第21話 狐火
東の山脈の深くを鳴動するいくつもの蹄の音に、森の動物たちは思わず獣道を明け渡した。そのすぐ後を数十頭の山賊山羊が駆け抜けていく。群れる肉の塊の突撃はまるで土砂崩れのように枯草を巻き散らしていく。
「アテネ嬢! ニミリの容態はどうだ!」
先頭の山羊に鞭をくれながら、メルが叫ぶ。傷だらけのニミリを載せた山羊と並走しながら、彼の脈をとっていたアテネが叫び返した。
「不整脈が続いてるわ。催眠で生存本能を引き出してるけど、気休めよ。長くは続かないわ」
「応急処置は済ませた。心肺機能さえ安定すれば……」
「! 待って……」
ニミリの状態の変化に気が付いたアテネは、彼の腕を離して直ぐに胸に耳を当てた。
「脈が弱まってる……。心停止しかけてるわ!」
「何!」
メルが慌てて手綱を引き、山羊を急停止させた。アテネもそれに倣い、周囲の山羊もそれに同調する。
「かなりまずいな……。アテネ嬢、小槌を寄越せ」
ニミリの不規則な心音を確認しながら催促する。アテネは山羊の鞍に括りつけていた奥つ器を手渡した。
「どうするつもり?」
「心臓の鼓動を無理矢理取り戻す。少し集中する……。気を鎮めてくれ」
アテネがメルの背中に手を当てる。メルは深く息を吸って呼吸を整えた。
ニミリの胸に降ろした小槌が、その振動を心臓に送り込む。ニミリの体が山羊の背で跳ねた。
かっと目を見開き、ニミリが大きく息を吸い込む。咳き込み、それから胡乱な目つきで混乱したように周囲を見渡した。
アテネがもう一度胸の音を聴く。心臓が一定のリズムを再び刻み始めていた。
「……君たちに助けられるとはね」
ぼんやりと周囲の状況を把握して、ニミリが呟いた。
「成功か」
メルが胸を撫でおろして言う。
「心臓が止まりかけていたの。紅喰いの小槌が無ければ死んでいたわ」
「こんな状態にしたのも、その紅喰いだけどね……」ニミリは体を縛り付けていた蔓を外して、ゆっくりと身を起こした。「小槌の応用か。よく心臓の拍動に合わせられたね」
「アクアスタインは植物を武器として扱う……、特殊武具の扱いに長けているのはお前だけじゃない」メルが説明する。「もっとも、一か八かではあったがな……。命の礼ならアテネ嬢にしろ。山羊を使って我々を探し出し、山脈まで運び出してくれた」
ニミリが振り向くと、アテネははにかんで応えた。ニミリは謝辞を述べると共に、ほっとしたように額に手を当てた。色眼鏡が無いことに気付いて、少し苦笑いする。メルが再び手綱をとり、厳しい顔つきに戻る。
「安堵している時間は無いぞ。イスカリオテが裏切った。こちらの逃走ルートも割れているかもしれん」
「イスカちゃんが?」
ニミリが驚いたように顔を上げる。
「ああ。ましらはそう推理していた。イスカリオテは警察隊ではなく、朝廷からの直接の刺客だったようだ。……彼女のことはましらに任せた。都で落ち合えれば良いのだがな……」
「ならともかく先を急ぎましょう。まだ夷の国境は越えていないわ。追っ手が来ないとも……」
三人の背筋に、ぞわりと悪寒が走った。山羊たちがいななき、木々に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立つ。三人は反射的に背後を振り返った。
「そんなに急いでどこへ行くのじゃ?」
艶のある女の声が聴こえる。山羊の通り抜けてきた獣道の上に、ぽつりと朱い影が立っていた。新皇クラマノドカの碧い瞳が、燃え立つように煌いている。その目を覆うように、額から右の瞼の上を通って、刺青のように紋様が浮かび上がっていた。
「あれは、ジェミナイアの……?」メルが目を凝らして呟く。
「クロウとましらを探しているのだがのぉ、お前たち何処へ行ったか知らぬか」
口調とは裏腹に怒気を孕んだ声音。喉が渇き、悪寒がたちまち滝のような汗へと変わる。冷や汗ではなかった。冷たい夷の空気が、真夏のようにうだりはじめていた。
