都市伝説 引き取り屋
「彼」あるいは「彼女」は引き取り屋と呼ばれていた。
男であるのか女であるのか。
大人であるのか子どもであるのか。
誰も知る者はいない。
引き取り屋は都市伝説だった。
出会う方法はこうある。八階以上あるエレベーターがあれば良い。三階からエレベーターに乗り、六階を押す。六階では降りずに一階を押し、一階でも降りず、八階を押す。すると八階は引取り屋につながっているという。途中で他の階に止まったり、他の人が乗ってきたらたどり着くことはできない。
引き取り屋が引き取るのは記憶だ。
自分であっても、他人であっても、頼んだ記憶を引き取って、綺麗さっぱり消してくれる。
代価は金。あるいは、記憶。
そんな引き取り屋の噂を信じて、今日も誰かがエレベーターに乗り込む。
都心の一等地。九階建て、築四十年のマンション。
一人の母親だった。五十代の神経質そうな小太りの女は深夜、自らの住むマンションのエレベーターに乗った。午前三時。乗り込んだのは三階。
毛玉が目立つグレーのスウェット姿。片手には服と不釣り合いなブランド物のハンドバッグをかけ、スマホを持つという異質な姿。扉が閉まると女はスマホを睨みつけながら、苛立たしげにつま先を鳴らす。年代物のエレベーターが動く低い機械音と、サンダルが古いタイルを不規則に叩く音が続く。
三、六、一と階を移動する。どのフロアでも女が降りることはない。丸く浅い「八」を、そしてすぐさま「閉」のボタンを何度も押す。閉じるまで乱暴にガツガツと何度も「閉」が押される。カゴが閉じると女は一息ついた。カツカツという音が止まり、低い音だけがゆっくり、ゆっくり昇っていく。
女は不安そうに扉上部の階数表示を見つめる。六、七……八。
扉が開く。女は息を呑んだ。
そこは女の知るマンションではなかった。薄暗い、木造の廊下が伸びる。古い映画に出てくる前時代の木造アパートのようだった。
「ひっ……」
不気味さに女はみじろぎ、固まる。しかしすぐに扉が閉まりかけ、女は慌てて「開」を押しカゴを出た。
壁から天井まで全て木造。吊り下がった裸電球が点々と並ぶ。光は弱々しく不安定に影を作る。
女は進んだ。その歩みに合わせて廊下が軋む。その音は低く、高く、うめきのように静かな廊下に響いた。薄暗い廊下の突き当たりには丸ノブがついた薄そうな木のドアがひとつ。表札のように板が打ち付けられている。達筆な墨文字で「記憶引キ取リマス」と書かれていた。
しばしの間、女は扉の前で立ち尽くした。何度かスマホに目をやり、何度も後ろを振り返る。
誰もいない。そこには空気の流れすらなく、シンと停止した廊下がただあるだけだった。
扉に向かい、震えながら女はノックした。軽く乾いた音が、一回、二回、三回。すると扉がひとりでに奥へと開いた。
女はまるで深淵を覗き込むような心持ちで、息をするのも忘れていた。
「入りな」
奥から聞こえてきたのは、年齢も性別もわからない奇妙な声だった。
女は躊躇いながら敷居をまたぐ。裸電球が照らすそこは、古い時代の執務室のようだった。中央に四角い木のテーブル。奥にはガラス棚。いずれもアンティークな調度品。そして、テーブルの奥に座る小柄なフード姿の人物。目深に被ったフードは影が濃く、輪郭すらもおぼろだ。他に姿はない。この人物が引き取り屋だと女は判断した。
「座りな」
短く命令するような声に女はただ従った。立派な木製の椅子が重たげに床を引っ掻く。女はハンドバッグを膝上に置き、引き取り屋と向かい合う。
「用件をいいな」
引き取り屋は言った。女は黙っていた。俯き、時折引き取り屋を見ては、再び俯く。
女が答えるまで無音が続く。水底のような重苦しさが部屋を漂う。
やがて耐えかねてか、女は話をはじめた。
「娘が引きこもりになってて。もう五年も。中学のとき娘がイジメにあって。引きこもってしまって。それから部屋を出てこないんです。なにを話しかけてもダメなんです。主人は私のせいだって怒鳴るんです。ずっと私に子育て押し付けてきたくせに。近所でも噂になって。親戚からもネチネチ、ネチネチ。私ばっかり惨めな気分になって。ずっとこんなの続くんですか。私が悪いんですか」
女の声は深く沈みこむようで、独り言のようにも聞こえる。
「イジメも私が解決したんです。イジメてた子はみんな引っ越していきました。当然ですよね。イジメてたんですもの。私がね、あの子のためにしたんです。それなのにあの子は出てこないんです。夫も帰りが遅くなるばかりで。きっとあの子のことを心配なんてしていないんだわ!」
女の語気は強くなり、「ねえ、どう思います?」震える声で引き取り屋に尋ねる。
「用件をいいな」
引き取り屋は言った。女は一度目を剥いて引き取り屋を睨んだが、引き取り屋の表情は窺い知れない。女は不満そうにバン、とテーブルを両手で叩いた。
「娘のイジメられた記憶を引き取ってください!」
「そうかい」
引き取り屋はテーブルの上に右手を置いた。手の下で、ことり、と固い音がした。何かを置いたということだけが伝わる。
「それだけでいいなら、十万だ」
