第8話 黄金郷
明け方まだ星のちらつく空の下を、俺たちは不二原に向かって山羊を駆り立てた。草葉に露の残る朝の空気は冷たく、ニミリと俺以外の3人は肩を軽く震わせた。
「だいぶ涼しいわね」
「北部は王都より低いっすからねー、気温」
言いつつイスカはくしゃみをした。遠くの山々の頂上付近は、この季節にも関わらず雪化粧をしている。俺は隣を走るアテネに上着を着せかけた。
「その恰好じゃ寒いだろ。もっと早く気づけば良かった」
「あら、ありがとう。……二人は平気そうね」
礼服の上に上着を羽織ったアテネが、俺とニミリを見て言う。
「僕は毛皮があるからね。ましらクンはヒトにしちゃ頑丈だし」
「言い草が引っ掛かるが、実際その通りだな。多分恒温性が人より高い」
恐らくは手術のお陰だった。肉体は強く僻地でも生き延びられるよう改造されていた。
「隣の後輩が寒がってますよ? メル先輩」
「離れろ」
外套を羽織ったメルボルンにすり寄ったイスカは、すげなく断られていた。
山賊山羊は予想以上の走りを見せ、昼過ぎには集落に辿り着いていた。傾斜のついた茅葺屋根の家屋が点々と並び、近くには工場のような石造りの横に長い建築があった。煙突から絶え間なく煙が出ている。
「いるな、人が」
俺はメルボルンと視線を交わす。手筈は決まっていた。
「どなたか、おられますか」
坂を下り、工場の戸口に立った俺は声を張った。蒸気が溢れていて奥まで見通すことができない。俺はもう一度声をかけた。
「何用じゃ」
すぐ頭上から女の声がした。屋根裏からひょっこり顔を出した青い瞳の女が返事をしていた。ミディアムロングのオレンジの髪が、重力にしたがって垂れ下がっている。童顔だが、綺麗な着物の下の体の線と、どことなく漂う艶やかな雰囲気からして、大人の女性だ。
「なんだ見ない顔じゃの。旅人か」
「ええ、旅芸人です」俺は念のため身分を偽って答えた。「この地方の領主様にお目通り願いたいんです。営業の許可を頂きたいもので」
「なんぞその程度のことなら、勝手に回ってもらってかまわんぞ」
女は狐のような鋭い目でこちらを見つめながら、朗らかに答えた。
「いえ、折角ですのでご挨拶したいのです」俺は粘る。「役所でもかまいません。どちらの方角に向かえばよいですか」
「あー」女はふくらはぎの辺りを屋根裏に引っ掛け、器用に上半身だけぶら下がって戸口を除きこんだ。
「あっちじゃ」山間の方角を指さして彼女は答えた。さっきの河の支流の方だ。遠くに屋根瓦のようなものが光って見えた。
「あれですか。どうも、ありがとう……」俺は振り向いてぎょっとする。煤の付いた火照った顔が間近に迫っていた。至近距離で月夜のような藍色の瞳と目が合った。
「おぬし、ずいぶん綺麗な顔じゃの」
「えっ、ありがとうございます……?」
俺は唐突な誉め言葉に礼を言った。しかし女は光を落としたような明度の低い眼でこちらを凝視した。「綺麗な顔じゃ。普通、旅の一座はもっと垢にまみれ、汗に汚れた顔をしているもの。ぬしのそれは日頃湯に浸かっている者の艶じゃ……」
「……ちょうど昨晩、水浴びをしたもので」俺はにこやかに受け答える。「領主様の前に出るのに、不潔な身なりではいけませんからね」
顔色を変えずに、淡々と嘘を並べ立てた。「ふむ」彼女は納得したのかその体勢に疲れたのか、上体を再び天井に戻した。
「何を作っておられるのですか」
このまま立ち去るのも逃げ帰っているようなので、俺はあえて天井裏に声をかけた。
「作っているのではない。ここは製錬所だ。鍛冶場は隣の工場じゃ」
「金を抽出してるのですか。近くに鉱山があると聞きました」
「そうじゃ。だが金は大して獲れんぞ。青銅と岩塩と砂金を錬成して金に変える。ジェミナイアの錬金術じゃ」
とんでもない技術が生まれたものだ。23世紀でもそんなことは不可能だった。というか、物理的に不可能なはずだった。
「あなたは何をしているのですか」
