相談
シアは再び異世界の夢を視て瞳を金色に輝かせながら痛みに耐えていた。
「お父さん、お母さん…。私、どうなっちゃうの…?」
「「……。」」
シアの問いかけにヴェストルとエレナは答えられない。
それもそのはずだ。シアの視た夢には知っているものが何一つないのだ。過去夢なのか、千里夢なのか、読心夢なのか、はたまた予知夢なのかも分からない。これでは村長にもどうやって説明したらいいのか思い浮かばないのだ。
(ありのまま村長に打ち明けるか?いや、昨日と今日は夢を視たが、もし次が無ければでまかせを言って騒ぎを起こしたことになる…。)
「と、とにかく、ディートリヒトに相談してみよう。」
「そ、そうね…。ディートリヒトなら何か良い案を出してくれるかも知れないわ。」
「シアは今日も家で大人しくしていなさい。」
「う、うん…。」
両親はシアを残して仕事に行く。シアはまた1人で家に取り残されてしまった。
2日間も家に籠もっているとどうにかなってしまいそうになる。しかし目の痛みは強く動き回ることもできない。
「はあ…。私にもなにか出来ることがあればな…。」
ぽつんと呟いてみるものの何かが変わることはない。家の静けさはシアを精神的にも追い詰めた。これから毎日こんな気分を味わう事になるのかと思うと憂鬱になる。
これからどうなっちゃうんだろう、と思わずにはいられなかった。
一方ヴェストルとエレナはディートリヒトとリューネに相談を持ちかけた。
もちろん、他の人に聞かれることが無いように家に戻ってからである。
「なあ、2人に聞きたい事があるんだ…。」
夕食を終えてリリがうたた寝をした頃を見計らってヴェストルが真剣な表情で切り出した。
「どうしたんだ、急に。…もしかしてシアちゃんか?何か重い病気にも罹ったのか?」
ディートリヒトは2日間床に臥せっているシアの事を心配してくれる。リューネもどうしたのかという顔をして身体をこちらに向けた。
「そうじゃないんだ。いや、シアの事ではあるんだが、なんというか…。」
「一体何があったっていうんだ。ヴェストルらしくないぞ?」
「そうよ、兄さん。私達の仲じゃない。何でも話して。」
2人はは歯切れの悪いヴェストルに問い詰める。
ここで言ってしまったら全てが動き出してしまう。家族だけの問題ではなくなってしまう。しかしいつかはバレる。シアが夢視になった以上、そう遠くない内に別れがやってくるのは分かっている。
ヴェストルは重い口を開ける。
「…シアが…夢視になった。」
「「……っ。」」
ディートリヒトとリューネは息を呑んだ。
しばらく沈黙が続いた。
「まさか…。ほ、本当なのか?」
「…ええ。2日連続で夢を視たのよ。」
ヴェストルの代わりにエレナが答える。
「そ、それで聞きたいのは夢の内容なんだが…。」
「ま、待ってくれ!村長の孫娘が夢視になったのは去年の事だろう?夢視はそんなポンポン現れるもんじゃない!」
「そうよ。この村だって100年に1人いるかどうかって村長も言ってたじゃない。」
ヴェストルの話をディートリヒトとリューネが遮った。2人も簡単には呑み込めないようだった。
「知ってるさ…。俺だって聞いたから。でも…シアの眼は光っていたんだ。翡翠の眼が、それはもう金ピカに…。」
ディートリヒトは口をあんぐりと開き、リューネはこめかみを押さえる。
「まさか、シアちゃんが…。あんなに良い子なのに貴族様に連れて行かれるなんて…。兄さん、どうにかならないの?」
「眼が痛くて仕事が出来ない程だ…。いずれは見つかる…。」
「そんな…。」
リューネが泣き崩れ、エレナが肩を貸す。
「そ、それでどんな夢を視たって?」
「それなんだが、どう言えばいいか、俺達にもよく分からないんだ。」
「は…?」
「だからお前に相談したんだ。領主街に行った事があるんだろう?何か知っている物があるかも知れないから聞いてくれ。」
そう言ってヴェストルはディートリヒト夫妻にシアの視た夢の内容を教える。
「馬も無しに動く鉄の馬車に、動く壁画だって?そんな物領主街にだってなかった。確かに四角い石の道はあったが黒い石の道なんて見たこともないぞ。」
