村長の元へ
ヴェストルが森から帰ってきて昼食を取ると村長の家に行く時間になった。
「お父さん、本当に行かないとだめ…?」
「ああ。隠してもいつかは見つかってしまうんだ。人の神はきっと見ている。」
「うん…。」
ヴェストルがシアを説得する。
村長の家に向かうのはヴェストルとエレナ、ディートリヒト、シアの4人だ。
一行は家を出て村を歩く。
シアは緊張していた。祈祷式と収穫祭くらいしか村長を見たことはないし、直接話した事もない。
村長の家は井戸の奥で森側の方にある。ちょうど洗濯時のタイミングで井戸には村の女性がたくさんいた。エレナが洗濯と水汲みではなく家族揃って移動しているのはあまりにも奇妙な光景だった。村の女性達は何があったのかと噂をし始めるのは確定的だ。シアは何とも居た堪れない気持ちになる。
井戸からそう遠くない辺りの、アレンの家に程近い路地を曲がると一際大きな家が見える。どうやらここが村長の家のようだ。
庭を通り家の前まで進むと扉を叩く。シアの家よりもずっと大きい家屋だ。
中から鶯色の髪に淡い緑の瞳の女性が出てくる。
「これは皆さんお揃いで、どうしましたか?」
「やあ、セリア。村長に話があるんだ。」
「…分かりました。中へどうぞ。」
セリアと呼ばれたその女性は一行を家の中へ案内する。
玄関は質素だが綺麗にしてあった。祈祷式や収穫祭で訪れた文官は村長の家に泊まる。一応、不快に思われないようにしているのだろう。
1番手前の部屋は扉が閉まっており中は見えなかった。シア達は2つ目の部屋に案内された。
部屋の中は厨房と10人が座れる程の大きなテーブルのある食堂だった。案内されたシア達を席に座らせてセリアは村長を呼びに食堂を出て行った。
4人だけになった食堂は静かに時が過ぎていた。誰も口を開かない。その空気がシアは苦手だった。
席にはヴェストル、エレナ、シア、ディートリヒトの順に並んで座っている。シアはエレナの手を握るとエレナは微笑みながら手を握り返してくれた。
数分の後に食堂に村長と村長に良く似た顔立ちの男性、セリアの3人が入ってきた。
あの人が村長の息子さんでセリアさんがその奥さんかな、と勝手に思っていると最初に村長が口を開く。
「やあ、ヴェストル、エレナ。ディートリヒトもいたのか。話というのはその娘のことか?」
「はい。」
「し、シアです。よろしくお願いします。」
ヴェストルはシアを村長達に紹介すると、シアにも村長達を紹介してくれた。
「村長のアルフレッドさんだ。横にいるのは村長の息子のナッシュ。俺達と同じ衛兵をしてる。あっちにいるのがセリア。村長の家のお手伝いさんだ。」
セリアはどうやらここで働いているメイドさんらしい。
村長のアルフレッドは40代くらいの中年男性で暗めの紫色の髪と瞳をしている。村の祭では遠目からしか見たことがなかったが、よく見ると筋肉がしっかりとしていてガタイも良い。顔には傷もある。彼も若い頃は衛兵をしていたのだろうか。
ナッシュはまだ若くヴェストルと同じくらい年代に見える。彼もアルフレッド同様に筋肉があり身体も大きい。
「それで、話というのは一体何なんだ?何故ディートリヒトもいる?」
「ディートリヒトには色々相談に乗ってもらっていたんです。これからお話する事は俺とエレナには分からない事ばかりで補足出来る者が必要だと思いまして…。」
「我々が分かれば良いだろう。これはヴェストルの家族の問題なのだろう?」
「そ、その、村長でも分からないと思います…。作物や手芸品を売りに他の村や町に行った事がある者は他にもいますが、領主街程大きな街まで行った事があるのはディートリヒトだけです。」
「領主街に関することか?…それならこの娘を領主街に連れて行くということか?」
「いえ、そうではないのですが…。兎に角、ディートリヒトにしか分からない事もあるのです。」
