もう、いい、よ……
小沢美月の住んでいるアパートの1室には、幽霊の子供が住んでいる。
いわゆる事故物件というやつで、家賃は格安。
美月は、内見のときに、天井に漂っている、その子と目が合ってしまった。
美月には霊感はない。でも、なぜかその子が見えてしまった。不思議と怖さは感じなかった。その子は、とても可愛い女の子の幽霊だった。年齢は5歳くらいだろうか。おかっぱ頭で、ピンク色のトレーナーに青いスカート、そして白いくつ下をはいていた。
不動産屋の営業マンは、言いずらそうに「実は、この203号室はですね、そのー、お子さんがお亡くなりになりましてー」と、家賃が格安な理由を言い出したが、美月は
「あ、大丈夫です」
と言って即決した。
築20数年、和室の6畳1間の1K。日当たりが悪く薄暗いその部屋は、今の自分に合っている感じがした。
美月は26歳のときに、会社の同期の岩井健太と結婚した。美月は会社を辞め、専業主婦になった。それなりに幸せな結婚生活だった。
しかし、なかなか子宝に恵まれなかった。
健太の姑は事あるごとに、孫はまだかと、美月を責めた。
産婦人科も受診したが、双方ともに、特に問題はない、ということだった。
そのまま5年の月日が流れた。美月と健太は31歳になっていた。
ある日突然、美月は健太に別れてほしいと言われた。
健太は、1年前から同じ課の3歳年下の女性と不倫関係にあった。しかもその女性が妊娠5か月だと知らされた。
美月にとっては、青天の霹靂であった。
おとなしく内向的な美月と違い、その女性は明るく社交的だった。
健太の姑もその女性を気に入り、結局美月と健太は離婚することになった。
美月には慰謝料が支払われた。
今、健太とその女性は、健太の実家の2世帯住宅に住んでいる。子供も無事に産まれたらしい。
美月と健太が住んでいた賃貸マンションは、健太の実家の近くにあった。
健太が出て行ったあと、しばらく美月は1人で住んでいたが、とにかく早く引っ越したかった。とにかく遠くに行きたかった。
そして見つけたのが、今住んでいる格安アパートである。
慰謝料はもらったものの、それで一生暮らせるわけではない。
早く仕事を見つけたかったし、仕事が軌道に乗れば、また違うアパートなりマンションなりに住めばいいと思っていた。
美月にとって、ここは仮の住まいに過ぎなかった。
だから持ち物も、生活に必要な最低限の物しかなかった。
アパートに引っ越してから1週間がたった。
幽霊の女の子は、ずっと天井にいた。美月の様子をうかがっているようだった。
美月も気にはなっていたが、自分の事で精一杯だった。そろそろハローワークにも行かなければ。
そう思いながら、押し入れから布団を出し、まだ夜の9時だったが寝ることにした。
なんとなく、ずっとだるさが続いている感じだった。
その夜、美月は夢を見た。
部屋の中で、20代前半の男女が言い争っている。
男は酒に酔っているようだ。女に殴りかかる。「やめて!」と女が叫び、そばにいた3歳くらいの女の子は火が付いたように泣いている。
場面が変わる。男はいない。女と子供の2人きり。女の子は5歳くらいになっている。
部屋の様子も変わっている。今美月が住んでいる部屋と同じだ。
夜。女は厚化粧をし、派手な服を着て、部屋を出て行く。女の子は1人残される。
「ママ。ママー!」
女の子が叫んでも、女は戻ってこない。
入れ替わり立ち代わり、いろいろな男が部屋に出入りし、また、女は、昼夜構わず出かけると、しばらく帰って来なかった。
女の子は、部屋にあるパンやバナナ、冷蔵庫にあるマヨネーズなどを食べて過ごした。
冬の寒い夜。おかっぱ頭でピンク色のトレーナー、青いスカート、白いくつ下をはいた女の子は、高熱を出していた。部屋には誰もいなかった。
「ママ……さむいよ……ママ……」
一晩女の子は放置された。女の子の命は、そこで終わった。
美月は驚いて目を覚ました。
夢に出てきた女の子は、今天井にいる幽霊の女の子に間違いなかった。
「こっちに、来る?」
美月は、女の子に向かって声をかけた。
女の子は、初めて美月のそばに来た。
「お名前は?」『ゆあ』「何歳?」『5さい』
美月の問いに女の子は答えた。