「そ、そうか…。でも四角い石の道はあったんだな?」
初めて知っているという物があってヴェストルとエレナは安堵する。本当に2人には何もかもが知らない物だらけだったから実在するのかすら怪しかったのだ。
「ああ。大きな街道は石畳みといって四角い石を地面に埋めて馬車が通りやすいようにしているんだ。でもシアちゃんの話では石畳みは人が歩いていて、鉄の馬車は黒い石の道を通っていたんだろう?」
「あ、ああ。そう言っていたな。」
「領主街でも殆どが石畳みで場所によっては砂利道だ。黒い石の道なんてないし鉄の馬車だってないぞ。」
「そ、そうなのか?」
「ああ。多分王都にだって無い…と思う。貴族様は揃って王族の真似をするって聞いたことがあるからな。」
「じゃあ一体…。」
「分からない…。いや、もしかしたら異国の街を視たのか…?山脈を越えたらイヴァリウス共和国だ。その可能性もある。」
「な、なるほど。確かにそうかもな。だが鉄の馬車があるなら山脈なんか軽々越えて攻め込んで来そうなもんだが…。今日なんか10人以上が広々と乗れる鉄の馬車に乗った夢を視たそうだぞ?」
「分からん。軍備が整っていないだけかも知れない。」
今のところ隣国は攻めて来てはいない。戦など経験した事はないが、一度始まれば今までの生活が送れないのはシアだけではない。それくらいはヴェストルにだって分かる。
「とにかく、知らない物ばかりだったんだ。村長に言っても信じて貰えなくて、騒ぎを起こして連座になるかも知れないと思ったんだ。」
「ああ、そうか。…だ、大丈夫だ。その時は俺が一緒に行って村長に説明しよう。」
「本当か!?助かる…!お前に相談して良かった!」
「任せておけ。それから文字の事も見ておこう。シアちゃんはいくつか覚えてきたんだって?」
「ああ。複雑な文字は分からなかったが簡単なのならいくつか覚えたって言ってた。」
「それならきっと大丈夫さ。言葉は分からなくても文字が分かれば文官様が村に来た時に調べてくれるはずだ。」
「そうか。良かった。さっそく次の獣の日に見てくれないか?」
獣の日は休日だ。1週間に1度の休みだがこれ以上の日はない。
「ああ。共和国も帝国も公国と同じ文字を使っているらしいからきっと何か分かるかもな!」
さすがは博識なディートリヒトだ、とヴェストルとエレナは安心した。村を出た事がない2人にとって領主街で暮らした事もあるディートリヒトはとても頼りになった。
「なあ?夢視ってのは毎日夢を視るのか?」
これも両親が気になっていたことだ。獣の日まであと4日ある。それまでシアが毎日痛みに苛まれるのも、家に閉じ込めておくのも2人にとっては辛い事だった。
「さあ…。だが、裁判はだいたい満月の週に行われるんだ。裁判も夢視の仕事だからな。今週だけじゃないか?」
「そ、そうか…。今週頑張ればシアも楽になるのか。」
「ええ。シアに教えてあげなくちゃね。」
ヴェストルとエレナの顔には少し活力が戻った。
寝ているリリを抱きかかえて2人は家に帰ると、痛みが引いて翡翠の瞳に戻ったシアが出迎えた。シアに今日話した事を教えるとシアも安心してくれる。
「いいかい?今週だけ頑張って耐えてくれ。そしたら次の満月までは夢を視ないらしい。」
「うん。頑張るよ。」
「シアは良い子ね。もう少しだから、私達も頑張るわ。」
「お母さん…。」
そうしておやすみなさいを言ってシアは眠りに就いた。
その日視た夢は酷いものだった。
~~~
気が付くとそこはパチンコ店だった。今までに聞いたこともない大音量の音が延々と鳴り響く。
この身体の持ち主は何時間もずっと同じ台に座り続けてシアはただ出玉が落ち、画面が動いているのを見せられた。最初は煩いけれど目新しく何かが起こるかも知れないと思って我慢していたのだが、そんな事は無く身体の持ち主はひたすら右手を固定していた。
時折タバコに火を付けるとシアはその臭いと周囲の音でどうにかなりそうだった。
(臭い…!苦い…!)