「……ふむ、それなら良かろう。同席を認める。」
「ありがとうございます。」
ヴェストルは冷や汗を流していたが、どうにかアルフレッドにディートリヒトの同席を許してもらう。
「では早く話を聞かせなさい。」
「はい…。実はその、ここにいるシアが夢視になったのです。」
「な、なんだと!?」
「……。」
アルフレッドよりも先にナッシュが口を開き、ダンッと音を立てて立ち上がった。アルフレッドも眉を顰めている。
ナッシュの娘が夢視になったのは昨年の事だ。人口の少ない村では夢視が現れるのは100年に1度あるかないかという程珍しい。それが2年連続で現れたのだから信じられないのは当然だった。
「ヴェストルよ、それならなぜすぐに知らせなかった?」
今度はアルフレッドが聞いた。
夢視が現れたらすぐに村長に知らせるのは当然の事だ。貴族に召し上げられる程の希少な存在だ。何かをきっかけに失う訳にはいかない。村長が保護してその時が来るまで飢餓や病気、魔物などの脅威から切り離すのだ。
夢視が夢を視るのは満月の週に限られる。それを1週間も経ってから報告に来るのはおかしな話だ。
「それが…シアの視た夢が余りにも信じられる内容ではなく、どう報告をしたら良いかと…。」
「ありのまま報告すれば良かろう。一体どんな夢だったのだ。」
アルフレッドは今度はシアを見る。シアはその視線が怖くて目を逸らして俯いてしまった。
そこへシアを庇うようにディートリヒトが割って入った。
「シアちゃんの視た夢は恐らく異国の夢です。」
「何!?異国の夢だと?」
「はい。シアちゃん、まず視た夢の内容を1日ごとに話してもらえるかな?」
「は、はい…。えっと最初に視た夢は貴族様になった夢でした。」
シアは順を追ってどんな夢を視たのか話した。
馬無しで走る鉄の馬車や動く壁画など、最初は一々驚き「何だと!?」やら「馬鹿な!?」と声をあげていたアルフレッド達も、次々と想像も出来ないような事を聞いて次第に難しい顔になった。
4日分の夢を聞き終わる頃には「あ、ああ」と「そ、そうか」しか言わなくなってしまった。
「ふざけるな…。これを信じろと言うのか?」
アルフレッドは静かに怒りを込めてヴェストルを睨みつける。あまりの怖さにシアは肩を強張らせた。
エレナがシアの肩に手を回してくれる。
「シア、大丈夫よ。お父さん達に任せなさい。」
シアは今にも泣き出しそうなのをぐっと堪える。
「だから初めに言ったのです。きっと誰も信じてくれない。訳の分からない事を吹聴して大勢を困らせて、その後は連座処刑にだってなりかねません。」
「確かにこれで話が終わればそうだな。」
うっ、とヴェストルは怯み、一呼吸置いてから続けた。
「ディートリヒトならいくつか分かることがあります。」
ヴェストルが視線を向けて説明を促す。
「はい。ここからは俺が捕捉しつつ解説しましょう。」
そう言ってディートリヒトは書字板をシアの前に差し出した。
「シアちゃん、ここに君が覚えたひらがなという文字を書いてごらん。五十音、全てだ。」
「えっ、全部?」
「ああ。夢視が夢で視たことは全て報告する義務があるんだ。だからこれはその練習だよ。」
ディートリヒトがそう言うと、アルフレッドもそう言えばその文字を見ていなかった事を思い出してシアに声を掛ける。
「シアよ。其方の覚えた文字を書いてみなさい。」
「は、はい。」
シアは五十音順にひらがなを書き出すと周りの大人が食い入るようにそれを見た。
「確かにこの国の文字ではないが、これは果たして文字なのか…。」
「父様、私には子供の落書きにしか見えませんが…?」
「う、うむ。」
ナッシュの問いかけにアルフレッドも頷く。
「俺も最初はそう思いましたが、この並び順は文字の発音が関係しているのです。」
「「何っ!?」」
(え!?)