「ゆあちゃん、今まで、つらかったね、さびしかったね」
そう言って美月は、ゆあを抱きしめようとしたが、空を切るだけで抱きしめることはできなかった。
やっぱり幽霊なんだ。美月は、改めてそう思った。
この子が成仏できないのは、現世に何か思い残すことがあるからではないか。
私にできることってあるだろうか……。
美月は、なんとかゆあを救いたいと思った。
しかし、美月にできる事は限られていた。
ゆあに触れることはできないし、ご飯を食べさせることもできなかった。
部屋の外に連れ出すこともできない。
なので、絵本を買ってきて、読み聞かせをした。
図鑑も買って、動物や花の名前などを教えたりもした。
他に何かできることはないか考えたが、なかなか難しかった。
そんなある日のこと。
買い物から帰ってくると、ゆあの姿が見当たらなかった。いつもなら、部屋の天井などにいるのに……。
「ゆあちゃーん!ゆあちゃーん!」
美月は、トイレやお風呂場などを見て回ったが、みつからない。
もしかして成仏したのだろうか?そう思いつつも、なんとなく下駄箱を開けてみると、そこにゆあがいた。
普通の子供ならば入ることは不可能だが、なにしろ、ゆあは幽霊である。
「もう、脅かさないでよ」
美月がそう言うと、ゆあが満面の笑みを浮かべて下駄箱から、ふわりと出てきた。
こんなに楽しそうなゆあは初めてだった。
「そうだ、かくれんぼしようか?」
美月はゆあに言った。
『かくれんぼ?』
ゆあはキョトンとしている。
「かくれんぼ、やったことない?」
美月が訊くと
『ない』
とゆあは答えた。
「かくれんぼはね、私が目を閉じて10数えるから、その間に、ゆあちゃんが隠れたい所に隠れて。で、私が10数え終わって、もういいかい?って聞くから、もう隠れていたら、もういいよ、って言って。まだなら、まーだだよ、って言って。ゆあちゃんが、もういいよ、って言ったら、私がゆあちゃんがどこにいるか探すから」
美月がそう言うと、ゆあは
『わかった』
と言った。
「じゃあ、数えるよー」
美月が目を閉じて
「いーち、にーい」
と、ゆっくり数え始めると、ゆあが移動した気配を感じた。
「きゅーう、じゅう!もういいかい?」
美月が訊くと
『もういいよ』
というゆあの声が聞こえた。
せまい部屋である。そして物も少ない。隠れられる場所は限られていた。
美月がとりあえず押し入れを開けると、もう、そこにはゆあがいた。
「みーつけた」
と美月が言うと、またゆあは、とてもうれしそうにした。
美月が、このアパートに引っ越してきてから1か月が過ぎた。
梅雨入りし、毎日しとしと雨が降っている。
美月は、まだ職探しはしていなかった。
仮の住まいのはずが、馴染んで来つつあった。
もう結婚することはないかもしれないし、子供を設けることもできないかもしれない。
ならば、ここで、ゆあとひっそりと暮らすのも悪くはないか、と思い始めてもいた。
この部屋にはテレビがなかった。子供向けの番組を見せれば、ゆあは楽しめるかもしれない。
そんなことを思っていると、ピンポーンとチャイムが鳴った。
誰だろう。大家さんだろうか?
そんなことを思いながらインターホンの受話器を取った。
「はい」
美月が言うと
「隣の202号室に越してきた者です」
男の声がした。確かに隣は空き部屋だった。
美月は、念のため、チェーンをしたまま玄関のドアを開けた。
そこには、30代半ばくらいの若干さえない男が立っていた。
「あ、あのー、鏑木といいます。これからよろしくお願いします」
「あ、はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
美月は頭を下げた。
「あの、これ、つまらないものですけど」
そう言って、鏑木が紙袋を美月に渡そうとした。
悪い人ではなさそうだ、と思った美月がチェーンをはずし紙袋を受け取った時だった。
「あの、大丈夫ですか?」
鏑木が言った。
「え?」
「なんか、顔色悪いですよ」
「あー、別に、普通ですけど」
鏑木が美月の部屋の天井を見つめている。
「何か天井のあたり、黒い渦巻みたいのが見えるんですけど」
鏑木が怪訝そうに言った。
黒い渦巻。ゆあのことだろうか?