「金の加工工程の短縮を試みておる。高熱で溶かし鋳型にはめて形を作る。より融解速度を速める加熱の仕方を考えているところじゃ」
「まるで職人ですね」
「本物の職人はこの奥だがの。とはいえわしが手を貸すようになってから、加工技術が急伸したのはたしかじゃ」
からからと女が笑う。気をよくしたところで俺はお暇を告げた。彼女の明るい応答が降ってくる。
「気をつけて行けよ、旅の者。一雨来そうじゃからの」
予告通り降りだした雨を見上げながら、俺たちは洞穴の下で乾飯を開いた。目的の不二原は目前だったが、橋が見えてきたところで俺がふと思い出し、これから雨が降るらしいと何気なくメルに放したところ、彼女は血相を抱えて俺たちを屋根のある場所まで連れ戻した。程なくして車軸を流すような雨が降り始めた。
「こりゃ狐の嫁入りかな」
俺は曇天を見上げながら独り言ちる。メルは汗を拭いながら息をついた。イスカ乾飯を口の中でもごつかせながら尋ねる。「わざわざ引き返すほどでした?」
「東国地方には『煙雨』という熱湯の雨が降るのよ」
口元を手で隠しながらアテネが答えた。米を呑みこんで続ける。
「比較的短時間で上がるけど、その間は火傷するほど熱いお湯が大量に降りそそぐの」
「地元の人間は、雲の形でそれと知れるみたいだがな。ましらの予知があるからと油断していた」
メルが制帽を脱いで、蒸れた髪に手櫛を入れる。
「まあ本丸に着く前に小休止できて、良かったじゃない。ね、ましらクン」
ニミリがしゃがみ込んだ俺に声をかける。俺は足元を流れる雨水の前に手をかざした。湯気が立っている。だが冷えた岩盤の上を流れ少し熱が冷めているようだった。指を付けてみると、まだほんのりと温かかった。
「しかし、いよいよ本丸か……。いつ仕掛ける?」
洞穴の下の花を食む山羊の背を撫でながら、遠くに見える城かなにかの屋根を睨み、メルが真剣な口調で尋ねた。仕掛けるというのは無論、夷の領主を襲撃することだ。
「事前に打ち合せた通りだ。元老院のアテネからこの詔書を直接、『新皇』へ手渡してもらう」
俺は懐から細く織り込まれた帝の誓文を取りだした。
「夷の独立を認め、和睦の誓を宣言したものだ。向こうがこれを読んで安心し、油断した所を狙う。俺が攻撃を始めるまで、お前たちは決して手を出すな。それなら万一失敗しても、俺の独断として言い訳がつくからな」
言いつつ俺は視線を床に落とす。敵軍上層部の『実力排除』……。俺は予知で見た未来のことが頭に引っ掛かっていた。
俺の様子を見たニミリが、皆に背を向ける形で側に歩み寄ってきた。肩を叩き、俺にだけ聞こえる声で伝える。
「『汚れ仕事』は俺に任せて、ましらクンは敵を弱らせるのに集中しなよ。殺生は君らには荷が重いでしょ」
「! ニミリ……」
「安心しなよ。そのために俺が来たんだ」
ニミリは自嘲的な笑みを浮かべて手を離した。この遠征に加わったのがメルヴィルでなく、ニミリであった理由が、分かった気がした。
雨が止んだ。雲が緩やかに流れ、西の空に朱く色づきつつある太陽が顔を見せた。俺たちは再び山羊にまたがり、遠くに、しかし十分目視できるほどに迫った城門へ歩を進めた。
消え残る蒸気の中を俺たちは進んでいった。城門はもう少しだった。先の雨に水嵩を増した河の上に架かる、欄干に精緻な擬宝珠の乗った、幅広な上等な橋に辿り着いた。
「……待たれよ」
橋の向こう岸から発された低く野太い声に、山羊たちが興奮気味に胴を震わせた。
俺は次に起こる山羊の動きを察知して、咄嗟に隣のアテネを抱え飛び降りた。四匹の山賊山羊たちは霧の向こうに立つ圧倒的な『捕食者』の気配に反応し、乗り手を振り落とし猛然と突撃を開始した。
剛腕から放たれた、霧を断ち払うほどの一撃が、山羊たちの首を刈り落とした。
「手荒い歓待だな……、『紅喰い』」
地面から身を起こしたメルが舌打ちして呟く。数多の武器を背に負い、僧服を纏った巨体の野風が、橋の向こうに仁王立ちしていた。




