした。スペクトラが珍しく微笑みを浮かべ、彼の肩を叩く。
「老人たちのことは任せろ。むしろこちらの戦力に不安が残らないよう……、お前はあの敵将を獲れ」
近づいてきた殺気にメルヴィルは振り返る。肌で強者を気取る感覚……、この距離にしてようやく掴めた気がした。森の闇の奥から、二匹の大柄な野風を引きずった男が現れる。メルヴィルは外道法師とともに構え、額の汗を振り払い、笑みを浮かべた。
「任せとけ……。野風の意地、見せてやるよ」
・・・
地上から遠く響いてくる轟音が、地下道通用口にも微かに聞こえた。階段の下で改札鋏を持った駅員は、退屈そうに警棒をぶら下げた隣の同僚に話しかけた。「外は大変みたいだな」
目の前の線路をぼんやりと眺めながら、同僚は肯いた。
「なんでも東国地方の豪族が、反乱を起こしてるらしい。検問係の警察隊も駆り出されてるくらいだ、よほどの規模の戦闘だろうな」
「なるほど、それでその恰好か」
男は同僚のかついだ警棒を見て言った。駅員の彼が警備の代わりを務めているのだ。
「こんな日に暢気に旅行する馬鹿もいねえだろうにな。第一そんな大変な時だってのに、よく運行してるよな」
「『蛇足』の運営元は国じゃなくて半地下の連中だからな。地上の時勢には疎いんだろう。国は国で、運行状況を確認してすらいないんじゃないか? 傍からすれば、今日はさすがに運休だと思うだろ」
「そうか……、そういえば朝廷の所有じゃないんだよな、『蛇足』って。末端の俺たちには関係ことだ……。忘れてたぜ」
「そうでもないぞ」同僚が答える。「国営だったらそもそも、俺たちは雇われてない」
男たちは肩を揺らして笑った。遠くから『蛇足』の走る音が聞こえてくる。
ほどなくして、豪快なスピードで駅に滑り込んだ蟒蛇の肉体が、プラットホームを埋め尽くした。
駅員はポケットに手を突っ込みながら、形ばかり改札鋏を掲げた。どうせ誰も乗ってやしない、居たとして世間知らずな二、三の旅人くらいだ……。
蟒蛇の鱗から這い出てきた乗客たちを見て、2人は腰を抜かした。どう見ても堅気ではない武装した百人余りの兵が、どやどやとホームに流れ込んできたのだ。
警棒を取り落とし後退りする同僚を素通りして、ガラの悪い荒くれたちが地上へと抜けていく。
「あ、あの、お客様、切符を……」
彼は最後に悠然と出てきた身なりの良い女に目を止めて、おずおずと声をかけた。
「おお、そうじゃったの」狐のような目をした女は陽気に言って、肩にかけた荷から抜き出した何かを放った。
重たい衝突音と共に、掌大の金塊が地面にめり込んだ。純金だった。「釣りは要らぬ」女は鷹揚に手を振ってホームを去った。
「最短の街道はあちらです、クラマ殿」
百人の部下の中から進み出た、武官の長が声をかけた。「うむ」クラマが楽し気に肯く。
「その前に、東側の前線が苦戦しとるようじゃの。少し引っ掻き回してやるか。魔境まで馬でどのくらいかかる?」
「飛ばせば半刻とかかりません」
一人が答える。
「なら……、射程圏まで十分といったところか。お前たち、少し寄り道していくぞ。それからディドロ、お前はこのあたりの上空に蜃気楼を掛けておけ、万一宮廷から見えでは台無しじゃからな」
「承知しました」
ディドロと呼ばれた武官が、空に霧を掛ける。たちまちのうちに透明になり、彼らの姿を上から視えなくさせた。
「よし、では往くぞ、お前ら。準備は良いな」
兵士たちは勇ましい声を上げた。
「帝め、抜かったな。さしもの奴も『蛇足』で部隊が輸送されてくるとは思わなかったようじゃの。それも旧13番隊百余名……、我が軍の本隊がやってくるとは」
・・・
果てしなく続く地獄のような光景を前に、スペクトラは茫然と立ち尽くした。視界ががくりと揺れ、地面に膝を着いたことを遅れて理解した。それほどまでに彼は放心していた。
魔境の全域が、火の海に包まれていた。
樹々を編み込んで作られたぼろ家は立ちどころに倒壊していた。焼け焦げた野風の毛皮の臭いが充満し、あちらこちらで火だるまになってのたうち回る猿の姿が見えた。砂や土で出来た建物に逃れた者たちも、熱と煙に巻かれて苦悶の形相で絶命していた。阿鼻叫喚だった。彼は灰になっていく故郷を見つめながら、砂を握りしめることしか出来なかった。
「これはこれは、魔境の親玉と出会えるとは。待っていた甲斐があった」
辻の角から、薙刀を担いだ大柄な野風が姿を現した。見覚えはない。恐らく魔境の住人ではないのだろう。
「前線から引き返して来たか。部隊を放棄したった一人で戻るとは、故郷思いなやつだ。勘も良い。それとも、ましらが何かしたかな。……だが一足遅かったようだ。まあ、前線からの距離を考えれば無理もない。もっとも、間に合っていた所で、どうすることも出来なかったがな」
「ぺらぺらと良く回る口だな」
スペクトラはゆらりと立ち上がった。「お前の仕業か?」
「やったのは新皇様だ」紅喰いは肩をすくめる。「私はただの殿。地理的に、港に居たと思われるクロウ殿の分身や、空間移動の可能なましらが現れる可能性があったからな。あるいは、確率は低いが、お前たち野風が大軍で引き返して来るという想定もあった。いずれにせよ、万一後ろに脅威が迫っていたのでは、挟撃になりかねない。それで念のため私が残り、敵方の動きを見てから合流するという計画だったわけだ」
薙刀の切っ先を、ドストスペクトラに向ける。
「憂慮が過ぎるとも思ったが、こうしてお前のような強者がやって来た以上、無駄でなかったな。蛮臣・ドストスペクトラ」
「俺のことを知っているのか?」
スペクトラがモノクルをしていない方の眉を上げて尋ねる。
「よく覚えているよ。一度手を合わせた相手のことはね。だが、貴様に心当たりはないだろうな。今の私の姿には」
「安心しろ。これからは毎日思い出す」
ドストスペクトラは獣じみた形相で、紅喰いに向かって歯を剥き出した。「故郷を燃やした連中の顔を」




