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人獣見聞録-猿の転生 Ⅱ・エデンの東の黄金郷  作者: 蓑谷 春泥
第2章 緋い目玉の蠍
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第13話 九狐(きゅうこん)

 肩に伸びたオレンジの髪が俺の頬をくすぐる。クラマは顔を離ししゃくり上げた。だいぶ酔いが回っているようだ。

「ふん、それにお前よく見ると良い男じゃのお。夷はいつでも貴様を歓迎するぞぉ」

「はは……、お戯れを、殿下」

 俺は冷や汗を流しながら答えた。

「堅苦しいのお。今夜は無礼講じゃ。立場を忘れて楽しまぬか!」

「はあ……、では、お言葉に甘えて」

 俺はやんわりクラマの肩を解きながら盃を傾けた。緑の果実酒は白ワインのような芳醇な味わいがした。

「で、時にお前、女は何人いるのじゃ」

 俺は酒を吹き出した。クラマは愉快そうに自分の顔にかかった酒を舐めとった。

「殿下、粗相をいたしました……」

 濡らした清潔な布で迅速に御顔を拭いながら、俺は平謝りする。

「よいよい。平時なら百叩きじゃが今は許してやる」

「許してなさそうな人がいるんですが……」

 凍てつくような視線で物凄い睨みを効かせてくるクロウを横目に見ながら、俺は消え入りそうな声で言った。豪放な笑いを放ちながら紅喰いがやってくる。

「気にするな。側近として何年もお仕えしているが、クロウ殿はクラマ殿に近づく男児(おのこ)を煙たがるんだ。いつものことだよ」

「そうじゃ。気にせず婿に入ってこい。義兄妹になれば奴も大人しゅうなるぞ、男前」

 俺の脇腹をつつくクラマを、クロウが引き剝がす。

「姉様、飲み過ぎです。それと彼は特に男前ではありません」

「おい」

 俺は思わず異を唱える。

「ましらクン、野風時代は精悍な顔つきだったんだけどねえ」

 ニミリが皿に山盛りの海鮮料理を運びながら言う。「あはは! 十人並っす!」イスカが夷の皆さんを引き連れ、琥珀色の液体をラッパ飲みしながら通り過ぎていった。

「あいつ、大丈夫なのか。一応任務中だぞ……」

「本人曰く、『匂いに当てられただけ』だそうだ」

 メルがアテネと連れだってやって来て答えた。やはり任務中ということなのか、2人は一滴も飲んでいないようだった。それでも空気に酔ったのか、いつもより褐色の肌を少しだけ火照らせたメルは、俺と目が合うと肩にぽんと手を置いた。

「安心しろ、ましら。男は顔じゃない」

「フォローになってないが……?」

 アテネが苦笑いで付け足す。「私は良いと思うわよ。あはは……」一回り年下の女の子に気を遣われて、俺は泣いた。


 人が周りからはけていき、自然とクロウと俺が2人残された。クロウは黙々と度数の高そうな酒を飲み干していく。クラマが妙なことを口走ったせいで、若干気まずい。

「あー……、お酒強い方なんですね、太政官殿」

「顔には出ない方です。基礎体温が低いので」クロウは俺の方をちらりと見て付け加える。「ましら殿も」

「ああ、俺酒で酔えないんですよ。どうも新陳代謝が恐ろしく良いみたいで」

 無論改造手術のせいである。

「と……、俺というのは失礼でしたかね」

「かまいません。今日は無礼講らしいですから」クロウは淡々と述べる。氷の彫像のようなポーカーフェイスで、感情が読み取りづらい。分かりやすくなるのは姉が絡んだ時くらいだ。

「私も高官などは柄ではありません。どうかくつろいでお話しください。隊の方たちにするように」

「はあ、では、お言葉に甘えて……」言いつつこれは二度目の台詞だなと思った。俺は咳払いする。「……しかし意外だな、クロウ殿も肩肘張った肩書は苦手か」

「ええ……。母方こそ貴族の家系ですが……、父の家は中つ国のしがない配達夫でした。伝書鳩を飼い慣らして生計を立てていた。私も細々と市井で暮らす方が、性に合っている」

