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6月の終わり、ラベンダーに愛を込めて

作者: 椎野



 今日、親が、結婚する。


 ジューンブライド、なんて。そんな乙女じみた理想が自分の母親にあったなんて意外だった。

 例年よりも遅めに始まった梅雨は、入籍当日の朝をしとしとと濡らす。決して大振りではないけれど、小振りでもない雨は、昨日の夜から降り続いていた。

 まだ明るくなり始めの明け方に目を覚まし、窓を開けベランダの屋根に当たっては弾ける雨音を静かに聞いていた。ジメジメとした雨の匂いに不規則に弾ける水の音は、なんだか自分の心を映しているようだと、遠くの方で何かがザワザワと波を立てる。

 何が落ち着かないのかも分からないまま、母親が起きる前にと、静かに黙って家を出た。


「お嬢さん。傘も差さずに、こんなところで何してるの?」


 1人になりたくて、当てもなく家を出て向かったのは昔行ったことのある、隣の県の県立公園だった。早い時間で人もまばらの電車を乗り継いで、2時間しないくらいで公園にたどり着く。朝9時からの開園時間には、まだあと1時間くらいは時間があった。

 開くまで待つかと、仕方なく門近くの花壇に濡れるのも気にせずに座ってぼんやりとしていると、突然声をかけられた。明らかに自分しかいないこの状況で無視するのもどうかと思い、仕方なしに顔を上げる。適当に買ったと思われる変な柄のTシャツに、ラフなジーンズ、くたびれたスニーカー。髪は寝癖か天パか、お世辞にも綺麗に整っているとは言えなかった。声をかけてきたのは、20代後半くらいに見える男性だった。

 声の主の姿を確認すると、また元のようにコンクリートの地面の模様を数えるために視線を下ろす。


「え、無視しないでよ!怪しい人じゃないよ!」

「…どこが?」


 髪はボサボサ、服は適当、開園前の早朝。しかも雨。こんなタイミングで声をかけてくる人なんて、怪しさ満点じゃないか。我ながら態度が悪いなと思いながらも、そもそも不審者に披露するようなお利口さは1ミリも持ち合わせていない。疑いの目を隠しもせずに答えれば、目の前の不審者は慌てたように付け足した。


「俺はここのスタッフなんだ。だから怪しくないって!ちょっと早く来てみたら、傘も差さずに女の子が座ってたら気になるでしょー?」


 推定20代後半の男は、歳の割にとても騒がしかった。

 公園管理スタッフだから、どうせ汚れるし適当な服なんだとか、髪は切るのが面倒で放置してただけでちゃんとシャワーは浴びてるし汚くはないよとか。梅雨の時期は雨ですぐに電車が遅延するから早めに来るようにしているんだとか。聞いてもいないのに1人で一気に捲し立てたかと思えば、騒ぎながらもついでに私の身体も入るように傘を差し直す。「なんで傘は持ってるのに差さないの!」なんてブツブツ言っていたのは面倒だから全部無視した。

 傘は持っていようと、差したくない気分の日だってあるんだ。不審者じゃないと分かっていても、話したくない日があるように。

 今日は、母親が2度目の結婚をする日だった。


「ねえ、ねえ、なんでこんな時間から公園に来たの?」

「朝早いね?」

「高校生くらいでしょ?今日学校は?」

「何かあったの?」

「この公園よく来るの?」

「咲子さん、心配すると思うよ?」


 ずいぶん年上のはずなのに全く落ち着きがないこの男は、無視していてもそんなこと少しも気にせずに話し続ける。コンクリートの地面の模様を数えるのに忙しい私は、よく回る口だなとぼんやりと考えながらほとんど聞き流していたけれど、最後の一言に一気に意識が引き戻される。


「…まさか、知り合い?」


 咲子は私の母親の名前だった。母親とはずいぶん年代が違うし、こんな人私は知らなかったけれど、それは困る。


「お母さんには言わないでよ!」


 つい声を張り上げてしまってから、ほんの少しだけバツが悪くなって下を向く。

 本当に母親の知り合いならば、そんなことを言ったところで連絡するだろう。高校生の娘が、平日の朝っぱらから、学校にも行かずに、明らかに私服で、隣の県をフラフラしているのだから。


