第22話 導火(どうか)
檻の中の黴臭い空気を鼻歌が揺らす。若葉色の髪に隠れた左目が、窓枠の上で干からびた蠅の死骸を通り過ぎ、鉄格子の根元の錆びた一部を観察していた。
遠くから聞こえてくる足音に、イスカリオテは鼻歌を止める。リズムは早いが、音の立て方は静かだ。速足なのではなく、小さな歩幅で悠然と歩いている。女の貴族だ。反響からして体重は軽い。子供……、いや、夷にその年代の貴族は居ないはずだから、相手は小柄な大人だ。この条件で思い当たるのは一人くらい……。
牢獄の扉が無造作に開かれる。予想通り、茜色のセミロングの髪が視界に飛び込んできた。「そなたがイスカリオテか」
「これはこれは」
イスカリオテは石壁に背中を持たせかけながら彼女を見上げた。「新皇様が直々にお見えとは」
イスカはクラマの様子をじろじろと観察した。一昨日は整えられていた鬢が所々ほつれていて、余裕がなさそうだ。
危いな。イスカは胸の中で呟く。襲撃から2日経った。ルート次第ではましらも既に帰朝しているはずだ。クロウを人質にとった交渉の文が届いている可能性もある。それを見た新皇がどう出るか分からない。
「あまりそう見つめるな。女子でも照れるわ」
クラマが見透かしたような目でイスカを見返して来る。イスカは胡坐をかき、視線を下に逸らした。
「朝廷の情報なら話せませんよ。そういう呪いが掛かってるんす」
「くく……、呪いか。帝の好みそうな言い回しじゃな。契約の狂花帯使いがいたか」
クラマは乾いた笑いと共に呟いた。
「そなたに訊きたいのはそのことではない。そなたの小隊長のことじゃ」
「……! ましら隊長のことっすか」
イスカは意外な方向から来た質問に面を上げる。
「そうじゃ。奴の能力は既に紅喰いから聞き及んでおる。わしが知りたいのはその人となりなのだ。どうかな? 身内を売るのは心苦しいか?」
クラマは掌の上に炎を浮かべて尋ねた。
「まさか」イスカは口角を上げて答える。「それで命が助かるなら、いくらでも話しますよ」
「話が早くて助かる」クラマは炎を消して述べる。
「聞くところによれば、奴はまだ朝廷側について日の浅い人間だそうじゃな。素性も知れぬ者に、帝はなぜこの任を与えた」
「それは朝廷への質問っすか?」
「否、ましらの何がそうさせたか、という話じゃ」
クラマが首を横に振る。イスカリオテは少し考える。
「そうっすね……。強いからっていうのが一番だと思うっすけど、ましら隊長は何というか……、人を取り込む力があるんすよ。能力とかじゃなく、単に性格の話っすね。警察隊の長官、スラムの頭たち、緑衣の鬼……、彼と敵対し闘った人間は大概、彼のことを助けるようになってる。調書で知った限りですが」
クラマは無言で耳を傾けている。表情は見えない。イスカリオテは言葉を継いだ。
「帝がましら隊長に絆されたとは思わないっすけど、そういう部分に興味を抱いていたのは確かっすね。奴はこの短期間にあれほどの有力な人材を味方に引き入れている。暗殺者の素質があるかもですね」
「何故周囲の人間は、ましらに付くのだ?」
クラマの質問にイスカは首を傾げた。
「分からないっすね。私は打算でしか動かないっすから。まああれでけっこう泥臭いタイプっすからね、彼は。何か憐みを誘う所がある。情に熱い人ほど、助けてやりたくなるのかもしれないっすね。実際朝廷としては、同時にそこに危惧を抱いてもいた」
「危惧?」
クラマの碧い瞳が不安げにイスカを見つめる。何の動揺だ? イスカは逡巡するが、答えは分からない。
「夷を味方に付けてしまう危険性っすよ」イスカは迷った末にそのまま答えることにした。「ましら隊長に感化された夷が彼に協力を申し出て、彼が夷の仲間入りしてしまう心配っす」
まあ杞憂でしたけどね、というイスカリオテの言葉を無視して、クラマは顎に手を当て、独りぶつぶつと呟いた。
その様子を訝しがり、聞き返そうとしたイスカリオテの耳に慌ただしい足音が響いてきて、獄舎の扉が再度開かれる。「新皇様、ここにおられましたか!」
「なんじゃ、騒々しい。尋問中じゃぞ」
クラマが険のある声で返す。紅喰いが非礼を詫びるかのように跪き、その上で続けた。
「ジパングの朝廷より文が届きました。急ぎご確認ください」
・・・
「思ったよりも早かったな。クロウの救出班からの報告はまだか?」
廊下を足早に駆け抜けながらクラマが尋ねる。
「それが、文を持って来たのは当の救出班でして……」
