平民の娘
「シア、お父さんに行ってらっしゃいは?」
小麦色の髪に金色の瞳の女性が話掛ける。
「お父さん、行ってらっしゃい」
「ああ。シア、エレナ、行ってきます。」
焦げ茶色の髪に翡翠の瞳の男性はシアと呼ばれた小さな娘の頭を撫でてからそう言うと玄関のドアを開けて出ていった。
この2人がシアの両親のヴェストルとエレナだ。ヴェストルは衛兵として村の平和を守っている。
シアの髪は母親のエレナ譲りの小麦色だが瞳の色は父親のヴェストル譲りの翡翠である。
瞳以外はエレナの子供のころにそっくりなのでまだ3歳だというのに将来は美人さんになるなんて言われている。
シアとエレナはヴェストルを見送るとテーブルの席に戻った。
「それじゃあシア、早く残りの朝ご飯を食べちゃいましょう。」
「はーい。」
シアは1人でご飯が食べられるようになったとはいえ、まだゆっくりでしか食べられない。
寝坊しがちな父親のように急いで食べたりなどはできないのだ。
「畑の種まきも一段落したし、シアは今日は午前と午後の2回、裏の林で枝を拾ってきてもらえるかしら?」
エレナが優しくシアにお願いする。
今の季節は春だ。つい先日豊作を祈願する祈祷式が行われたばかりである。
シアは春の終わりに産まれたのでもうすぐ4歳になる。
「うん。任せて。お姉ちゃんだもん。」
シアが自慢気にそう言うと、隣の席に座る女の子も口を開く。
「おかーさん、リリはー?」
「あらあら、リリはお仕事をするにはまだ少し早いわね。」
エレナがリリという女の子の席の隣に座るとタオルで汚れた口の周りを拭く。
「口の周りがスープでビチャビチャよ。ほら、こんなにこぼして。」
リリはシアの妹である。焦げ茶の髪に金色の瞳でヴェストル似の面影がある。
2歳になってなんでも1人でやりたがり、なんでも知りたがり、ついこの間までよちよち歩きだったのにもうシアが追いつけないほど速く走り回る。
シアが2歳になったばかりのころはまだよちよち歩きくらいだったのだ。
両親はリリは天才かもしれないと持て囃していたのを見てシアは少しヤキモチを妬いたのだ。
それでもシアにとってリリは可愛い妹である。
物心がついて妹を認識してからシアは姉らしくなるようにお世話のお手伝いをしたりしているのだ。
そんなことを思い出しながら、シアは最後に残ったスープの野菜を口に運ぶ。
「お母さん、ご飯食べ終わったよ。」
シアは洗い桶に運びやすいように食器を重ねる。
エレナは片付けやすいようにまとめられた器を見て優しくシアを褒める。
「さすが、シアはお姉ちゃんね。助かるわ。」
「リリもー。」
「リリもちゃんとご飯食べれて偉いわね!」
子供用の椅子から降ろしてもらったシアは、調理場の隅にある洗い桶の方をちらっと見ながら頬を膨らませた。
「早くおっきくなれたらいいのに。」
本当は自分で洗い桶まで食器を運びたいのだ。
たくさんお手伝いをしてお母さんに褒めてもらいたいシアは自分よりも高いテーブルを見上げる。
「いっぱい食べて元気にしてたらすぐに大きくなれるわ。」
エレナは食器を洗い桶まで運んでそのまま洗い物をしながら答えた。
その日、いつものようにシアはエレナのお手伝いをしつつ、エレナが洗濯と水汲みに行っている間は家の裏にある林から枝を拾ってくる。
小さなシアの身体では薪としては細すぎる小枝しか拾えないが点いた火を大きくするに使うのだ。太い薪はヴェストルが休日である毎週獣の日にまとめて取ってくることになっている。
「ふんふふーん。ふんふーん。」
シアはいつもエレナが寝るときに歌ってくれる子守唄の鼻歌を口ずさみながら小枝を拾う。
小枝を入れるかごが一杯になるとそれを家まで運び、家に戻って昼食を取る。午後は次のかごを背負ってまた林まで戻ってくる。
この日は子供用の小さなかご2つ分いっぱいに枝が拾えてシアは満足気だ。
しかし家の裏の林に落ちている小枝は、冬の間に雪の重さで折れて落ちてきた分も含めてほとんど拾いきってしまった。
もう少ししたらヴェストルが村の奥にある森まで連れて行ってくれることになっている。
最初はヴェストルが一緒だが、その次からはシアが一人で行かなければならない。
シアが一人で出かけるのは今まで裏の林と隣に住んでいる叔母夫婦の家くらいだ。少し不安な気持ちになる。