「言わないよ」


 お説教は覚悟の上で黙ってそっぽを向いていたら、意外な返答が降って来た。もしかしたら騒がしいだけで結構良い人なのかもしれない。そう薄っすら見直しかけたところで、すぐさまそれは撤回された。


 「なんでこんな所まで来たのかを話してくれるのなら」


 だから、それを話したくないんだってば!さっきまでだったら、瞬発的にそう言い返していただろう。

 だけど、母親の知り合いで、しかもそれを話さなければ居場所を連絡されてしまう。やっぱりこの男は不審者で嫌なやつだ。

 交換条件を出されてしまい、本当は話したくなんかないけれど、仕方なく、本当に仕方なく、仕方ないなという態度を隠しもせずむしろ全身で表しながら、どうしてここに来たのか私はほんの少しだけを話すことにした。



----



 母親の再婚が嫌だったから家を飛び出した。

 

 一言で言い表せば確かにそうなのだけれど、それはなんだか子供っぽすぎるような気がしてゴニョゴニョと語尾を濁してしまった。

 目の前の不審者はといえば、そんなことはお見通しなのか、追求するわけでもなくニコニコと微笑んでいる。まるで幼い子供の成長でも見守るような、大人ぶったその表情がなんだか妙にムカついて思わず脛を蹴飛ばしてしまった。


「痛った!ちょっと!暴力反対!」

「顔がムカつく」

「顔!?顔は仕方なくない!?」

「あとうるさい」

「え、さっきは黙ってたじゃん!」


 理不尽!最近の女の子は接し方が難しいよ〜などと大袈裟に頭を抱えてぼやいているが、大声すぎて全部丸聞こえだし、そもそも聞こえるように言ってるのかと思ったら余計にムカムカしてきた。というか、20代後半なんて、一応あんたも最近の若者でしょうが。ジェネレーションギャップぶるな。


「あーあ、こーんな小さかった時は可愛かったのに…」

「絶対そんな小さくはなかった!」


 しゃがんでうずくまりながら、こーんなと言いながら指で表すサイズは明らかにヒヨコか何かのそれだ。

 この男は、母親ではなく父親の知り合いらしい。父親と言っても、新しい父親になる人ではなく、元父親の方。

 私がまだうんと小さな頃、父親はこの公園で管理の仕事をしていた。ほとんど記憶にはないけれど、その頃はよく連れられて公園に来ていて、その時からの知り合いだとか。え、それじゃあ、目の前のこの男は一体何歳だ?うちの両親が比較的周りよりも若い方だとは言え、見た目と計算が全く合わない。そんなことを考えたりもしたけれど、わざわざ聞くのも興味があるようでなんだか嫌だったし、多分なんか働いてた父親と遊びに来た少年とかそういう感じの知り合いなんだろうと結論付ける。


「それで、どうして再婚するのが嫌なの?」

「…父親の知り合いって言うなら、分かるってもんじゃない?」


 当たり前のことを聞かないで。そんな恨みを込めて睨みつければ「怖いよ〜」と嘘くさい泣き真似をされた。わざわざ降っている雨を利用して涙を演出する手の込みようだ。だから、いちいち神経を逆撫でてくるな。


「嫌な人なの?」


 ひとしきり茶番が終わった後、男は落ち着いた声色で尋ねる。顔を見れば、さっきまで安っぽい泣き真似を披露していた人と同一人物とは思えないくらい、真面目な表情をしていた。だからか、素直な感想が考えるよりも先に口から出ていた。


「良い人だよ。多分、すごく」


 2度目の再婚相手は、本当に良い人だった。

 正直、本当の父親の記憶なんて朧げで、母子家庭になってからあれこれ助けてくれるようになった義父になる人との方が遥かに一緒に過ごした年月は長い。良い人なのも、母親が幸せそうにしているのも、全部全部知っている。だから、反対する理由なんてどこにもなかった。