「さ、さぁ、私には、特にそんなのは見えませんけれど」
美月が天井の方を見ると、ゆあが男のことをにらんでいるように見えた。
「あの、私なら大丈夫ですので。あと、これ、ありがとうございました」
急いでそう言うと、美月は玄関のドアを閉めた。
「ゆあちゃーん、もう大丈夫だよ」
美月は、天井にいるゆあに向かって言ったが、ゆあは美月のそばには来なかった。
前に見た夢を思い出す。
美月の父親らしき男は、酒を飲んで、妻に暴力を振っていた。
その後別れたようだが、不特定多数の男が、部屋に出入りしていた。でも、その誰もが、ゆあをかわいがっている様子はなかった。ゆあは確かにそこにいるのに、まるで見えていないかのようだった。
ゆあが男に対して不信感を持っているのは間違いなかった。
鏑木さんとは、あまり接しない方がいいのかもしれない。美月は思った。
その夜。
眠っていた美月は、ひやりとした感触がして目を覚ました。
美月の隣にゆあがいた。
ゆあが布団に入ってきたのは初めてだった。いつもは、美月が寝ているときは、天井付近にいることが多い。
それにしても、今までは、抱きしめようとしても空を切るだけだったのに、今は、きちんと肉体を有しているようだった。
ゆあの身体は氷のように冷たかった。
ゆあは美月に笑顔を向けてきたが、美月はうまく笑えなかった。
それでも、ゆあを抱きしめた。
悪寒が身体中を走った。
たまらず美月は布団から飛び出した。
「あ、トイレ。トイレ行ってくるね」
そう言って、美月はトイレに駆け込んだ。
ゆあが変化してきている。これはいい事なのだろうか?それとも……。
しばらくトイレにいたが、いつまでもいるわけにはいかない。
美月は部屋に戻った。
布団に入る気がしなかったので、畳の上に座っていると、
『おんぶー』
と言って、ゆあが美月におぶさってきた。背中に伝わる冷気。いや霊気なのかもしれない。
正直逃げ出したかった。でも、こうすることで、ゆあの心の傷が癒えて成仏することができるのならば……。
美月は耐えることにした。
やがて、カーテンのすき間から、日の光が入って来た。
すると、いつものようにゆあは、ふわりと天井に舞い戻った。
助かった……。しかし、そう思ってしまった自分に対していら立ちも覚えた。
ゆあちゃんを助けたくないの?
でも、ゆあちゃんは、人間の子ではないのだ。
どうすればいいのだろう?
肉体を有したゆあは、絶えず美月にまとわりついてきた。
『おんぶして』『だっこして』『いっしょにお風呂に入って』『いっしょに寝て』要求は限りなく続いた。
7月に入っても、梅雨は明けず、雨は降り続いていた。
雨の中に閉じ込められて、世界には、自分とゆあの2人しか存在しないように美月には思えた。
それでも、可能な限り、美月は、ゆあの願いを叶え続けた。
同時に美月は衰弱していった。
7月の半ば。
ピンポーンとチャイムが鳴った。
「はい……」
美月は力なくインターホンの受話器を取った。
「鏑木です」
鏑木さん……。あの鏑木さんか……。どうしよう。ゆあは鏑木さんを快く思っていない。しかし、美月自身、もう限界だった。
美月は玄関のドアを開けた。
「回覧板です」
鏑木が言った。
「はい……」
受け取ろうとしたが、そんな気力もなく、美月は鏑木の胸に持たれかかった。
「小沢さん!小沢さん!大丈夫ですか?」
鏑木の声が遠くに聞こえる。
そして同時に
『いなくなれ!』『消えろ!』『死ね!』
というゆあの声も聞こえてくる。
その声は、鏑木にも届いた。天井を見上げると、この前の黒い渦巻が、はっきりとした形になっていた。
美月も、恐る恐る天井を見上げる。
伸びきった、ぼさぼさの髪、こけた頬、汚れた服、片方だけの黒ずんだくつ下。
これが、ゆあの本当の姿。たぶん亡くなった時の……。