異様な殺気に敏感に反応した山賊山羊たちが、鳴動し突撃を開始した。
「威勢が良いな」
クラマはにやりと笑い、数十頭の山羊を前に金色の扇子を広げた。
「そういえば、まだ見ていなかったな、旅芸人ども。お前たちが踊り狂う所を」
扇が横薙ぎに風を払う。と同時に、噴き出た爆炎が山羊たちを一瞬にして消し炭に変える。
光に瞼を下ろし、アテネが叫ぶ。
「あれも奥つ器なの?」
「いや、多分志向性を高めているだけだ! 炎は奴の体から出ている」
メルが汗を拭いながら答えた。目の前に立つ圧倒的な死の気魄が逃げ足を封じていた。これまで相対してきたどの賊よりも遥かに強烈な熱気だった。
「とんでもない化け物だね……」
「ああ……。認めたくないが、カミラタ隊長よりも強い。お前たち下手に動くなよ……、死ぬぞ」
メルが片方の目でクラマを睨む。クラマは扇子で自身を仰ぎながら鷹揚に笑った。
「そんなに構えるでない。用があるのはましらの方じゃ。奴の居所を吐けば、貴様らは逃がしてやらんこともない」
「ましらに何の用があるのです、クラマ様」
アテネが固い声で聞き返す。
「うちのクロウがましらに襲われたようでな……。その後拉致までされたと言われておる。お前たちなら何か知っておろう?」
「ましらは理由もなく人を傷つけたりしないわ」
クラマの言葉に、アテネが強く言い返す。
「クロウ殿と交戦したなら、何かわけがあったはずです。きっと私たちを……、いや、夷をさえ守る決断かもしれない」
「何を寝ぼけたことを言っておる。夷を守るためにクロウを倒す理由など……」
クラマははっとした様子で言葉を途切らせた。それから何かを払拭するように、忌々し気に頭をふる。彼女の警戒に一瞬の隙が出来る。メルが2人に目配せをする。
「もう良い、貴様らとこれ以上議論しても無駄なようじゃ。アテネ嬢、そなたを屠るのは些か心苦しいが……、せめて苦しめず葬ってやろう」
扇を振りかざす。その手から焔が舞い上がる。
「行け! ここは私が食い止める!」
メルボルンが叫び、前に進み出る。「走れ!」
クラマが火球を放つ。ざわざわと突き出した木の枝と葉叢がそれを阻む。森林の樹木が一斉に繁茂し、クラマを取り囲むように太い幹をうねらせた。「ほう」クラマは狐のような目を細めて小さく感嘆する。
「馬鹿が……」
メルボルンは髪の毛を逆立て、大地に掌を付けた。「森は私のテリトリーだ……。簡単には通さねえよ、貴族様!」
「愚者は貴様の方じゃ、下賤の鼠が」
微笑を浮かべ、扇を閉じる。クラマの背から、空を突くような幾本もの火柱が噴出する。まるで九本の巨大な尾のような火炎に目を見張るメルに、クラマは扇の切っ先を向ける。
「森に地の利があるのはわしも同じじゃ。せっかく用意してくれた薪じゃ、焔にくべてやる」
メルが二本の蔓を後方の二人に巻き付け、小槌を構える。爆炎が炸裂し、辺りを夕刻のようなオレンジ色に染めた。
「ヴァニラ、解いてよいぞ」
焦土と化した森を眺め、クラマは耳元に揺れるイヤリングに手を添えて声を出した。
「もうよろしいのですか、新皇様」
応じるように、イヤリングから声が漏れてくる。「分身の使用限界にはまだ余裕ありますが……」
「灰を探しても仕方ないからな。一度解除して前線に運んでおけ、少し気になることが出来た。……輪具と『釘』だけ回収しに来い。分かりやすい所に置いておく」
彼女は手近な木に近づくと、熱を帯びた扇子の一振りで胴を断ち、切り株の上に音の出なくなったイヤリングを載せた。
リングから離した彼女の指先が震える。振動は大きくなり、指の末端からぽろぽろと皮膚が塵のように剥がれていく。やがて全身が塵芥となって風に消えていく。崩れ去った彼女の居た所には、光沢のある青い釘の突き刺さった大きな藁人形だけが転がっていた。