数時間もすると身体の持ち主は席を立ち移動する。
トイレに入るとシアは鏡の存在を初めて知る。
(あれ…?この人、私の身体の真似っこしてる…?あれ?…違う!これ、鉄に映ってるんだわ!)
シアはナイフの刃の先が光を反射するのを知っている。自分の持つ子供用のナイフは細くて光を反射するような刃の綺麗な部分は殆どないが、父親の剣には綺麗に反射するのも見受けられた。
今日の身体の持ち主は50代くらいの女性だった。服はシアのよりは上質だが昨日や一昨日の身体の持ち主ほど身なりを整えている訳ではないようだ。
(もしかしてこの方は平民なのかな?きっとそうね、こんなとこでお仕事をしてるのだから。貴族様だったらこんなことしないはず。)
シアは勝手にそう納得した。
女性はトイレの個室に入ると、便座カバーが自動で上がる。
(!?今、勝手に動いた!もしかしてこの人は魔法使いなのかな?)
シアは一体どうやって魔法を使ったのか行動を思い返すが分からない。実際には何もしなくてもセンサーで自動で便座カバーが上がるのだから分かるはずもないのだ。
(え…?葉っぱじゃない!?平民がこんな柔らかいものを使ってもいいの?)
この女性が手にしたのはトイレットペーパーだ。シアの村では麦畑やトウモロコシ畑が多く、トイレットペーパー代わりにはトウモロコシの葉を使っている事が殆どだ。
女性は立ち上がり下着を履くと水を流す。いきなり流れる水にシアは驚き、そして普段はあるはずの汚水の臭いがあまりしないのに気が付いた。
(水が勝手に…。お通じが一瞬でなくなっちゃった!そっか!匂いが無いのはお通じがどこかに行っちゃうから…。)
なんとなく下水を知ったシアだったが、身体の持ち主がまたパチンコ台に戻ると再び騒音とタバコの煙に悩まされるのであった。
その後、数時間に渡り女性はパチンコを打ち続けた。どんどんとお札を投入していくところを見ると負けたのだろう。現金すら見たことがないシアにはそれが分からなかったのだが、女性は店を出るとコンビニに入る。
色々な商品がラベリングされて色鮮やかに並べられているのを見てシアは興味を惹かれるが、女性はまっすぐに酒コーナーに行きワンカップを取ってレジに向かった。
(ああ…。もうちょっと色々見てみたいのに…。)
女性は支払いを終えて店を出ると歩きながらワンカップに口を付ける。
(ん”ん”っ!にっがい!まっずい!)
夢視となって初日に見たフランス料理のおじ様はワインも飲んでいたが、ここまで苦くはなく、さらさらとした味だった。
しかしワンカップは高級ワインでは値段も質も全然違う。匂いも、味も、鼻から抜ける香りも、全てがシアにとっては耐え難いものだった。
(いやだ…。早く目が覚めてよ…。お父さん、お母さん。帰りたいよ。)
そんなシアの願いが叶ったのか、女性が自宅らしき家のドアを開けた直後、視界が真っ白になりシアは現実で目を覚ました。
~~~
起きるとシアは心底ホッとした。
やっと悪夢が終わった。
しかし相変わらず目には尋常じゃない痛みがある。起きてもまた地獄だったのだ。
「シア、今日の夢はあんまり良くなかったの?」
「うん…。煩くて臭くて苦かったの…。」
あまりの顔色の悪さを心配しに来てくれた両親に、今日視た金属の玉が流れるのをひたすら眺める仕事をしていた平民の女性の夢を話す。
「そうか…。シアは頑張ったな。でも堆肥場の仕事もそうだが、大変でやりたくなくなる様なお仕事はたくさんある。きっとその人の夢を視たんだろう。」
「でもその人、お酒を飲んでいたの。匂いがエールに少し似てた。すっごい不味かったけど…。」
今思い出しても吐き気がする。あんなものを好き好んで飲む人が本当にいるのだろうか。