『死ね!』『死ね!』『死ね!』『死ね!』『死ね!』『死ね!』『死ね!』『死ね!』
ゆあは罵倒し続ける。
「ここは危険です、とりあえず俺の部屋へ!」
鏑木は言ったが、美月は首を横にふった。そして言った。
「ゆあちゃん、かくれんぼ、しようか……」
美月は、ふらつく足で、部屋に戻った。そして目を閉じて数を数え始めた。
「いーち……にーい……さーん……」
ゆあは、最初戸惑っていたが、押し入れに入った。
「きゅーう……じゅーう……。もう、いい、かーい?」
『もういいよ』
美月は、ふらふらになりながら押し入れを開けた。
「みーつけた……」
美月がそう言うと、ゆあはうれしそうに笑った。いつものゆあに戻っていた。
みつけてほしかったんだよね。
だったら、何回でも、みつけるよ。
美月は、かくれんぼを何回もやった。何度も何度もやった。
「みーつけた」「みーつけた」「みーつけた」「みーつけた」「みーつけた」「みーつけた」「みーつけた」「みーつけた」
鏑木は、ただ、見守り続けた。
「もう……い……い……かー……い?」
美月が声を振り絞って言った。しばらく返事はなかった。
けれど、しばらくして
『もう、いい、よ……』
声は天井から聞こえた。
美月が見上げると、ゆあは隠れずに天井にいた。
「……みーつけ、た……」
美月が言うと、ゆあは
『ありがとう。みつけてくれて、ありがとう』
そう言って微笑んだ。
光がゆあを包み込んだ。
「ゆあちゃん!ゆあちゃん!」
しゃがみ込みながら、美月は叫んだ。
やがて、光が消え、そして、ゆあの姿も見えなくなった。
天国に、行けたんだね……。良かった……。
美月はその場に倒れた。
「小沢さん!小沢さん!」
鏑木が、美月を抱きかかえる。美月も、また、目を閉じたまま、満足そうに微笑んでいた。
1年後。
32歳になった小沢美月は、小さな会社で事務の仕事をしていた。
売れない小説家で、住んでいたマンションの家賃が払えなくなり、あのアパートに越してきた36歳の鏑木直人は、ライトノベル作家に転向していた。固定ファンもつき、手ごたえを感じ始めていた。
しかし、2人とも、まだあのアパートに住んでいた。
「俺、そろそろ引っ越そうかと思っててさ」
直人が言った。
「で、もしよかったら、俺と一緒に、その……暮らさない?」
2人は、半年ほど前から付き合っていた。夕飯は、ほとんど美月の部屋で2人で食べていた。
今日も、脚が折りたためる、こぢんまりとしたテーブルには、美月が作った料理が並んでいる。
「暮らすって、同棲ってこと?」
と美月。
「いや、なんていうか、美月さえ良ければ結婚したいな、と思ってるんだけど」
「私と?」
「うん」
「でも、私、バツイチだし、子供も産めないかもしれないし……」
「大丈夫だよ。もしも子供ができなくても、俺は美月さえいてくれれば、それでいいから。でも、なんか、子供、ちゃんと授かりそうな感じ、するんだよね」
「そうなのかな?」
「うん。俺の勘って、結構当たるんだよ」
本当に当たるのかな、と思いつつも、美月は直人と結婚することにした。
そして、さらに2年後。
直人の勘は、本当に当たり、2人は親になっていた。
日当たりのいいマンションの1室。赤ちゃんを抱っこしながら、美月は、ゆあのことを思い出す。
直人も、思いは一緒だった。だから、赤ちゃんの名前は2人で決めて優愛にした。顔も、どことなくゆあに似ていた。もしかしたら、ゆあの生まれ変わりかもしれない、と思う。
「俺、ゆあちゃんに嫌われてたから、がんばって優愛のいいお父さんになるよ」
「そうだね。でも、もう嫌ってないと思うよ、だから私達の所に来てくれたんだと思う」
美月は言った。
もうちょっと大きくなったら、また、かくれんぼ、やろうね。その他にも、いっぱい、いっぱい、遊ぼうね。




