01 白壁の塔のある街
たぶん中身は真面目です。ふざけているのはあらすじだけです。たぶん。
◇1
目が覚めると、異世界だった。
「……え、どこだここ」
思わず呟いてしまう。
真柴リオ、十七歳。異世界転移の瞬間である。
さて。
眼前には、赤煉瓦で造られた街並みが広がっている。家の近所、学校への通学路、それどころか、日本国内すべてひっくるめて見たこと、聞いたことのない欧風の景色。
すぐ思いついたことは。
――これ、ラノベとかでよくあるやつじゃね?
だとしたら面白い。チート能力とか手に入れたり、異世界で勇者になったりして。
夢のある話である。
とはいえ。
「……まあ、ただの夢だろ」
夢物語は夢物語。
ラノベの話はラノベの話。
現実に起こりうることではない。
ひとまず、辺りを観察してみる。夢なら夢で、楽しんでみてもいい。
リオは緩やかな坂道の、ちょうど中腹に立っていた。赤煉瓦の家々に挟まれた坂である。道は石畳でできていて、この勾配の先、遠くに見える丘の上には、灯台のような白い塔が見える。
白い塔。
それはいたくリオの目を引いた。
いま、目に映るすべての建物が赤い。
そのなか、遠くにすっと立つ、白。
気付けば歩き出していた。神様に糸で引っ張られるような感覚だった。緩い斜面を歩く。誰ともすれ違うことはなかった。人気のない街だった。
どれだけ歩いたろう。ふと我に返ったとき、目の前には屹立する白壁の塔があった。
その塔の白は、一切の穢れのない色をしていた。壁にはところどころツタが伸び、ヒビが走る部分もあるが、それらはむしろ時間が蓄積させた威厳と風格を思わせた。
塔は丘の上に立っていた。その向こうには、果てしない広がりを見せつける海がある。鮮やかな潮の香りが鼻腔を突いた。
――白い灯台の門を開く。
灯台の中は青色をしていた。壁や床の石たちは空を溶かしたような色なのである。
塔の中央には、一本の太い柱が直立していた。壁には、螺旋階段がとぐろを巻いている。
ここまで来たのだから、この階段は進むべきだろう。一段一段と、踏みしめていく。
上り切ると、広い空間に出た。外に出ることはできないだろうか。
探すと、梯子があった。迷うこともない、足を掛ける。
鐘のある、展望台だった。
そこは大きな窓がいくつもある壁に囲まれていて、窓にガラスははめられておらず、間断なく緩やかな潮風が舞い込んでくる。
天井には鐘が吊るされていた。外からは見えなかった、青銅の鐘である。巨大で、リオの背丈ほどはある。
それを眺めたのち、部屋を見る。特にこれといったものはないが、バルコニーに出る扉がある。丘に建つ塔の展望台である、景色は相当なものだろう。リオは扉を開いた。
眼下に、燃えるような紅い街の姿があった。
街の全貌が見渡せたのである。リオがもといた場所を見つけ、そこから右――方角はわからないが、太陽の位置から推察するにおそらく東――には港があり、反対には広場がある。
そして見る限り、赤煉瓦以外での建造物がなさそうである。
ヘンな街。
すべて一様な赤煉瓦の街の様相に見飽きて、リオは壁伝いに歩き、真逆の位置の景色を眺めることにした。
ぐっと。
息を呑んだ。
それは煌々たる青色だった。遥か遠くまで果てしなく続く海の、深すぎず浅すぎない青。
揺れ動く波のささやかな音。光は無邪気な子どものように屈折している。広大であり雄大なすがた。心奪われる圧倒的な存在。
海は――広く青い。まるで空が落ちたように。
リオは暫く、言葉を失っていた。我のうちに我無しといったふうだった。息を止め、その圧巻に取り込まれるままだった。はっとして感嘆の溜息を吐く。
こんな感覚、初めてだった。
「――綺麗な景色ですよね」
いきなり声が聞こえた。
びっくりして振り向くと、窓から身体を突き出し、リオに微笑みかける少女がひとり。
「あ、驚かせちゃいましたか?」
その少女は悪戯げに笑った。それからちょっぴり肩を竦めて。
「初めまして。わたし、リスラといいます。リスラ・オード=リタです」
そう名乗った少女は、リオがいままで見たことのない容姿をしていた。
髪は透き通るような水色をしていて、瞳も同じである。肌は真っ白く、どこをどう見ても日本人ではない。
彼女は白のワンピースを身に着けていた。頭には麦わら帽子。足にはサンダル。革のショルダーバッグを肩にかけている。歳は十四くらいだろうか。
リスラは窓を離れるとバルコニーに出て、リオの隣まで歩いてやってきた。そして海を指さして、
「これ、イルディ海です。あ、知ってますよね」
「え、あぁ……すまん。よく知らないんだ」
「そうなんですか?」