「…きっとその街では平民でも普段から飲めるくらいお酒はたくさん作られているんだろう。あんまり身分が高くないから酒が美味しくなかったんだ。貴族様の飲んでいたお酒は凄かったんだろう?」
「う、うん。貴族様のお酒は美味しかったもん。そうだよね。そうだと…思う。」
ヴェストルに言われてシアは無理矢理納得する。
ぐっすり眠っていたし、ここ2日間は家を出ていない。なのにシアはぐったりとしていた。
両親もそれを察してシアを横にならせてから各々の仕事に向かう。
その日は昼過ぎには眼の痛みは引いた。初日は夜までまで、昨日は夕方まで痛みが続いていたのだが、段々と短くなっているようだ。
痛みがなくなっても瞳の色まで戻っているのかは分からない。シアは大人しく家で家族の帰りを待った。
「おかえりなさい!お父さん、お母さん、リリ。」
「ただいま、シア。ちゃんとお家で待っていて偉いわね。今日は昼間にアレンが来てくれたのよ。」
「ただいま。アレンも心配してくれていたんだな。シア、アレンに会ったらお礼を言うんだぞ。」
「アレンが?うん!」
「アレン、一緒にあそんだ。」
「良かったね、リリ!」
「うん!」
リリは嬉しそうにしていたが、疲れからかベッドに入るとすぐに寝てしまった。シアはずっと家にいたのだ。まだあまり眠くない。
シアは両親に眼の痛みが短くなってきた事を話した。
「そうか。それなら夕飯は一緒に食べられるんじゃないか?」
「そうね。瞳の色が戻っていれば大丈夫だと思うわ。」
「ほんと?私、もう家にずっといるのやだよ。お仕事したいの。」
「仕事が出来るかは時間と体力次第だな。午前中に痛みが引いて瞳の色が戻れば考えよう。」
「そうねぇ…。」
ヴェストルとエレナは少し難しい顔をした。シアの望みは叶えてあげたいが、こればかりは厄介だ。
「シアももう寝なさい。痛みが早く引いても、寝不足だったらお仕事は出来ないわよ?」
「う、うん。わかった。お母さん、お父さん、おやすみなさい。」
「ああ。おやすみ、シア。」
シアは寝室のベッドに入ると目を閉じた。今日は辛くない夢でありますように、と願って。
〜〜〜
元気な声がたくさん聞こえる。
そこには自分とそんなに変わらないくらいの子供達が大勢いた。小学校の教室のようだ。
(みんな何をしているんだろう…?)
子供達は揃って声を出しながら手を挙げている。大人の女性の人が子供達のうちの1人を指すとその子は立ち上がり何かを言った。
大人の女性はそれに答えると子供は嬉しそうにして席に着いた。
シアは女性の表情に覚えがあった。エレナが自分を褒めてくれる時の顔と同じなのだ。
(みんなのお母さん…じゃなさそう。乳母さんなのかな?)
授業は続き子供達はドリルにひらがなを書く練習をしている。
(あ、文字だ!みんなこうやって覚えるんだ。私も覚えようっと。)
シアは初めてやった家事は1度で覚え、やった事すらない家事でもエレナの見様見真似でだいたい成功する。要領が良いのだ。
今まで視界に入った文字をただ記憶するよりも手を動かして覚える方がすんなりと頭の中に入ってきた。
ドリルには挿絵もたくさんあり、『はな』や『みず』などの単語も少し理解できた。
だが文字の形を理解してもどう読み上げるのか分からない。発音出来ないのだ。
授業は次に移り、音楽の時間になった。
先生が教室の隅にあるオルガンの準備をする。大人の女性が子供達に何度も『センセー』と呼ばれているのを聞いて、シアはこの人が『センセー』という名前なのだと考えた。
オルガンを弾き始めると子供達は教科書を見ながら歌う。
(お歌…。あっ!文字の音!覚えなくちゃ!)