村長親子と一緒にシアも驚いた。ドリルにそう並んでいたからそう覚えたのだが、意味があることだったとは思わなかった。
「縦の並び順は子音を、横の並び順は母音を示していています。この国の文字をこのように当てはめると発音が分かります。」
「な、成る程…。」
アルフレッドが意外そうに納得する。
それにしても今朝初めて見た五十音順と初めて聞いた発音だけで法則性を見出すとは。シアの事を天才だと言っていたディートリヒト自身も天才なのではないかとシアは直感的に感じた。
「村長、この家の書字板をお借りしても?」
「ああ、構わん。セリア。」
「はい。」
部屋の隅で静かに話を聞いていたセリアが食堂を出て、書字板を抱えてすぐに戻ってくる。
ディートリヒトは書字板を受け取ると、五十音順が書かれた方の書字板をアルフレッドに渡す。
「村長はそれを見せないようにして何か単語を書かせてください。子供にも分かる物でお願いします。シアちゃん、俺達にも分かるように異国の単語ではなくここの単語でひらがなで書いてごらん。」
「それで一体何が分かると言うのだ?」
「書かれた文字がその表と同じなら、少なくとも子供の思い付きの殴り書きではなくなります。そしていくつもの単語が見分けられ、読めるならそれは文字として通用するでしょう。」
「そ、そうか。では試してみよう。」
そう言うとアルフレッドは対面のシアに見えないようにして、いくつかの単語をシアに書かせてみる。
「…む、ら。…い、え。…も、り。…ぶ、た。…この点はなんだ?」
「それは濁音の文字に付けられるようです。」
「そうなのか。しかし、驚いた。確かに合っている。」
アルフレッドはほほう、と髭を撫で下ろした。
「シアちゃん、次は計算もやってみよう。」
「読み書きが出来るだけでも凄いが、本当に算術まで出来るのか?」
「ええ。出来ていましたよ。」
ディートリヒトは2枚の書字板を拭いて綺麗にすると、シアに0〜9までの数字と+と-を書かせて、その書字板にこの国の文字で数字と足し引きを書き足す。アルフレッド達に再び書字板を渡すと今度は算数の問題を出させた。
シアは目一杯頭を振り絞って計算する。
「2+4、3-1、6+3、9-8…。ふむ。算術はこの国のと似ているな。それに本当に出来ている。」
「これを本も読んだことのない5歳の子供が考え付くとは思えないでしょう?」
「言われてみればそうだな…。」
「確かに…。」
アルフレッドもナッシュもようやく納得してくれたようだ。
これでやっと本題に入れると言わんばかりにディートリヒトは書字板を片付けて席に戻る。
「この文字はこの国のものではないのは分かるでしょう。共和国と帝国も王国時代からの同じ文字を使っていると聞いた事があります。つまり西方三国の夢ではありません。」
「ということは東方五国の夢か?」
「いえ、東方は太古の魔物との戦乱で土地が枯れ、治世は乱れ、民は困窮していると領主街では言われています。シアちゃんの視た夢では技術力が高く、平民でも祭がない日に酒が飲め、動く壁画の様な大規模な魔道具が至る所にあるようです。そんな国があるならば、この大陸は今頃馬も無しに走る鉄の馬車に蹂躙されているでしょう。」
「まさか、言い伝えにある南東の海を越えた魔物の大陸だとでも言うのか!?」
アルフレッド達は流石にこれは信じられない、という顔をしている。話の規模が大きくなりすぎて理解が追いつかないのだ。
「分かりません。いや、少なくともこの大陸ではない土地の国か…若しくは数百年、数千年後の未来の国だという事だけは分かります。」