「じゃあ良いじゃん」

「だーかーらー!良くないんだってば!」

「なんで?」


 純粋な疑問に対して、答えるのを数秒ためらう。ボサボサの髪に、多分実年齢よりもうんと若く見えるこの男は、傘を肩にかけ、小首を傾げて私の答えを待っていた。全く可愛くないし、頼むからその仕草はやめてほしい。

 母親と義父になる人が、私が大きくなるまでそういうことにならないよう気を遣ってくれていたのは何となく分かっていた。再婚だって、反対してない。むしろ、良かったなあとすら思う。でも、嫌なんだ。


「今日はさ、命日だから。お父さんの」


 私の本当の父親は、私が小学校に上がってすぐに病気で亡くなった。


 会話の流れから、父親の古い知り合いだという目の前のこの男はもちろんそれを知っていて、それでいて「じゃあ良いじゃん」なんて軽々しく言ってくることに妙に苛立つ。

 でもそれよりも何よりも、命日にわざわざ入籍しようとする母親の神経がまるで分からなかった。


「え、だから怒ってるの?」


 だからとは何だ、だからとは。私にとってはデリケートな問題なのだと、ぽかんと間抜け面している男をまたしても蹴ってやるため足を浮かせれば、学習したのか今度はヒラリとかわされた。その勢いで水溜りに思い切り片足を突っ込んで裾をビシャビシャに濡らしていたので、まあ良しとする。


「わざわざ命日にしなくても良くない?」

「それはお父さんのため?」


 不貞腐れたように答えれば、すぐに質問を返される。正直、この苛立ちが父親のためかどうかは、自分でも分からなかった。

 何と言ったら良いのか分からず黙ったままでいると、また別の質問が飛んできた。


「お父さんのこと、好きだった?」

「…たぶん」


 曖昧にしか答えられない自分自身にも苛立ちを覚える。ただ、照れ隠しから曖昧に答えたのではなく、本当によく分からなかった。

 小さかったから父親との思い出なんてあまり覚えていないし、顔すら曖昧でよく思い出せない。病気で痩せていたことはうっすらと覚えている。

 写真で振り返ろうにも、入院する前のまだ元気だった頃の父親は陽気な人だったのか、はたまた写真があまり好きではなかったのか、変顔か動き回ってブレている写真ばかりでまともな写真がない。遺影なんて、病気になってからようやくちゃんと撮ったものだ。


「でも、よく覚えてない」

「そっかー」


 モヤモヤする気持ちを抱えながら、それをどこかにやってしまいたくて、今朝のように傘に当たって弾ける雨音に集中する。けれど、もうほとんど止みかけの雨は、心を落ち着かせてはくれなかった。

 そろそろ傘もいらなくなったかな。男はそう言いながら手のひらで雨の調子を確認した後、傘を閉じる。


「うーんじゃあさ、君のお父さんが好きだった場所を教えてあげよっか」


 この話の流れで、急に何を言い出すんだ。疑いと怪しむ表情を隠しもせずに相手を見れば、「秘密だよ?」と人差し指を唇にあてる仕草をする。

 だから、いちいち可愛こぶった仕草をするなったら。またしてもイラッと来てしまった私は、今度は避けられないようにと、脛ではなく腕の方を思い知りはたいてやった。



-------


 ちょうど開館時間になり、連れられて来たのは公園内のラベンダー畑だった。


 いや、仕事はいいのか社会人。私のせいで怒られたとか後から言われても嫌だったので、一応声をかけてみたけれど「いつも真面目に働いてるからね〜たまには大丈夫〜」などと謎理論の返事が返って来ただけだった。それでいいのか社会人。

 連れられて来たラベンダー畑は、こんなにもたくさんの花が咲いているのに人は全くいなかった。関係者以外立ち入り禁止の場所というわけではないけれど、ここに着くまでの道が明らかにそういう雰囲気を醸し出していたので、いつの間にか知る人ぞ知る場所になっていたらしい。

 まあ、人があまり来ないのを良いことに、管理スタッフたちがそれぞれ好きな花を植えたりして楽しんでいるということだった。そこそこ広い敷地内には、ラベンダー以外にもバラや名前は知らない綺麗な花が咲いていた。