夕方ごろになるとエレナと一緒にリューネがやってくる。
「ただいま。シア、枝は拾えたかしら?」
「うん。かごが2つ一杯になったよ!」
「あら、がんばったのね!」
「うん!」
エレナに枝拾いを報告した後、シアはリューネに挨拶する。
「リューネ叔母さん、こんにちは。」
「こんにちは。シアちゃん。」
リューネは隣の家に住むヴェストルの妹でシアの叔母だ。
リューネの夫のディートリヒトも村の衛兵をしており、仕事が終わるといつもヴェストルと2人一緒に帰ってくる。
幼い子供のいる家庭では母親は仕事が出来ないため、乳母を雇っていない家庭では親族が手伝ったり食料を分けたりするなどの助け合う風習があるのだ。
「いつも来てくれてありがとう。リューネ叔母さん。」
「いいのよ。可愛い姪の顔も見られるもの。」
リューネはシアの素直なところをとても気に入っている。
エレナは汲んできた水を大きな鍋に注ぎ、かまどに火を起こす。その間にリューネは運んできた食材で夕飯の支度を始める。
「リューネは休んでてもいいのよ。もうすぐでしょ?」
エレナは大きくなったリューネのお腹を見て言った。
「産まれるまでまだあと一月ほどはあるわよ。産まれたらしばらくはこっちが手伝ってもらうのだから、今はまだ手伝わせて。」
リューネは微笑みながら膨らんだ自分のお腹をさする。
「その時はリリを少し預かってもらわないとね。」
そう言ってエレナはシアとリリを見た。
リューネの子供が産まれたら今度はエレナがリューネの手助けをすることになる。子供達3人を一緒にしてリューネが子育てし、エレナが家事を担当する方が効率がいい。
エレナは2人の子供を産んだだけあって、産後の大変さも身にしみて分かっているのだ。
「私、頑張ってお手伝いするよ!」
「リリもー!」
2人の会話を聞いていたシアの宣言に釣られて話を理解していないリリが真似をして元気よく声を出す。
「うふふ。シアちゃんはいつもリリちゃんのお世話もしてるから安心ね。リリちゃんもいい子にしててね。」
「お腹の赤ちゃん、もうすぐ産まれるんだね。」
「シアちゃんの従姉妹になるわね。仲良くしてあげてね。」
「うん!」
「ありがとう。きっとこの子も喜ぶわ。」
リューネはシアの頭を撫でた。
夕飯を作りながら話しているうちにヴェストルとディートリヒトが帰ってくる。
今日はなぜか焦ったような、そして少し安堵したような顔をしていた。
「ただいま。今日は群れから逸れたヘルハウンドが3匹現れたんだが村に大事はないそうだ。ウチは特に何もなかったか?」
「そうなのね。ええ。私達家族にも、ご近所さんにも特に変わったことはなかったわ。」
エレナとリューネは少し驚いて顔を見合わせる。
ヘルハウンドは犬や狼に似た群れを成す魔物だ。
山脈や平野の森林にいることが多いのだが、たまに群れから逸れたヘルハウンドが村や家畜を襲うことがある。
時折現れる魔物から村を守るのが衛兵の仕事だ。
「無事ならよかった。」
「ヴェストルは家族が無事か仕方なかったのさ。」
「そう言うディートリヒトだってリューネに何かあったら、って青い顔をしてたじゃないか。」
2人は家族の顔を見て安心するとお互いに茶化し合った。
「お父さん。ディートリヒト叔父さん、おかえりなさい。」
「ああ。ただいま、シア。今日もエレナのお手伝いをしてくれたのか?」
「うん!」
「こんばんは、シアちゃん。ちゃんとお手伝いしてて偉いな。」
「リリとリューネ叔母さんの子供のお姉ちゃんだもん!」
「そっかぁ、頼りになるお姉ちゃんだな。俺もリューネも安心できるよ。」
そんな話をしつつヴェストルとディートリヒトはテーブルの方に向かって歩く。
「夕飯、食べていくんだろ?」
「ああ、いただこう。」
ヴェストルの問いにディートリヒトが応える。
夕飯は雑穀から作った黒っぽいパンと野菜と豆を煮込んだスープ、チーズの炙り焼きだ。
スープには1口サイズの干し肉が1欠片入っている。
農村ではこれが至って普通の食事である。肉は高級品で農民は普段はあまり食べられない。
秋の収穫祭で老いて農業などに使役できなくなった牛や、乳の出なくなった山羊や羊を処理する以外では村の外で見かけた動物を衛兵が狩猟した物だけだ。
飲み物は無酔麦酒と呼ばれるほぼノンアルコールの麦酒だ。