 中つ国といえば城下や王都の地方のことだ。

「私の名前も父の若い頃の綽名から来ているのです。鳩守の鳩郎(くろう)……、町の人々から親愛の情を込めて、そう呼ばれていたと聞きます」

 鳩郎(クロウ)……、俺は下の上でその響きを転がしてみた。鉤爪(クロー)じゃないんだな。むしろ「苦労」のイントネーションだ。

「お父上は、ご健在なのか」

「いえ……、先日亡くなられました。落馬事故だったと聞いています」

「それはお気の毒に……」俺はお悔やみの言葉を掛けた。

「いえ……、父も歳でしたから、覚悟はしていました。私よりも、姉様の心労の方が大きいでしょう。父君の御遺体を発見したのは、姉様なのですから」

 クロウが目を伏せて続ける。

「父君の所在が不明になってから一週間、捜索に赴いた姉様が、崖の下で父君の御遺体を発見為されました。崖の上には乱れた馬の足跡があり、不運にもそのまま下に落とされたのだろうと……。父君の遺体は既に腐敗が始まっており、私にそれを見せまいと、姉様は皆が来る前に荼毘に付してしまわれました」

「妹想いなんだな」

「ええ」

 クロウは盃を傾けて言う。

「姉様は家族想いの方です。父君のことも慕っていた。父が身罷り、姉様が寂しく思われていないか心配です」

 しおらしいことを言うので、俺はつい話に耳を傾けてしまう。

「大事なんだな、彼女のことが」

「ええ。……幼少期、発現したばかりの狂花帯を抑制できず、周囲の誰とも肌触れることが能わずにいた頃、私に人の温もりを教えてくれたのは姉様でした。姉様だけが、私と触れ合うことができた。それ以来、私は姉様を側で支えると心に誓ったのです」

 俺は彼女の身の上話に、少し共感を覚えた。「何かおかしなことでも?」俺の表情を見て、クロウが怪訝そうな顔で尋ねる。

「いや……、少し似ているな……、と思ってね」俺は軽く微笑んだ。「とっつきにくい人かと思っていたが……、存外、あなたとは仲良くなれそうだ」


 宴もたけなわとなり、ぼつぼつと帰参者が出始めた。良い時間だったので俺も舎に戻ることにした。

「新皇様は?」

 大きな盃から酒を流し込んでいた紅喰いに俺は尋ねた。

「寝所に入られた。だいぶ飲んでらしたからな」

 紅喰いは酒量の割に殆ど素面に近い調子で答えた。

「帰るなら、表のベンを連れて行ってくれよ」

「ベン?」

「ああ……、こっちじゃ山賊山羊と言うんだったか。私の故郷ではそう言うんだ」

「方言みたいなものか」

 俺は肯いた。「……もしかして、山羊をけしかけたのはあんたか?」

「御明察。立案はクロウ殿だがね。まさかあんな切り立った崖から攻めてくるとは思わなかったろう?」

「切れ者だな、彼女は」

「そうとも」

 紅喰いが首肯する。「に、しても橋でベンたち殺してしまったのは惜しかったな。戦闘中とはいえ……、名前まで付けていたんだが」

「そうなのか。あの生き残ったやつはなんて言うんだ?」

 紅喰いが答える。「ベンK」

「ベンK」

 変な名前だ。鸚鵡返しに口にして俺は思う。

「……二十何匹いたろ。全部に名前を付けてたのか?」

「ああ。ベンA、ベンB、ベンC……、ベンZまでいたな」


 俺はアテネと何やら政治の話をしているクロウを見つけ、暇を告げた。

「アテネも帰るか? 子供は寝る時間だろ」

「子ども扱い」アテネは拗ねた声で顔をしかめ、べっと舌を出した。クロウが微笑まし気にそれを眺める。俺は笑って手を振った。

「悪い悪い、成人したばかりだったな。なら帰りはメルと……、と、もう居ないか。じゃあイスカかニミリと一緒に帰ってくれ」

 どこからともなく現れたイスカが肩に手を回してくる。

「小隊長ーぉ、二軒目行きましょうよお」

「やっぱりこいつは駄目だ。ニミリと来てくれ」

 べろべろのイスカを山羊の背に括りつけ、手綱を引きながら俺は月の照らす道を歩いた。新世界の星月夜はいつ見ても明るかった。23世紀のネオンに奪われた星明りの一つ一つがこの一時に蘇ったかのようだった。そういえば肉眼に見える星というのは何光年も昔の姿なのだ。ということは、この星屑の中のどれかは、まさに俺が生きていた時代の姿なのかもしれない。そう考えると少し不思議な気分になった。