「ここのラベンダーはね、君のお父さんが植えたんだよ」


 他の花たちの中でも、一際広くたくさん咲いているラベンダーの香りが風に乗ってふわりと漂う。芳香剤の香りなんかで嗅ぐものよりも、ずっといい匂いだった。

 お父さんって、ラベンダーが好きだったのか。言われて初めて、父親が好きだったものをあまり知らない自分に気がつく。


「よし、ラベンダーで花束を作ろう!」

「は?」


 いきなりそう言い出したかと思えば、どこから出したのか剪定用のハサミとカラフルなリボンが揃っていた。


「そんで、咲子さんにプレゼントしよう!」

「いや、いやいやいや」

「仲直りのきっかけになるよ?」

「そもそも喧嘩じゃないし!」


 喧嘩と言われたことが解せなくてムキになりながら、手渡そうとしてくるハサミは絶対に受け取らんぞと押し返す。


「昔、咲子さんにラベンダーの花束をあげたことがあるんだ」

「え?」

「きっと喜ぶよ!」


 けれど、善意100%の笑顔で微笑むこの男に拍子抜けして、うっかり受け取ってしまった。勢いに押し負けて、もう何でもいいや、なんて投げやりになりながら花束用のラベンダーを選ぶ。


「…ねえ、もしかしてお母さんのこと好きだったりした?」

「え?」

「だって、花束をあげたんでしょ?」


 適当に良さそうな花がついている茎を切りながら、もしやと思い質問する。男にとっては意外な質問だったのか顔を赤らめながら慌てる様に、これは図星だなと遠くを見つめる。


「…秘密」


 でもこんなに若い人を母親が相手にするわけないし、もう再婚相手も決まっているし、哀れみを込めた目で男を見れば、思いの外ウブな反応を返され頬が引き攣る。


「はあ!?」

「だって、咲子さん、強くてしっかりしてて、綺麗だったんだよ」


 初恋だったんだよ。そう照れたように呟く姿は正直ちょっと気持ち悪かったけれど、さっきまでの可愛こぶった様子よりもずっと可愛げがあるな、なんて少しだけ、本当に少しだけ思った。

 ラベンダーと、他に咲いていた花を少し混ぜて、まとめた茎をリボンでぐるぐると巻いただけの簡単な花束。お手軽な割に、見栄えはそんなに悪くなかった。私のが黄色で、男のは白のリボンの、花束が2つ。

 男が作った方の花束も、お祝いとして一緒に渡して欲しいと言うので、大人しく受け取る。


「それとね、お父さんの遺言」

「え?」

「もし再婚するなら、俺の命日にしてねって」

「なにそれ」


 心配しているだろうからそろそろ帰ってあげなよ、そう言われしぶしぶ公園入口まで見送られる。朝まで雨が降っていたのは嘘のように、太陽は張り切って芝生を照らしていた。今からだと家に着くのはお昼過ぎになるだろう。家出にしちゃ短すぎないか、なんてやっぱりどこか別の所で時間を潰そうかと考えていたら、別れ際に男がそう言い出した。

 そんな遺言、初耳だった。


「帰ったら咲子さんに聞いてみなよ。本当だから」


 なんで私が知らなくて、目の前のコイツが知ってんの?少しだけムッとしつつも、当時は私も幼かったし、年上の男の方が記憶がしっかりしているかもしれない。それに、何故知っているかということよりも、どういう意味なのかという方が知りたかった。


「…何でだと思う?」

「うーん、そうだなあ、心配だったんじゃないかな。そうでも言わなきゃずっと1人きりで頑張りそうで」


 男は当時を思い返しているのか、私を通り越しどこか遠くを見ていた。また風に乗って、ラベンダーがふわりと香る。

 そうかもしれないな、自分でもびっくりするくらい、そう素直に受け入れることが出来た。母親の性格からして、遺言にしてでも言わない限り、良い人が現れたとしても再婚はしなかったろう。

 