シアは教科書に目を凝らして覚えたばかりのひらがなの列を追いかけ、耳で子供達の発音を聴く。
メロディーは一定になっているし、ひらがなは1音で1文字だ。今どの辺りを歌っているのかは分かる。
短い歌だったがセンセーは子供達に何度も歌わせた事でシアも何となく歌えるようになり、歌詞に使われているひらがなの発音ができるようになった。
しばらくすると鐘の音が聴こえる。さっきも何回か鳴っていた。どうやらこの世界の鐘は小まめに鳴るらしい。
それを合図に子供達は談笑し、すぐにまた鐘が鳴ると席に戻った。
(まだ何かするの…?)
文字を覚えるだけでシアは精一杯だったのだが、今度は算数の時間が始まる。
1+1=2という簡単な数式でもシアにはひらがなではない新しい文字が出てきて困惑した。
(何これ…?『いち、たす、いち』?)
小学1年生にも分かるように数字にもルビが振ってある。下には林檎の挿絵まで付いていて感覚的に数が分かった。
(そっか。これは数のお勉強をしているんだ。)
その後も算数ドリルの問題をいくつも解く内にシアは1の位の計算が出来るようになった。
しばらくして鐘の音が鳴ると教室は賑やかになる。
(はぁ…。疲れた。みんなすっごい元気、リリみたい。…?あの子達着替えてるけど何かあるのかな?)
何人かの子が白衣を着て一緒に教室を出るとすぐに鉄の台車を運んでくる。
あれには何が入っているんだろう、と気になっていると視界が真っ白になる。
(ああ!まだ気になるのに!)
シアのそんな思いは通じず意識が現実に戻される。
〜〜〜
金色の瞳になったシアは起き上がり、もう慣れっこになれつつある眼の痛みに頑張って耐えながら両親に夢の内容を話した。
「小さな子供達が集まって勉強していたのか…?」
「きっと貴族様の子供達ね。平民の子供達には仕事があるもの。」
「うん。何人かが途中で真っ白な服に着替えて何かしていたの。あんなに綺麗な服なんだから貴族様だと思う。」
シアは両親の言葉に納得した。結局あの子達は何をしていたのだろうか。答えは分からない。
その日は眼の痛みは午前中には引き、昼食を持ってきたエレナに確認してもらう。
「ええ。元通りね。それじゃあ午後はリューネの家でリリとエルネをお願いしようかしら。」
「森には行っちゃだめ?」
「ダメよ。いきなり身体を動かして倒れちゃったら大変だもの。シアがリリとエルネを見てくれていたら私も助かるわ。」
「わかった!任せて!」
「ふふ。ありがとう。」
森に行けないのは残念だが、やっと両親の役に立てる。これだけでシアは嬉しいのだ。
シアは昼食を取ってリューネの家に行くとリューネが驚きつつも笑顔で迎え入れてくれた。
「シアちゃん!?もう身体は、目は大丈夫なの?」
「うん。それよりも何かしたくて。」
「シアちゃんが居てくれると本当に助かるわ。でも無理はしないでね。」
リューネの言葉に嘘はない。シアは心配してくれるリューネにありがとうを言って、1つ気になっていることを聞いた。
「リューネ叔母さん、この家に本か文字が書いてあるものが何かありますか?」
「本は無いわ。高いしディートリヒトにしか読めないもの。文字が書いてある物ね…。分からないわ。見た事が無いから多分無いと思うわよ?」
「そうですか…。わかりました。」
「ごめんなさいね。」
リューネはシアに謝って、エレナと井戸に向かった。シアはリリとエルネのお世話をする。
「おねーちゃん、もうへーきなの?」
「うん。リリ、大丈夫だよ。」
「おねーちゃん、どっか行っちゃうの?」
「え…?」
「おかーさんとおとーさんとおばさんとおじさん、いっつもその話してる。」
「わかんない…。多分そうかも…。」
「おねーちゃん。リリも一緒に行く。」
「え!?な、何を言ってるの?」
「リリの方がおねーちゃんよりも走るの速いし、おねーちゃんよりも力持ちだもん。おねーちゃん守れるもん。」