「払います!」
食い気味に女は叫び、震える指でバッグから財布を取り出した。ブランド物の財布は分厚く、マグロのように膨れている。女は中から十枚の紙幣を数え、テーブルに置いた。すると、紙幣の束は見えない手に引き寄せられるかのように、音もなく引き取り屋のもとへ移動した。引き取り屋は右手を紙幣の上に置いた。
テーブルの中央に一つのガラス瓶が残った。金細工だろうか。美しい装飾が施されたガラスの内側には、小さな砂時計が入っているのが見える。
「これを子どもに渡しな」
それだけ言うと引き取り屋は入り口を指差した。
「これで終わりだよ」
女は恐る恐るガラス瓶を手に取った。見開いた両の目で、まばたきすら忘れて視線を送る。
「これで私は救われるのですね?」
うわずった声は歓喜を孕んでいるようにも聞こえる。
引き取り屋は言った。
「これで終わりだよ」
女はまだ何かいいたげだったが、勢いよく席を立つと部屋を後にした。
静寂が戻る。
しばらくして、引き取り屋は音もなく、静かに席を立ち、部屋から消えた。
* * *
それからしばらくして、再び引き取り屋の扉が叩かれた。
入ってきたのは男。見た目は五十代かそれより上か。細身で長身。スーツがよく似合っている。落ち着いた雰囲気の、身なりが整った男だった。
「あなたが引き取り屋か」
部屋に入るなり男は言った。見下ろす態度に不遜さが滲む。
「座りな」
答えず、少女とも老爺ともつかない声で、引き取り屋は着席を促した。男は訝しむような視線で引き取り屋を見据えながら、丁寧な所作で椅子に座る。
「用件をいいな」
不躾ともとれる物言いに男はピクリと眉を動かしたが、一度息を吐き、話しだす。
「妻の記憶を消して欲しい。引きこもっていた娘が急に出ていって、妻がおかしくなった。私は一ヶ月耐えた。だがアイツは良くなるどころか酷くなるんだ。もう無理だ。妻から私の記憶を消して欲しい。私などいなかったと」
男は淡々と澱みなく語った。
「高いよ」
引き取り屋の声も端的で、そこに一切の感情はない。
「一千万だ」
男はぎょっとして席を立った。
「そんな法外な値段あるか!」
引き取り屋は男の剣幕など意に介さず、続けた。
「記憶で払うこともできる。お前の記憶だ」
「記憶……。それでタダになるのか? 一千万が?」
にわかには信じがたい。男はそんな顔だった。引き取り屋は指一本動かすことなく、淡々と言う。
「タダではない。記憶をもらう」
男は黙っていた。引き取り屋を見据えても推し量ることはできない。それどころかフードのなかの闇に意識まで吸い込まれていくかのように錯覚し、目をそらすと諦めたように首肯した。
「……わかった」
男が告げると、引き取り屋の背後で、巨大なガラス棚が静かに開いた。六段の棚には色とりどりの砂時計が整然と並んでいた。数十、いや百近くはあるだろうか。
立ったまま、男はおののき、たじろいだ。
「前払いだよ」
引き取り屋が言うと、全ての砂時計が浮き上がり、一斉にぐるりと回った。途端、
「う、わああああああああああああ」
男は叫び声をあげた。砂時計が回ると同時に、男の脳裏にさまざまな記憶がビデオ再生のように流れ始めた。砂時計ひとつひとつが、別々に記憶を流す。幼少の頃から今朝の記憶までおよそ五十年という時が押し流されていく。記憶を守るかのように頭を抱え、男は叫んだ。
引き取り屋は動かない。なにもしない。ただそこにいるだけだった。
すべての砂が流れ落ちるまでどれほどの時が経っただろうか。ガラス棚が閉じた。静かに音もなく。
男は弱々しく、虚ろに引き取り屋を瞳に映した。
「おわった?」
「ああ、お代はいただいたよ」
引き取り屋はテーブルの上に手のひら大のガラス瓶を置いた。中に砂時計の入ったガラス瓶だ。
「これをお前の妻に渡しな」
引き取り屋は言った。男は縋るような目で引き取り屋を見た。
「あ、あの。わたし、は一体、なんの記憶を取られたので、しょうか」
男は人が変わってしまったかのようにビクビクと怯え、瞳は不安に震えていた。
「これで終わりだよ」
引き取り屋はそう告げ、入口を指差した。
「わからない……なんの記憶がなくなった? わたしはなにを失った?」
男は頭を抱え、テーブルに伏した。
「これで終わりだよ」
引き取り屋は繰り返す。
「おしえて、ください。わたしはなにを」
「これで終わりだよ」
引き取り屋は三度繰り返し、男はよろよろと立ち上がると砂時計を握り、部屋を後にした。
扉が閉まると、静寂が戻る。
男が支払ったものはこれまで積み重ねてきた成功の記憶。人生の時間の中で、成功したと感じたその瞬間はなかったことになっていた。これまで男が勝ち取ってきた成功の事実は世界には残っていても、男の人生からすべての成功は消えた。男の中に満ち満ちていた達成感も有能感も、もう思い出されることはない。
「高くついたね」
引き取り屋は誰ともなく言った。
「彼」あるいは「彼女」は引き取り屋と呼ばれていた。
男であるのか女であるのか。
大人であるのか子どもであるのか。
誰も知る者はいない。