「それじゃ、またね。あと、ありがと」


 最後の方はゴニョゴニョと小声になってしまったけれど、きちんと聞こえたのか、男は嬉しそうに微笑んでいた。

 手を振って公園を後にすれば、見えなくなるまでじっと見守っている男の姿に仕方ないからまっすぐ帰ってやるか、という気になる。最初はただの面倒くさい不審者だと思っていたけれど、口には絶対に出して言いたくはないけれど、結構一緒にいて楽しかったし、見た目のズボラさに反して良い人だった。

 どうして微笑むだけで「またね」と返事をしてくれなかったのだろう。まあ、今度はちゃんと休みの日に堂々と会いに行けば良いか。ふとそんな事を思ったのは、一息ついて、帰りの電車に揺られている時だった。


 

--------


 短時間とは言え母親が寝ている間に家出しただけあって、帰宅するなりこっぴどく叱られた。そのあと、心配したんだからと少しだけ目尻に涙が溜まっていたのが見えた。

 普段優しいだけの再婚相手が珍しく怒っていたことにも驚いた。 

 どこで何をしていたのか、説明を求められ簡単に公園でのことを話し、お説教の間忘れられていたラベンダーの花束を2つ手渡す。


「一緒に作った人が、これはお祝いだって。昔もラベンダーの花束をあげたことがあるって言ってたよ」


 白いリボンの花束を指差しながら伝えれば、しばらく放心したように固まった後、突然はらはらと泣き出した。

 母親がこんなに涙を流すところなんて初めてで、私はどうしたら良いのか分からずただ呆然とすることしか出来ず、義夫は何かを察したのか、落ち着くまでただそっと寄り添っていた。


「その人、どんな格好をしてた?」


 伸ばしっぱなしのボサボサの髪に、くたびれて適当な格好をした馴れ馴れしくて変な人だったと答えれば、泣いて赤くなった目を細め静かに微笑む。

 お母さんが過去にラベンダーの花束をもらったのは、人生でただ1人に、人生で一度だけ。

 下手くそなプロポーズの言葉と共に、雰囲気もクソもないただの公園で。しかも髪も服も適当なのに、手渡された花束は手汗と体温でしっとり生暖かくて緊張しているのは丸わかりだった。その姿がどうにも可愛くて、お母さんは死んだお父さんと結婚することにしたのだという。


「ねえ、本当は、再婚するの嫌だった?」


 腕に抱えたラベンダーの花束2つを順番に見た後、私を見る。再婚したい人がいると言われた時よりもずっと、母親の瞳は不安そうに揺れていた。

 私は1つ、深呼吸をする。言葉を選ぶように、ゆっくりと時間をかけて。


「相手の人って、どんな人?嫌な人?」

「あなたの事も何より大切にしてくれる、良い人よ」


 公園でのやりとりを思い出す。私が母親にしたのと同じ質問を、男は私にもした。その後、男はどんな風になんて答えたろうか。

 そういえば、父親の顔なんて全く覚えていなかったけれど、私の顔は父親似なのだといつも母親は言っていた。髪も服もズボラな男の顔は、私と似ていたんだろうか。


「じゃあ良いじゃん」


 一瞬驚いたような顔をした後、母親はクスクスと肩を震わせて笑う。義夫は父親の話を聞いていたのか、ただ静かに微笑んでいた。この穏やかな人と、あの騒がしくてすぐ可愛こぶる男は似ても似つかない。本人に会ったら尚更、母親の趣味がよく分からなくなった。そう思ったらなんだか私まで笑えてきてしまう。

 いつの間にか、親子で馬鹿みたいに笑っていた。母親が笑うたびに揺られて、ラベンダーはふわふわと香る。

 今度は笑いすぎて出た涙を拭いながら、嬉しそうに、そしてどこか懐かしそうに母親は言う。


「ふふ、その言い方、お父さんにそっくり」


 6月の雨の日、明け方こっそりと家出をした。

 ラベンダーの季節になるたび、多分きっと思い出す。


 忘れられない、この先ずっと忘れることはない、梅雨の日の思い出。






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