確かにリリは力持ちだが大人に勝てる程ではない。それに妹を守るのは姉の仕事だ。シアはリリの成長を感じて嬉しくなりながらもリリに心配を掛けまいとする。
「大丈夫よ。お姉ちゃんだってすごいんだから。文字と計算が出来るのよ!ディートリヒト叔父さんが読み書きが出来たらお仕事がたくさん出来るって言ってたの。お金があったら悪い人だって追い払えるって言ってたのよ!」
「おねーちゃんすごいの?」
「ええ!そうよ。ふふん。」
リリはおろかシアすら貨幣を見たことがない。お金がどれだけすごいものなのか2人には想像も付かないが、きっとすごいものなのだろうと考えた。
だが謎の自信にリリも何故かおぉ、と唸った。
しばらくして洗濯と水汲みからエレナとリューネが戻り夕飯を作り始める。日が暮れた後ヴェストルとディートリヒトが帰ってきて、数日前までは当たり前だった面子が食卓に揃う。
お祈りをして食事を始めると好奇心旺盛なリリはヴェストルに聞いた。
「おじさん、文字が読めたらすごいの?」
「ん?ああ、すごいぞ!読み書きと計算が出来たら偉い人や貴族様に仕事をもらえる。そしたらご飯もたくさん食べれるし、偉い人が守ってくれるんだ。」
「ほぇー。」
3歳のリリにはまだ理解出来ないが何となくは分かったようだ。
「シアちゃんは夢で読み書きと計算が出来るようになったんだって?すごいなぁ、俺なんか1年以上も掛かったんだ。」
「そうなの?」
「ああ。シアちゃんはもしかしたら天才かもしれないな。」
ディートリヒトが笑うとシアもなんだか嬉しくなる。
「2日後には休日がくる。見てあげよう。」
「うん。ありがとう。ディートリヒト叔父さん!」
そうしてディートリヒトがシアの先生になる事が決まった。
シアはひらがなを読み書きできるようになったが、夢で目にしたのは漢字やカタカナ、中には英語もあった。まだまだ知らない文字だらけで聞きたい事はたくさんあるのだ。
シア達は食事をして身体を拭くと家に帰ってきた。どんな夢を視るのか不安になりながらも、今日はお仕事が出来たことの安心感もあってすぐに眠ることができた。
今日は夢を視なかった。
目が覚めると自宅の見慣れた天井があった。
今日はお仕事が出来そうだ、とホッと胸を撫で下ろす。
シアは瞳を淡く金色に光らせる事も、眼に痛みを覚える事もなくダイニングへ向かう。
「おはよう、シア。今日は夢を視なかったのかしら?」
「おはよう。うん。視なかったよ。」
「身体の方はどうだ?痛みとか、疲れとかは無いか?」
「うん!ばっちりだよ。今日は森に行ってもいい?」
「そうか。…ああ、いいぞ。」
少し悩んでからヴェストルが答える。
「ほんと!?やったぁ!」
「ただし、森には必ずアレンと行くこと。夕方帰る時もだ。家まで着いて来てもらいなさい。」
「え?大丈夫だよ?」
「ダメだ。言うことを聞けないなら今日も家にいなさい。」
「わ、わかった。アレンと一緒にいる。」
シアはヴェストルの言うことに従う事にした。
アレンと一緒にいるのが嫌ではない。1人で仕事を完遂出来ないのが嫌なのだ。
朝食を食べて畑作業をしていると、アレンがやって来る。ヴェストルに呼ばれて来たようだ。
「シア!もう身体は大丈夫なのか?」
「アレン!心配掛けてごめんなさい。もう大丈夫だよ。」
「良かった。それじゃあ一緒に森に行こう。」
「うん!」
シアとアレンは森に向かって歩き出す。村の門を出てしばらくした辺りで周りに誰もいないのを確認してアレンが話した。
「眼の事、誰にも言ってないからな。」
「そうなの?」
「ああ。言ってたら今頃村は大騒ぎだ。」
「ありがとう、アレン。」
アレンは気を遣ってくれていたらしい。シアはアレンに感謝した。
「なあ、夢ってどんな感じだったんだ?何を視たんだ?」
「え?んーっとね。」
シアはアレンに夢で視た4日間の事を話した。
「全然知らない物ばかりだな。なあ、知らない言葉ってどう話すんだ?」
