第15話 四天王 序
ましらがラックルクロウと遭遇する、その数刻前——。
「——なら、あんたほどの武具使いでも持ってないわけか。『阿頼耶識』の情報は」
舎へ向かう道を歩きながら、ニニギニミリが言った。三つの影がひっそりと静まり返った街の中を進んでいく。遠くから漣のように、宴の名残の歓声が打ち寄せる。紅喰いは肯いて答えた。
「『阿頼耶識』……、精神に干渉す魔道具ならば、希少なカプリチオ製だろうな。おそらくジパングには存在しないだろう。もし見つかっていれば、側近として、クロウ殿がお教えくださっているはずだ。……アテネ嬢、貴方はカプリチオ族の代表貴族なのだろう。貴方には治せないのか」
「生憎とそこまでの技量はないわね。私の……、というか殆どのカプリチオ族の催眠は一時的なものであって、持続性が無いのよ。恐怖の上に安定した心を上書きしても、すぐに元へ戻るわ」
「それに、上書きでは心の根っこの部分に影響を与えられない。心の病みを解消するには、無意識に働きかける必要がある……、だったね?」
ニミリはアテネのことばを引用して口添えする。魔境に寄食していた時代から、アテネには散々その手の打診を続けていた。しかし少なくとも王都周辺の地域には、グラムシを治療できるような人間はいないようだった。
「ならば仕方ないな。そのグラムシとかいう野風は、時間をかけて面倒を見ていく他あるまい。それかカプリチオ族の中でも稀有な使い手……洗脳使いを探すしかないな」
「洗脳?」
ニミリが聞き返す。アテネも興味深そうに耳を傾けた。
「ジパングでは絶えて久しいと聞くが……。催眠を超える催眠、無意識を変容させ永続的な人格の変化すら可能にするという、カプリチオ最大の御業だ……。大陸には今もその使い手がいる」
「聞いたことがあるわ。あまりにも常識を外れた効力故に、かつて魔法とされていた禁忌の力ね。お伽話だと思っていたけれど……、まさかカプリチオの能力だったとはね」
「しかし大陸か……。おいそれと渡れる場所じゃないね。あそこはずっと前から覇権を巡る戦争状態だろう? 生きて還ってこれる人間は一握りだよ」
ふと思いついたように、ニミリは付け加えた。「大陸の使い手の話を知ってるってことは……、もしかしてあんたも大陸経験者かい?」
「ふっ、半分当たりと言ったところだな」
紅喰いが複雑な表情で答える。心なしか遠い眼をしているように、ニミリには見えた。
「それより、カプリチオの事情にも詳しいみたいだけど……」
言いかけてアテネは言葉を切る。地面に見慣れた朱い実が転がっていた。「……鬼灯? なぜこんな所に……」しゃがみ込んで拾い上げる。ふと地面を見ると、実のように朱い斑点がぽつぽつと滲んでいた。……血痕だ。
不審そうに眉を顰めたアテネの意識は、唐突に暗夜を引き裂いた爆音に引き戻された。紅喰いが即座に金色殿の方角を振り向く。
「何だ⁉」
ニミリが瞠目して、驚いたアテネと共に振り向いた。遠くに見える金色殿の屋根から、煙が上がり始めていた。
「あそこは新皇様の寝所の階……」
紅喰いが険しい表情を作り呟く。ニミリが事態を察して尋ねる。
「事故か……? それとも敵襲? 夷内に反新皇勢力はいないの?」
「どうかな……。ともかくも二人は舎へ急げ。俺はクロウ様の守護に戻る。奴らの狙いが夷の転覆なら、次に狙われるのはクロウ殿だ……!」
「! ……分かった。俺たちはまずましら君と合流しよう、アテネちゃん!」
ニミリはアテネを促して館への道を一散に駆けだしたが、数歩進んだ所でアテネが歩みを緩めた。
「? どうした? 疾く疾く行かれよ」
後方から、怪訝そうな表情で紅喰いが尋ねる。
「……おかしいわ」
宵闇の中に足を留め、アテネが疑問を呈する。
「この状況で最も疑わしいのは私達のはずよ。なぜ貴方はすんなり私達を返すの?」
ニミリも立ち止まって振り返る。一瞬の間の後、紅喰いは微笑みを浮かべて静かに答えた。
「……それは君たちを信頼しているからだ。君たちの頭目のましらは、盃の炎を以て潔白を証明してみせた」
「でも、あなたは爆発が聞こえた時、真っ先に金色殿の方を向いたわ。まだ煙が上り始める前のことよ」
「アテネちゃん、彼はあのクロウ殿の側近だよ。上位の武官として、新皇の危険を真っ先に警戒するのは当然のことじゃないか?」
「だからこそ怪しいのよ」ニミリの当惑に、アテネは首を振る。「普通その立場なら、こんな会話に付き合わうこともなく、さっさとクロウ様を護りに行くはずでしょう。それなのに彼は私達が消えるのを見届けてから立ち去ろうとしていたわ。それに私は聞き逃さなかった。彼は襲撃の犯人のことを『奴ら』と形容した。敵の想定すらままならない状況で、なぜ複数犯だと分かったの?」
「まるで彼を疑ってるみたいじゃないか」ニミリが焦ったようにアテネの肩を掴む。「いくら彼が野盗の出の野風だからって、賊と決めてかかるのは……」
横薙ぎの金棒が、ニミリのいた空間を一閃した。横ざまに吹き飛ばされたニミリが、隣家の塀に突っこんで粉塵を立ち上げる。