「そうだな…。まだ遠い未来の話と言われる方が理解出来る。そして報告が遅れたのはそこまでの結論がディートリヒトにしか出せなかったから、という事だな?」
「そ、そうです…。」
アルフレッドがヴェストルの方を見て、ヴェストルもそう答える。
はぁ…と大きくため息をアルフレッドはこれからの事を決める。
「次の3の月の日、満月の日にもう一度シアを連れて来い。翌朝実際に瞳が輝くのを確認したらこちらで預かる。それまではヴェストル、責任を持って育てろ。絶対に死なすなよ。」
「父様、よろしいのですか?」
「まだワシらはその娘の瞳の色が変わるのを見ていない。確実に夢視だと分からん者に食わす飯など無い。」
「はぁ、まあそうですが…。」
ナッシュはまだ完全に飲み込めていないようだが、アルフレッドはそのまま続けた。
「それで良いな?ヴェストル。」
「はい…。」
ヴェストルは項垂れる。否応無しにもシアとの別れの日が決まってしまったのだ。
「夢視の事はそれまで他言無用だ。公表はこちらでする。それからシアを実際に夢視として保護すれば会わせる事はできん。危険を近づける可能性がある。だが祈祷式と収穫祭くらいなら遠目に見せる事が出来るかも知れん。それも7歳までだがな。…別れを済ませておけ。」
「かしこまりました…。」
ヴェストルが了承し、エレナが泣き崩れる。シアも釣られて涙が出る。
アルフレッドは席を立つと、見送りにセリアを残して自分はナッシュを連れて食堂を出て行く。
数分間、食堂にはエレナとシアの嗚咽だけが響いていた。ヴェストルが行こう、と囁いてエレナの肩を支え、ディートリヒトがシアの手を引く。
セリアに戸口まで案内されて見送られた後、4人はとぼとぼと歩いて家まで帰る。
すでに日は傾き、井戸の周りには人はいなかった。
夕焼けの村はとても長閑な風景なのに、4人だけを悲壮感が包む。進める脚は余りに重い。日が沈み闇が全てを呑み込むように、刻一刻と別れの時は近づく。
世界は残酷だとエレナは言った。
慈しもう、家にいる間だけでも。守ろう、村にいる間だけでも。願い想おう、遠く離れても。そうヴェストルは誓った。
家に着いた一同は、留守を守ってくれていたリューネに村長の家での事を報告する。
リューネはそれを静かに聞き、目に涙を一杯にしながらも何も言わず立ち上がり夕飯作りに戻った。
「人の神の祝福と月の神のお恵みに感謝を。」
お祈りの黙祷はシアが産まれてから今までで1番長かった。全員が救いを求めるように手を合わせる。リリですら場の空気を感じて真剣だった。
深く深呼吸したヴェストルが合図する。
「…では、食べよう。」
シアの食事はいつもより少し大盛りだった。
それからあっという間に月日は過ぎていった。
シアは出来る限り仕事を早く終わらせて家族との時間を過ごした。
ヴェストルはシアに衛兵の知識を活かしてナイフの使い方や山菜の知識、簡単な護身術を教え、エレナは知りうる限りの家事や料理の知識を、ディートリヒトは文章の書き方や算術、村の外の事を教えた。シアの為の英才教育月間である。
その甲斐も合ってシアの料理や家事の腕はぐんぐんと上がり、十の位の計算や簡単な文章も書けるようになった。これが普通の子供であれば豪商の側仕えくらいならなれただろう。
夢視になれば家事や雑用は側仕えや他の者が行うので自分でする事はない。夢視の仕事は夢を視る事だ。しかし裁判や政治に関わる以上、そういった事を知っている必要はある。
それにヴェストルやエレナには他に教えられる知識はない。娘との触れ合いにこれ以上の事はないのだ。
リリは以前よりも甘えん坊になった。お姉ちゃんと一緒にいるためにエルネのお世話を率先して手伝ってくれている。あんまり家事が上手くないリリでもシアを見習って頑張っている姿を見ると、シアは姉の威厳が保てて大満足だ。