「えっとね、お花は『はな』って言うんだよ。山羊は『やぎ』で、森は『もり』だよ。文字で書くとこうなの。」
シアは道端に落ちていた石で地面にひらがなを書いた。アレンはそれを興味深く見ている。
「へぇ、ずいぶんと違うんだな。それに文字まで書けるようになったのか。」
「うん。でもまだ読めない文字もたくさんあったの。ディートリヒト叔父さんが今度教えてくれるって!」
「そうなんだ。読めるようになるといいな!」
「うん。」
もちろんディートリヒトには日本語は分からないのだがディートリヒトはシアの覚えた文字が日本語だと知らない。お互いにすれ違っているのをまだ気付いていないのだ。
それから普段通りの仕事が出来るようになったシアは慌しく働き、あっという間に休日になった。相変わらず夢は視ていない。それでも村長には報告しないといけないのだ。
今日はディートリヒトが文字を見てくれ、午後は村長の家に行く事になっている。シアが寝込んでいる間に大人達が決めたのだ。
シアはいつもよりも少し早めに起きて仕事を片付ける。
今日は代わりに父親が森に行くので畑作業を終えてから昼食までの時間が授業時間だ。シアはディートリヒトの家に行った。
「来たね。それじゃあこれにシアちゃんが覚えた文字を書いてごらん。」
ディートリヒトが出したのは何も書かれていない黒い板で出来た書字板と石筆だ。夢の中でセンセーが大きな黒板に文字を書いていたが、こんな物もあったのかとシアは内心驚く。
「うん。えっと、これが『やぎ』で、これが『みず』、これが『むら』、これが『はたけ』だよ。」
シアは覚えたひらがなで短い単語を作って書いた。
ディートリヒトは口に手をやって考え込んだ。
「本当にこの数日で文字を…。だが聞いた事も無い言葉だし知らない文字だ…少なくとも西方三国の文字ではないな…。とすると東側…いや、東側はそこまで豊かではない。やはり別の大陸か未来の国か…。」
「え?なんて?」
シアには初耳の単語がいくつも出てきて困惑する。
「あ、いや気にしないでくれ。シアちゃんの書いた文字はこの辺のものではないようだ。」
「そうですか…。役に立てなくてごめんなさい…。」
せっかく覚えてきた文字も読める人がいなければ役には立たない。それに漢字や英語も教えてもらえないではないか。シアは肩を落とす。
「気にすることはないさ。そうだ、この国の文字も覚えてみないか?2つも文字を覚えられた人なんて珍しいがシアちゃんは天才だからな。すぐに覚えられるはずだ。」
「本当?教えて、ディートリヒト叔父さん!」
「ああ。でも次は計算だ。書字板を拭いて文字を消してからやってみなさい。」
「は、はい!」
シアは1+1や3+4などを数字を書いて解いた。それをディートリヒトは真剣に見ている。
「これはどういう文字なんだ?」
「えっと、これは数を表していて、これは足すか引くのを表しています。」
「成る程、少し違うが原理は一緒なようだな。計算も合っている。よく出来たな。」
「ほんと?やったぁ!」
ディートリヒトが褒めてくれてシアは嬉しくなる。
「それじゃあ次はこの国の文字を教えよう。まずはシアちゃんの名前からだな。」
そうやってディートリヒトは自分が覚えたようにシアに文字を教えた。
この世界の文字はアルファベットに近く、種類は30種類程度の文字を組み合わせて単語にしているようだ。ひらがなに加え数字まで覚えたばかりだ。そこへいくつか追加するくらい訳はない。
数回書き取りをして文字を覚えて単語にする法則性を理解すると、シアはすぐに教えていない単語まで書き出す。ディートリヒトは戦慄した。
「やっぱりシアちゃんは天才だ…。俺の1年が…。」
文字を教えてほんの1.2時間で理解してしまった。それでもまだシアは5歳。今はまだ短い単語までしか書けないが、これならすぐに長い文章も書けるようになるだろう。