「? どういうことじゃ」
広間に到着し、紅喰いが障子を開ける。文官と武官が一斉に頭を下げた。
「これがそうか」
文官から差し出された文をクラマは開封した。素早く文字の上を横切るクラマの瞳が、次第に興奮したように見開かれていく。
「新皇様。朝廷はなんと……」
イセが待ちかねたように声をかける。クラマは無造作に文を突き出した。「読んで見よ」
文を受け取り、目を走らせたイセの息が止まるのが傍目にも分かった。
「これは……、朝廷からの文ではない」
「そうじゃ。正確には朝廷の元で書かれた……、クロウからの嘆願書じゃ。夷に対する降伏の勧告をしたためた、な」
周囲がまた一斉にざわつき出す。状況を呑み込めないという風に、武官の一人が尋ね返す。
「どういうことです。クロウ殿がなぜ我々に降伏を促すのですか」
「この文はクロウ殿救出に参じた部隊が、直々に手渡されたものだ。こちらの動きを察知したクロウ殿が、朝廷の役人らと共に部隊に接触し、これを以て送り返した。つまり……そういうことだ」
紅喰いが苦々し気な顔で言う。青亀が立ち上がって抗議した。
「ちょっと待て、紅喰い。その言い方ではまるでクロウ殿が我々を裏切ったみたいじゃないか」
イセも同調して肯く。
「真意はともかくとして……、クロウ殿が朝廷の監視下にあったことは確かだ。この文書は脅されて書いたものだろう。偽書の可能性すらある」
「いや、その筆跡は間違いなくクロウの手じゃ」
クラマが否む。
「そして奴は脅しや催眠に屈するような人間ではない。奴が真にこの夷への忠誠心を持っていたなら……、自らの手で降伏を勧告なするなど出来る筈がない。罰を受けることを選んだじゃろう」
「しかし……、この中には、夷の独立宣言を取り消せば上層部に危害を加えることはないという朝廷の見解が示されています。島流しにはなるが……、それが新皇様を傷つけぬ最善の選択だとクロウ殿は説いておられる。クロウ殿なりに、状況を判断しての苦渋の決断。新皇様の身を第一に考えてのご判断ではございませぬか」
イセの反論に紅喰いが残念そうな顔で首を振る。
「そのような甘い話があると思うか、イセ。相手はあの帝で、こちらは国に盾突いた一級罪人なのだ。罠に決まっている。そしてそれを見抜けぬクロウ殿ではあるまい」
「つまり、罠と分かったうえでこれを書くことを承諾したクロウ殿は、やはり……」
役人たちが顔を見合わせる。「クラマ殿! どうなさるおつもりですか」文官の中から声が上がる。「あくまでもクロウ殿を信じ、我々を捨ててご自身の身を守られるおつもりか。それとも夷独立という我らの宿願を果たさんと、その文を破り捨てるのですか」
「新皇様!」「クラマ殿!」
口々に役人たちが答えを求める。青亀とイセはクラマの前に跪いて彼らの声を遮る。
「新皇様。これは我らを引き裂こうとする朝廷の策略です。あのクロウ殿がクラマ様を裏切るはずがありません。不肖このイセ、赤子の頃よりお二人のご成長を見守ってまいりました……。クロウ殿は誰よりもクラマ殿を想っておられます。懸命なご判断を……」
「イセの申す通り。クロウ殿と新皇様さえご無事ならば、いずれ独立は叶いまする。クロウ殿もそれを見越しての御英断とうかがえる。まずはクロウ殿の処刑を免れさせることが先決です。今は我慢の時……。どうか」
「うむ……」
クラマは目を閉じて皆の声に耳を傾けていたが、扇を勢いよく閉じる音で彼らを黙らせた。
「決めたぞ」
紅喰いがクラマを見上げる。皆が固唾を呑んで彼女の命令を待つ。
「独立のための戦いは終わりだ」
「クラマ様……!」イセと青亀が喜びに胸打たれた表情で顔を上げた。だが視線の先に遭ったのは、2人を見下ろすクラマの、星の無い夜のような真っ暗な瞳だった。
灼熱を纏った扇が一閃し、四天王の首が宙に飛ぶ。
「もはやこれは独立を掛けた戦いではない……、征服戦争だ。敗けた方が滅び、勝った方がこの列島を支配する。良いか皆の者。我が妹ラックルクロウ=スコルピオは朝廷の犬と成り果てた。我々はジパングの統治権を掛けて朝廷に勝負を仕掛ける。たたらを踏む豪族にはこの不忠の輩の首を送りつけよ! 臆病な兵の辿る末路を見せつけてやれ。全軍を以て今すぐ朝廷に出陣するのだ! いざ!!」
文官たちが怖気づいたようなどよめきを見せ、武官たちは逸る気持ちを抑えきれぬように勝鬨を上げる。燃え上がる夷の熱気を前にひそっりと、紅喰いだけが不穏な笑みを浮かべていた。