この世界では生活排水は家の裏に垂れ流し、排泄物は肥溜めに捨てられる。
地下水や川の水は農業用水に良くとも、衛生的に飲むのにあまり適しておらず、料理など身の回りで使う水は煮沸消毒する。
平民が普段から飲むのは麦酒が中心で子供と妊婦、老人や病人は家畜の乳を飲む。
無酔麦酒やエールは各家庭で作られる。春の祈祷式や秋の収穫祭では村の皆が持ち寄って飲まれる。
1搾目は宴や誕生日などに飲まれる祝い酒用に、大量の麦芽で少量の水を使いアルコール度数の高いエールを作り保存する。2搾目で大量の水を使って常飲するほぼノンアルの無酔麦酒を作るのだ。
エレナはリリに離乳食の準備をして、リューネはシアを子供用の椅子に座らせて自分も席に着く。
全員が揃ったのを確認してヴェストルが言う。
「では皆、お祈りを。」
「人の神の祝福と月の神のお恵みに感謝を。」
5人が顔の前で両手を一握りにして目を閉じ、リリもそれを見て真似をして皆でお祈りを唱える。
数秒の黙祷の後、ヴェストルが目を開く。
「じゃあ食べよう。」
それを合図に皆が食事を始める。
ヴェストルとディートリヒトはよほど腹を空かせていたのだろう、勢いよく食べている。
2人とも結婚して家庭を持っているとはいえ、この世界での成人は15歳、まだまだ若く食欲も旺盛なのだ。
「シア、次の休日は村の奥の森に行こう。道を教えよう。」
スープをおかわりして一旦食事の手が止まったタイミングでヴェストルはシアに話しかける。
「いいの?」
シアは今まで行ったことのない場所に行くのに興味半分、不安半分だ。
「この冬で薪をたくさん使ったからな。裏の林の枝もだいぶ無くなっただろう。」
「うん。もうあんまりないと思う。」
「水を消毒するのに薪がたくさんいるからな。シアには頼りにしてるぞ。」
「がんばるね。お父さん。」
「ああ。」
シアの快い返事を聞けてヴェストルは安心したようだ。
「リリはー?」
「リリはお母さんの側にいてあげなさい。」
「うん!」
話に一区切りついたのを確認したエレナがヴェストルに問いかける。
「それよりあなた、聞いた?」
「なにが?」
「村長の孫娘のアーシャちゃん。夢視になられたそうよ。」
「それは本当か!?」
「ええ。今日は村の中ではその話題でもちきりだったわ。」
魔力を持った子供は稀に不思議な夢を視る、夢視と呼ばれる特異能力が発現することがある。
そして夢視となった者は7歳になると貴族に神官や巫女として召し上げられる決まりになっている。
実際には貴族からの祝い金という名目でお金や食料で子供が買われるのだが、それに異を唱えるものはいない。
貧しい村人にとっては同郷の者が貴族に徴用される名誉と、普段は絶対に食べられないような高級な食材が手に入り、村では大きな祝宴が行われる。
ましてや時期も収穫祭の頃にやり取りされて冬支度が一気に楽になるため、とてもおめでたい事というのが世間一般の認識だ。
「そんな話、まったく聞かなかったぞ。」
ディートリヒトは驚きながら話題に入ってくる。
「いや、俺たち衛兵はヘルハウンドの処理で大変だったからな。立ち話なんてする暇なんてなかったからな…。」
ヴェストルは今日の昼の事を思い出しながらつぶやく。
それを聞いたディートリヒトも納得する。
「そういえばそうだったな。確か、アーシャちゃんは5歳になったばかりだったよな?」
「シアの1つ年上だったからそうね。……過去夢を視たそうよ。」
エレナはディートリヒトの問いに答え、そしておそらく皆が聞きたがっていたことを話した。
その場の大人全員が同情するような、悲しげな表情を浮かべた。
「過去夢か。めでたいことだが、苦労することになるだろうな。」
「そうね…。」
食卓の雰囲気が暗くなってしまったのをなんとなくシアは感じ取る。
そして少しでも明るくなるようにと話の輪に入ろうと思ったのだが、そもそも知らないことだらけだ。
「お父さん、お母さん。夢視ってなあに?」「なぁに?」
「夢視っていうのは神官様や巫女様が視る不思議な夢のことよ。」
エレナがシアと姉を真似るリリの問いに答える。
「不思議な夢?」
「そうだ。夢で未来のことや自分の知らない過去のこと、それから遠い国の出来事なんかを神様が見せてくれるんだ。」
ヴェストルはシアにも理解できるように噛み砕いて説明する。