それからアレンはシアの家に頻繁に顔を出すようになった。村長の家に家族で行ったのを大勢に見られていたシアの事は、村ではすっかり噂になっていて、アレンは心配してくれていた。
最初は村長の言い付けを守ってアレンにも内緒にしていたが、既にアレンはシアが夢視になったのを知っている。
ついには我慢出来なくなってアレンの方から問い詰めたのだ。
「ヴェストルさん!シアは夢視になったんですよね!?貴族様に連れて行かれるんですか!?」
「アレン…。」
「俺、実はシアの目が光ってるの見ちゃったんです。」
「なんだって!?」
ヴェストルはシアの方を見た。シアが最初に夢を視た日、アレンが家に来たことはヴェストルには話していなかった。
「お父さん、ごめんなさい。でも、違うの!」
「分かってる、心配を掛けたくなかっただけなんだろう。」
「あの、俺、シアの事誰にも言ってません。本当です!」
「……はぁ…。仕方ない。アレン。村長には誰にも言うなと言われている。守れるな?」
ヴェストルは村長の言い付けを破り、アレンに話す事にした。最初から知っていたのなら内緒にして色んな人に聞き回られるよりは一緒に秘密を背負ってくれる方が楽なのだ。
「はい。誰にも言いません。それでシアはいつ貴族様の所に行くんですか?」
「貴族様の所に行くのは7歳の収穫祭の時だ。」
「え?それなら…。」
「それまでは村長の家で暮らす事になった。」
「村長の家で?どうして?」
アレンは聞き返した。7歳になるまでは村にいるのだ。それならこの家で暮らしていても変わらないのではないか。5歳の子供がそう考えるのは当然だ。
「アレンは知らないかもしれないが、子供が7歳まで生きていけるのはとてもすごい事なんだ。15歳の春に成人式をするのは知っているだろう?あれは15歳まで生きられる子供が少ないからこそ盛大にお祝いをする儀式なんだ。」
「で、でもこの村で子供が死んだ話なんて聞いたことないですよ?」
「ああ。確かにここ10年くらいは誰も死んではいないな。ここは土地も豊かで作物もたくさん作れるから飢え死ぬ人は少ない。でも突然日照りが続いて干ばつが起きたら畑はどうなる?」
「え…?」
「流行り病が起きたらどうなる?それにこの村は山脈が近い。俺達でも敵わない程強い魔物が山を降りてきたらどうなるか分かるか?」
「そ、そしたら皆で逃げて…。」
アレンの顔がどんどん青ざめていく。そこにヴェストルは追い討ちをかける。
「衛兵達が死んで身を守れない女子供だけで村の外に出るのか?畑を捨てて全員が満足にご飯を食べれるか?」
「……。」
アレンは答えを出せない。そうなれば子供は置いていかれると分かるのだ。大人だってそんな非常事態が起これば最適解を出すのは難しいだろう。
「そんなときに村長に守られていれば真っ先に見捨てられることはない。飢饉になってもご飯も食べられる。夢視を死なせる訳にはいかない。だから村長の所に行くことになっているんだ。」
「そうなんですか…。でも村長の家に行くだけならまだシアに会えますよね?」
「いや、もう会えない。」
「え?…な、なんでですか!?」
アレンはヴェストルに食って掛かる。
「シアは夢視の仕事をする事になる。村の仕事はもうしない。それを他の村の者が見たらどう思う?自分達は毎日汗水垂らして働いて作った食べ物を、夢を視て過ごしているだけの子供が食べている。羨ましい、ずるいと思うだろう?」
「そ、そんな事…。」
思うはずがない、アレンはそう断言できた。しかし、事情を知らぬ者はどうだろうか。
