引っ越す先の赤いそば
引っ越した先のマンションで隣人の呼び鈴を鳴らし、しばし待つ。
「あれ?留守かな?」
先日挨拶に訪れた時に改めて伺うと約束したので居るはず。
トイレや洗濯物を干しにベランダに出ている可能性もある。
機を改めようと手土産を持ち直し、踵を返す。
(しっかしなんで蕎麦なんだか)
末長いおつきあいをと相手に送るのが引っ越しそばという。
(蕎麦の旬は秋だから季節が逆なんだよな……旬のものは旬に食べたいものだ)
風習として割り切り、せめて赤そばの実を使い薄いピンク色で春を彩ってみた。
その蕎麦を持ちかえり、冷蔵庫の中に入れる。
すると隣の部屋から物音が聞こえた。
(なんだいるのか)
再び冷蔵庫を開けようとして手が止まる。
というのも、争うような声と何かが割れる音が聞こえた。
(喧嘩かそれとも強盗か?)
答えを出す前に体が動き、実家から持ってきた荷物の封を開ける。
紐で厳重に締め付けてあった箱のふたをとると、中にあったルーペをかざす。
(この魔法のルーペでのぞくと壁とか塀が透けて見えるんだよな)
勝手に持ち出して叱られた在りし日の郷愁に駆られながらルーペをのぞき込む。
映った景色には人が倒れており、近くには赤い液体が見える。
状況を確かめようと、箱の中で紙に包まれていた水晶玉を取り出した。
「この水晶玉で何があったのか過去を見ることができるんだ」
水晶玉をかざし中を覗き込むと言い争う人たちの姿を映し出す。
隣人さんが板のようなものを受け取ると何か言い争いが始まった。
その後板がテーブルの上にあった瓶を倒し、拾おうとした隣人さんも倒れる。
「相手はどこに行ったんだ……?」
あらゆる可能性を考えた上で、箱の中にある小瓶を手に取り外へと飛び出した。
小瓶の中身は香水で中身はだれとでも気軽に話せる魔法薬。
手首に振りかけ、隣人の部屋に向かう前に寄り道をする。
(この三つの魔法の道具で使って一儲けするんだ。これは最初の第一歩だ)
気合を入れ寄り道先にあったものを手に隣人の部屋に向かうと誰かが出てきた。
「探し物はこれですか?」
出てきた人物に寄り道して手に入れたものを見せつける。
「これはAED!?」
「はい。先ほど物音がして倒れる音が聞こえたのでもしやと思って」
「あ、ありがとうございます……」
「これを取りに行こうとしていたんですよね?急いで使いましょう」
「そ、そうですね」
AEDの指示のもと処置を行い、隣人は一命をとりとめた。
落ち着いたところで救急車を呼ぶ。
「ありがとうございます。急に倒れられたんで」
「前回引っ越し先に挨拶したときに心臓の持病があるって言ってましたからね」
「それにしてもよくAEDの場所を知っていましたね」
昔、父から教わったことをそのまま相手に話す。
旅行や引っ越した先では非常口と消火器、AEDの場所は真っ先に確認する。
何かあったときに傍観したり探していたりしている間にも命の火は消えていく。
「『今、何ができるか』『なら、どうするか』って昔親から教わりましてね」
今回の場合は倒れた場所にある瓶の中身も悪かった。
(中身は赤ワイン、倒れて苦しむ人、赤い液体……これは取り乱すよね)
そんなことを考えていると救急車の音が響いてきた。
救急車の人に容態を伝え、状況の説明の話を聞くために耳をそばだてる。
(あの板は回覧板で、紙をめくるときに指をなめるから注意したのか……)
まったく人騒がせな話と思い、救急車を見送ると相手に呼びかけられた。
「よかったんです?私がAEDを持ってきたことにして」
「誰が持ってきても一緒ですよ。それよりこれをどうぞ」
相手の人に蕎麦を渡す。
事件があったのは左側で今話している人は右側、どちらも同じ隣人になる。
末永くお付き合いをしていきたいと思い、手を振って階下の売店に向かう。
「うわっ!」
階段で足を滑らせたまでは覚えている。
気がついたら病院のベッドで横になっていた。
※
「まったくこの子ったら。使用禁止なものを持ち出すだなんて」
右腕と左足を骨折し、個室で入院していると駆けつけてきた母に説教された。
「小さい頃の話だし今は分別つくから良いかなって」
「勝手に判断して――あの道具はね。使うと決まって事故が起きるのよ」
「この骨折もあの道具を使ったからなの?」
「そうよ。まだ軽い事故で済んでよかったわ」
「軽いって……」
意識を失うのと利き腕と足の骨折で軽いと言う。
その意味が分かり、背筋が寒くなる。
「道具は持って帰るわね。病院の転院先はうちの近くにしておいたわ」
母の言葉に口ごもる。
「治療費とマンションの家賃、どうするかお父さんと一緒に話し合いましょうか」
ウサギ形に切ったリンゴを母から受け取り、一口含む。
(せめてあのマンションに住めるように説得しよう)
先立つものと懐具合を考え、ぼんやりと見上げた空は青く澄み渡っていた。