「ニミリ!」
彼の姿を目で追い叫んだアテネの頭上に、紅喰いが金棒を振り上げる。金色の鉄塊がアテネの赤髪に降りかかる前に、粉塵の中から飛び出した鎖が紅喰いの腕を絡めとった。
「……君が正しかったようだね、アテネちゃん」
ニミリが自身の右腕に巻き付けた鎖を、倒れ込んだ姿勢のまま引っ張る。「自分と同じ境遇だからと、彼に肩入れし過ぎたみたいだ。……君は急いで舎へ! ましら君に知らせるんだ」
アテネは逡巡した。舎への道とニミリの間で、瞳が揺れる。しかし戦力差を悟ってか、一刻も早くましらを連れて戻ることを選択した。踵を返し、全速力で走り出す。
気魄の怒号を上げ、紅喰いが腕を振り抜く。ニミリの体が強引に引き寄せられ、紅喰いの回し蹴りに腹から突っこんだ。
地面にのめり込むほど激しく叩き潰されたニミリが、口から鈍い叫びを吐き出す。
罅割れた自身の膝当てを見て、紅喰いが頬を歪める。
「……小賢しいな。腹に盾を隠していたか」
ニミリは鎖から腕を解き、よろめきながら立ち上がった。僧衣の裾から四つに割れた小盾を取り出し、地面に投げ捨てる。
「増援が来れば多勢に無勢だよ。……なぜアテネちゃんを追わない?」
紅喰いは鎖が外れないことを確認すると、両手で金棒を握りなおした。
「いずれ真白雪は誘き出すつもりだったからな。そちらから出向いてくれるなら手間が省ける」
「つい半日前に伸されたことを忘れたわけ? ましらクンが来たら、こっちの勝ちだよ」
ニミリの言葉に、紅喰いは動じる素振もなく答える。
「戦うのが私とは限らないさ。……さて、こちらも色々とやることがあるんだ。そこを退いてくれないか」
「野盗らしくもないね」ニミリは武器を構えて立ち上がり、抵抗の姿勢を見せた。
「望みは力づくで叶えるものだろう? 役人仕えで丸くなったかい」
「やれやれ」
紅喰いがこきりと首を鳴らす。「都会育ちの野風に教えてやるか……、猿知恵では埋まらない、実力の差という奴を」
・・・
「……ここに集うのは、13番隊だけのはずなんだがな」
灯りの消えた館の一室に佇んだメルボルンが、不躾に扉を開け放った兵士に言い放った。
「安心しろ。直ぐに再会することになる。牢の中でな」
兵士は背中に抱えたタンクに手を伸ばすと、先端がラッパ上に広がったホースを取りだした。消火器のような形状のチューブの先から、雲のように白い気体が噴き出る。
「……! 霧……」
メルは手近にあった文机を立て、その影に隠れる。煙幕の向こうからの遠距離攻撃を警戒したためだった。
「目くらましのつもりか? ご大層な見かけの割に地味な役割の魔道具だな」
メルボルンは薄く呼吸しながら、霧を仰ぎ微かに匂いを嗅いだ。毒……ではないな。暗殺用の毒薬の香りを思い浮かべながら確認する。警察隊の捜査で押収した品々から、流通している毒物の系統は押さえていた。彼女はポケットに忍ばせていた解毒草から手を離す。
「そう言うな。本来武器ではなく生活の道具……。華は必要ない」
「ふん、湯沸かし器でも使っているのか? 精々加湿してくれ。夷の風は喉に来る」
メルボルンは手に転がした豆を握りしめる。豆粒は見る見るうちに成長していき、鞭のように長い蔓となる。彼女は蔓をしならせて窓の覆いを外した。霧と自身の逃げ道をつくるためだ。
「不遜な口を聞くな。俺はクロウ殿にお仕えする『東夷四天王』が一人。不肖このイセ=イクテュエス、クロウ殿の一番槍として長年務めを果たして来た。上官の紅喰い殿程ではないが、武勲の数なら四天王一よ」
口上ばかりで攻撃してこないな。メルボルンは考えつつ膝を立てた。長期戦狙い……。ならば様子見は逆効果だ。窓から脱出し回り込んで背後を突く。
即断し腰を浮かせたメルは、しかし次の瞬間に膝をついていた。
「……!?」
彼女はズシリとした重圧を全身に感じながら、窓枠の下に這いつくばった。重い……! まるで着衣のまま水の中を泳ぐ時のような動きづらさだった。霧がまとわりついて体を地面に引きつけていた。「重力操作……、いや『重力の霧』か!」
目の前に立てかけた文机がぐらりと傾く。メルボルンは咄嗟に首と頭を庇った。重力を帯びた木の塊がメルの身体を圧し潰す。巨木の下敷きになったようにメルは呻き声を上げた。敵の声のあった方角目掛けて蔓を振るおうとするも……、鞭は重たく地面にしなだれるばかりだった。
「俺が手を下すまでもなかったな。部屋の家具どもが落下して、凶器に変わり始めたか」
イセが霧の中を悠々と歩き、近づいてきた。
「お前、現在の13番隊なんだってな。噂に聞く警察隊の実力も知れたものだ。夷の元警備部隊として、失望を禁じ得ない」
「はっ、喧嘩でも売ってるのか、お前」
メルボルンは口角を上げ、近づいてくる影を睨めつけた。
「喧嘩を売っているか? ……面白いことを言うな。喧嘩は既に始まっているというのに」
イセが笑いながら返す。ホースの先を銃口のように突きつけ、メルの眼を見据える。
「そして……、もう終わるところだ」