「その夢ってほんとなの?外れたりしないの?」
「ああ。神様から夢を見せてもらうと瞳の色が変わるからすぐに分かるし、嘘をついても見つかるらしい。」
夢を視た者は誰でも分かるほどに瞳の色が変わる。
夢の内容は兎も角、夢を視たかどうかの判別は出来てしまうらしい。
「そうなんだ。私も夢視になれるのかな。」
「……シアちゃんは夢視の巫女様になりたいのかい?」
シアの言葉に皆が驚き、ディートリヒトが恐る恐るシアに問い掛けた。
「ううん。未来のことが分かったらもっとお父さんとお母さんのお手伝いができるかなって。」
純粋なシアの答えに今度は全員の顔が明るくなり優しい雰囲気に包まれる。
「ふふ、シアちゃんは優しいものね。でも夢視になったら貴族様に連れて行かれちゃうの。」
「そうなの?」
シアはリューネから思いも寄らないことを言われて驚く。
予知夢の夢視は政に、過去夢の夢視は罪人の裁判に駆り出される。
希少でこの上なく便利な特異能力だ。政治に使わない手はないだろう。
「ええ。夢視は少ないから貴族様が集めて、皆で一緒にお仕事をするのよ。」
「神官様と巫女様の村があるの?」
「村よりももっと広くて大きな街だぞ。」
ディートリヒトは腕を大きく広げながら大袈裟に言った。
その言葉にシアは興味をそそられる。
「そうなの?行ってみたい!」
この小さな村でさえシアには行ったことがないところばかりなのだ。
毎日新しいことばかりの小さな子供にとって見たこともない大きな街と言われたら見てみたいと思うのも当然である。
「だけど、夢視になったらもうお父さんにもお母さんにも、リリにももう会えなくなって知らないところでずっと暮らさないといけないんだ。」
「え……。」
ディートリヒトが放った言葉にさっきまで目を輝かせていたシアが固まる。
ディートリヒトはさらに追い討ちをかける。
「もうこの村にも帰って来れないかなぁ…。」
「やだ!私、お父さんとお母さんと一緒がいい!」
シアは必死に反論し、さっきまでの気持ちを否定した。
今のやり取りで先程の自分の言葉で大人たちが驚いたのがようやく理解できたのだ。
シアに釣られてリリもなんだか不安そうな顔をしている。
「ディートリヒト。あまりシアちゃんをいじめないで。」
「すまんすまん。」
涙目になっているシアを見かねたリューネが止め、ディートリヒトがすぐに謝る。
「大丈夫よ、シア。夢視は魔力が無いとなれないけど、私達平民にはほとんど魔力がないもの。心配しなくても平気。」
「ほんとに平気?会えなくならない?」
シアは心配そうにしてエレナに聞く。
「もちろんよ。離れ離れになんてならないわ。」
エレナは優しく微笑みシアの頭を撫で、シアはそれに安心する。
夕食を終えるとディートリヒトとリューネは家に帰る。
「シアちゃん、また明日ね。」
「うん。ディートリヒト叔父さん、リューネ叔母さん、おやすみなさい。」
「ああ。おやすみ。」
その後シアとエレナでリリの身体を濡れタオルで拭いて、エレナはリリを寝室へ運んで寝かせる。
「おやすみなさい、リリ。」
シアは既にこくり、こくりときているリリの頭を撫でて静かに挨拶する。
「準備できたから次はシアの番だぞ。」
「はーい。」
シアの身体はヴェストルが拭くのを手伝ってくれる。
身体を拭くのは同性の親の仕事なのだが、リリに手が掛からなくなるまではヴェストルも育児に参加している。
物心ついた時からそうだったためシアは恥ずかしがったりはしない。
早く1人で拭けるようになったらいいのに、くらいにしか考えていない。もっともシアが大きくなっても背中には手が届かないのだが…。
身体をきれいにしたシアは着替えて寝室に向かう。
すでに重くなったまぶたを頑張って開けているのだ。
「リリはぐっすりと寝ているわ。シアもおやすみなさい。」
「うん。お母さん、おやすみなさい。」
挨拶をしてからシアは靴を脱いで床に就く。
藁に布をかけただけの布団にこれまた藁を紐で縛っただけの枕だが、平民にはこれが当たり前である。
枝をたくさん拾って疲れていたシアはすぐに眠りに落ちるのであった。
もちろん朝起きた時に瞳の色が変わっていることはなかった。
明けましておめでとうございます。
本編スタートです。どうぞよろしくお願いいたします。