不思議そうな眼で見つめられる。その瞳はあどけない。
「イルディ海は世界で一番おおきな海です。この海をずーっと行くと、ビビディア大陸に着きます」
「へぇ……そうなのか」
「ビビディアのことは、知っていますか?」
「いや、知らない」
「ビビディアは世界で三番目におおきな大陸で、エリオダ国などがあります。縦長の大陸なので、南北の端っこどうしで気温差がとっても大きいんです」
説明されて、リオはひとまず、頭のなかで世界地図を空想してみる。地球の世界地図をベースに、太平洋をイルディ海とやらに置き換えて、北・南アメリカ大陸を統一した大陸に変更する。
と、そこまでやって、思った。
「……なんだか、けっこう細かい夢だな」
「夢、ですか?」
「ああ、こっちの話だ。気にすんな」
「わかりました。気にしません」リスラはにっこり笑った。「そういえば、お名前、なんとおっしゃるんですか?」
「真柴リオだ」
「マシバ・リオ――リオさんですか。いい名前ですね」
「そうか? ありきたりだと思うんだけどな」
姓が真柴の赤の他人には何度か会ったことがあるし、リオに至っては親戚の子どもが同じ名前である。
「いい名前ですよ」それでもリスラはそう言い張った。「ときにリオさん、どうしてこちらへ?」
「なんとなくだよ。見つけたから」
「そうなんですか? なににせよ、うれしいことです。同じリビアの人に出会えたんですから」
「リビア?」
聞いたことのない単語。
訊き返すと、これまたリスラは不思議そうな顔をして、
「はい」と頷く。「あれ? 髪の色も瞳の色も水色だったので、てっきりそうかと」
「え?」
「え」
「……俺の髪、青いの?」
「……はい。青いです」
一瞬、気が遠くなりそうだった。
夢とはいえ。
「……鏡とか持ってないか?」
「持ってますよ」
リスラはバッグの中から丸い小さな鏡を取り出した。そこに映っていたのは、見慣れた自分の顔ではない。いや、自らの顔の面影は残しているのだが、髪がリスラよりも濃いめの群青色で、瞳も同じように変わっていた。
なんだこれ。
いや、なんだこれ。
「えっと……ありがとう」
鏡を返す。リスラ、リオの顔を覗き込んで、
「なにかありました?」と訊く。
どこか疲れたような笑顔でリオは頷き、リスラの顔をなにげなく見る。
その頬。異質ななにかを見つけて、固まる。
彼女の柔らかいであろうすべらかな頬に、『文字』があった。
橙色した、淡い光を放つ文字である。日本語ではない。英語でも、中国語でも、ハングルでもない。見たことのない言語で短い文章が綴られていた。
それでもリオはその文章をすらすらと読み取ることができた。自分でも不思議なくらいだった。
――少女の右手の小指には欠陥がある。
読んだ瞬間、橙色の光を放つ『文字』は消えた。リスラの頬に染み込むようにして消えた。
思わずリスラの頬に触れる。
「へっ?」
いきなりのことで驚いて、リスラはぴしっと硬直した。
「あ、あの、リオさん?」
「……」
「リオさーん……」心なし、紅潮している。
「小指」
「……!」
リスラが表情を変えた。羞恥が籠っていない、本当に驚いた様子のかおである。
「なにかあるのか?」
「あ、いえ、そのっ」
「見せてくれ」
少女の小さな右手をとった。リスラは微かに震えていた。怯えに似た振動。掴んだ右手は、ぐっと力強く握られている――小指だけがぴんと伸びた状態で。
「……曲がらないのか?」
「……」
口を真一文字に結んで、リスラは顔を逸らした。瞳は微かに潤んでいる。
どうして曲がらない? もう一度、彼女の右手に目を落とす。するとその手の甲に、先ほどと同じ橙色の文字が浮いた。今度はひとつの単語であった。
「『ミキュリア』……?」
――そう口に出して読んだ途端、『文字』が弾けた。
『文字』は光の粉となり、それらはリスラの右手を包み込む。
かと思えば、じんわり、土に雨水が染み込むようにリスラの右手は光の粉を吸収して、輝きだす。光はゆったりと明滅を繰り返し、明るくなり、暗くなりする間隔は、だんだんと短くなっていく。
そしてついにその明滅がピークに達し、ひときわ大きな光を放った。ふたりは思わず瞼を閉じる。
光が収まったころ、ふたりは眼を開いた。リスラは恐る恐る右手を握りしめる。
小指はしっかりと曲がっていた。
「すごい……直ってる」
リスラの顔にじわじわと満面の笑みが咲きはじめた。よかった。そう思いながらも、リオは、不均衡な感覚に酔っていた。
なんだか、とても、気分が悪い。
「……リオさん?」
リスラの心配そうな声が聞こえる。大丈夫だ、と言おうとしたところで。
世界が暗転した。