「思ってしまった人がいた。それで夢視に敵意を向けてしまった人がいた。それだけでもう夢視に他の者を近付けられないという決まりが出来た。それに気付かない内に病を移す可能性もある。…だから同じ村にいても、近くにいても会う事は許されないんだ…。」
「そんな…。」
アレンは絶望した。ヴェストル達が村長の家で味わった残酷さを同じ様に味わうのだった。
もう決まってしまったんだ、とヴェストルは力無く言い放ち、家を出た。部屋にはシアとアレンだけが取り残される。
「シア…俺、どうしたらいいのかな…。」
「アレンは…優しいし力持ちだし…、きっと良い人に出会えるよ。その人を守ってあげて。…私は離れてても頑張るから…。」
「…。」
シアはなんとか振り絞って言葉を紡ぐ。
(違うんだ…。俺が守りたいのは…。)
アレンはそれを口にする事は出来なかった。そこまでの覚悟が出来ていない。実行出来るだけの力がない。認めてもらうだけの実績もない。
これ以上何か言えばついうっかり我が儘を言ってしまうかもしれない。そこまで頭が回らないアレンではなかった。
アレンはひたすら黙って考え込んでしまった。
「もう夕暮れだ。メリッタも心配するだろう。アレン、送っていこう。」
「ありがとう…ございます…。」
シアはアレンが力無く項垂れて帰るのを見送ることしか出来なかった。
ヴェストルと共に家に向かう帰り道、アレンはついに何も答えが浮かばずに質問した。
「ヴェストルさん、俺…どうしたらいいですか?」
「どうって…。アレンはどうなって欲しいんだ?」
ヴェストルもまた困った顔をして質問に質問で返した。
「俺は…シアを守らなきゃってずっと思ってたんです。シアはその…よく転ぶし、いつも無理してるの隠すし、自分が辛くても他の人に言わないし…。俺がシアの側にいてあげないとって…。」
「さっきも言ったが、夢視の巫女様になったら家事をする事は無いし森に行く事も無い。転ぶのはまあ…心配だが、無理をする事も無いし近くには世話をしてくれる人も付けられる。アレンが守らなくてもシアを守ってくれる人はいるんだぞ?」
「うっ…。」
アレンは言葉を濁す。
ヴェストルはアレンに対しても、自分に対しても言い聞かせる様に続けた。
「俺達が出来る事はもう、何もないんだ…。」
アレンも同じことを考えていた。だからもう、何も言えなくなってしまったのだった。
「まあ…その…なんだ。これからもウチには顔を出してくれないか?リリはアレンに遊んでもらえるのを楽しみにしているみたいだしな。あの子はいきなりお姉ちゃんが居なくなったらきっとパニックになる。」
リリは最近シアにべったりだ。だがシアには出来ない激しく身体を使った遊びはアレンが相手をしている。
リリはアレンが家に来るといつも遊ぼうとねだってくるのだ。
「…はい。わかりました。俺もリリの事は心配していますから。」
家に着いたアレンはヴェストルと約束すると自宅に入っていった。
「はぁ…。なんでこんな小さな子供達が、あんなに辛そうな思いをしなければならないんだ…。」
ヴェストルは硬く拳を握り、歯を食いしばって1人静かに呟いた。
そして2の魔の日がやってきた。明日はついに約束の3の月の日だ。
シアがこの家で過ごす最後の日である。
3の月の日は満月となりシアが夢を視るとされ、村長の家に向かうのだ。
いつも通り仕事を終えて夕食の席に付くと、いつもとは違う食卓にシアは驚きを隠せなかった。
「お父さん、お母さん!これ…。」
シアの目の前にあったのは仔山羊の丸焼きだった。
普通仔山羊は数が増え過ぎた場合のみ、冬を凌ぐ為に収穫祭の時に数を減らす目的で食べられる。平民にとっては希少で滅多に食べられない肉だ。