「小隊長ー、おセンチな顔してるっす」

「少し、故郷に思いを馳せていただけさ。イスカリオテもそんな気分にならないか?」

「あーしはならないっすねー……。故郷に何の未練も思い出もない。あれを故郷と呼べればの話っすけど」

「お前も、大変だったんだな」

 俺は孤児院で過ごした日々のことをぼんやりと頭に浮かべた。それらの歳月を思い起こすのは本当に久方ぶりのことだった。思い出せば罪悪感に苛まれると分かっていたからだ。

 でも今は、それに少しずつ過去に向き合えるようになっているような気がした。

 イスカリオテが管を巻くように続ける。

「ヒト族にも貧民窟ってあるんですけどね……。酷いもんっすよ。魔境(スラム)と違って、殆どが成人前に死ぬ……。でもその町は決して無くならない。何でか分かるっすか? 次から次へと墓児(はかご)が舞い込んでくるからっす」

墓児(はかご)?」

「聞いたことないっすかー? 貧民街に捨てられた孤児のことっす。中には本当に墓地に棄てられる子もいますけどねー」

 風がそよそよとイスカの緑の髪を梳いた。そういえば、リリがまさにそんな境遇だったはずだ。墓地に棄てられた彼女の生涯は、貧民街よりももっと酷く……、もっと孤独だったことだろう。

「お、雪割草」しみじみとした気分をイスカの叫びが掻き消す。道端の小さな白い花を指さしている。

「さすがジェミナイアの御膝元っすね」

「何か関係あるのか?」

 俺は首を傾げた。雪割草というと旧世界にも存在していた花だ。詳しくはないがどうも見た目もほとんど同じようである。姿や名前そのままに生き残っている生物もいるのだろう。

「それぞれの民族にはですねー、シンボルとなる民族花があるんすよ。私たちカルキノスなら月桂樹、ライブラ族なら雷草、スコルピオなら笹竜胆(ささりんどう)と言う風に」

 県花たいなものか。俺は納得する。それならレオンブラッド族は蒲公英(ダンデライオン)かと聞くと、それは俺の一族(サジタリオ)の花らしい。そういえば蒲公英(たんぽぽ)の花言葉は「神託」だったな、と俺は何かの図鑑の記憶を思い出す。

イスカが袂からごそごそ何やら朱い実のようなものを取り出した。

「ほら、過保護なお兄ちゃんにはこれをあげるっす」

鬼灯(ほおずき)?」

 俺は手の平に小さな実を転がしながら尋ねた。

「昨日山で見つけたっす。カプリチオのシンボルっすよ」

「アテネの民族のか……。っていうかお兄ちゃんて。そんなに過保護だった?」

「ん~、兄妹のようですねえ。小隊長にだけですよ、彼女があんな子供らしい表情見せるのは」

「まあ、最近年相応の一面が見えてきた気はするな」

 俺はちょっと感慨深い気持ちになって鬼灯を眺めた。熟した実の朱さがアテネの髪色を思わせた。俺は振り返りながら言う。

「イスカももっと気を抜いて良いんだぞ。まだ18なんだし……」

 俺は言葉を切る。そこに見えるはずのパステルグリーンの髪は虚無の闇にとって代わられていた。気づけば風の音は止んでいる。街灯の無い畦道の闇に俺は山羊と一人一匹、取り残されていた。

「……イスカ?」

 俺は山羊の下を覗き込んでいた。イスカを括りつけた蔓が切れていた。落馬したのではないかと心配になった。だがそこには誰もいない。あたりには隣家の塀の他は黒洞々とした夜の影が広がっているばかりだ。

「イスカリオテ! 何処……」

 背中に痛みを感じる。鬼灯の実が地面に転がる。違和感は瞬間、激痛へと変化した。

「……!?」

 前方に転がりながら背後を振り返る。一瞬視界の端に陰が移ったが、それは素早く塀を越えて消えていくところだった。白刃のきらめきだけが月の下にわずかに瞬いた。

 背中を蛆のように這いあがる痛みに俺は膝を付き、血痕の滲んだ土を掻きむしった。息が出来なくなる。汗が噴き出して目の前の視界がぐるぐると反転した。

……いや、事実肉体も捩じれ空転しているような感覚さえした。

「誰だ?」

 咎めるような声が聴こえてくる。俺は顔を上げる。

「……? ましら?」

 不意に目の前に眼帯と片眼が現れる。

「メル……?」

俺は唐突な事態に混乱し、狭くなっていく視界を周囲に走らせた。夢? 幻? いや、たしかに背中の痛みは本物だった。俺は町の中にいたはずだった。だが目の前には麦茶色の畳と木の天井の和室が広がっていた。


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