「今日はこの家で食べるシアの最後の夕食だもの。豪華にしないと人の神エウヘベリーネから罰が当たりそうだわ。」
「ああ。娘の旅立ちなんだ。これくらいはしないとな。」
両親は笑顔で言った。リューネとディートリヒトも笑顔を一杯にしている。
「それにスープの野菜もたくさんあるだろう?これはアレンも協力してくれたんだ。」
「え?アレンも?」
よく見るとスープも普段より具だくさんだ。こんなにたくさん野菜が入ったスープを食べるのはシアは初めてかもしれない。
「でも、こんな…。いいの?」
シアはつい不安になってヴェストルを見る。だがヴェストルは笑顔を崩さずに言った。
「今日は…シアの成人式のお祝いの代わりなんだ。本当は子供が成人を迎えたら家族で盛大に祝って送り出す。でも俺達にはそれをする事は出来ない。だから今日やるんだ。」
「そうよ。シアは気にしないでいいの。今日は楽しく、たくさん食べましょう。」
「う、うん…。ありがとう。」
いつの間にかヴェストルもエレナも、シアも涙ぐんでいる。
これではせっかくのご馳走も台無しだ。ディートリヒトが雰囲気を変える為に割って入る。
「シアちゃん、今日はお祝いなんだ!シアちゃんが無事に5歳になったのと、これからの旅立ちに向けて皆で美味しい物を食べて送り出す。だからそんな顔をしないの。」
「…うん!わかった!ディートリヒト叔父さんもリューネ叔母さんもありがとう!」
「いいのよ。さあヴェストル兄さん、お祈りをしましょう。」
「あ、ああ。そうだな。皆、手を合わせてくれ。」
ヴェストルの合図に従って全員が手を握り合わせてお祈りをする。
「人の神の祝福と月の神のお恵みに感謝を。」
黙祷を終えて夕食を食べ始める。
ヴェストルとディートリヒトはいつも飲んでいる無酔麦酒ではなくエールを飲んでいるようだ。酔いが回り始めると一気に食卓はにぎやかになった。
「それでな、シアが初めて捕まり立ちしたのなんか…。」
「止めてよ!お父さん!」
「まあまあ、これがまた可愛くてな!」
シアの赤裸々な過去が矢継ぎ早に話題に上がっていく。でもシアも自然と嫌な気持ちにはならなかった。
明日からはこんな夕食を過ごせない。一人ぼっちで頑張っていかなければならない。
切ない気持ちを頑張って隠して笑った。
リリが眠気に勝てずうとうとしてきた頃、ようやくお開きになり家族で家に帰った。
「シア、今日はお父さんとお母さんと一緒に寝ましょう。」
「そういえばシアにはいつもリリをお願いしてたから、あんまり一緒に寝ていなかったな。」
「えへへ。なんかいいのかな。こんなにしてもらって。」
こんなにも幸せな日は初めてだ。全員が自分の為に何かをしてくれる。こんなこと今まではあり得なかった。
「これが最後だもの。シア、私達と一緒に寝ましょう。」
「うん。お母さん、お父さん。…大好きだよ。お休みなさい。」
「ああ…。おやすみ、シア。」
「ええ。おやすみなさい、シア。」
そしてシアは今までに感じた事のない程の満腹感に浸って眠りに就いた。
両親はシアの眠りを妨げないように静かに枕を濡らした。
まだ5歳の娘だ。あまりにも突然でどうにも出来ない別れと同様に、その涙を止める事はできなかった。
間もなく満月になろうかという月明かりが、ただ寂しくシアの家を照らしていた。
翌日、シアは最近は当たり前になっていたように午前中に仕事を済ませ、午後は自由に出来る時間を作る。
今日はなんとか午後休を取って昼食に戻ってきたヴェストルとエレナ、そして今度はリリも一緒に村長の家に向かう。これが最後の家族とのひと時になるのだ。