前編
「喜べ、メリズローサ。結婚が決まったぞ」
喜べと言う割にはプライルサン侯爵がなんとも判断のつきにくい表情で告げると、メリズローサと呼ばれた娘はその美しい表情を傾げ、ほんの少し口をすぼめながら尋ねた。
「お父様、それは私が修道院へ入る日時が決まったということでしょうか?」
神との結婚。そういうことだろう、そう彼女は判断したのだ。
「いや、違う」
修道院に向かう訳でないと父である侯爵が明言した。
ということは……その先の言葉を推測して、メリズローサは唖然とする。
「まさか……そんなっ!」
「その、まさかだ」
彼女は恐る恐る侯爵の顔をうかがうと、一息吐いて姿勢を正す。侯爵はそれを確認してから重々しくも厳しい表情で言い渡した。
「先日ご生誕あそばされた、アルヴィン・フォン・バズウェルド王太子殿下が、恐れ多くもお前の結婚相手だと祝福の御宣託が下されたのだ」
メリズローサは額に手をあて、天を仰ぐ。
なんてことだ、17歳の今になって結婚相手が決まるなどとは。
しかも、相手は生まれたばかりの王太子殿下。
ああ、私の人生詰んだな。と、メリズローサは絶句した。
人生は往々にしてままならない。
例えばそれは階級であったり、才能であったり、容姿であったり。たいていのものは生まれもってきた運命とやらで決定してしまう。 まれに努力次第でなんとかなる場合もあるにはあるけれど、多大なる労力と尽力が必要だ。しかしてその苦労を厭わず努力したところで、どうにもならないこともある。
そしてこの国で一番ままならない人生の道筋、それが『結婚』というものであった。
バズウェルド王国を含めた近隣の同盟諸国では、祭神の一柱である女神ハンナサクーニャの祝福宣託を受けたカップル同士で結婚すれば幸せになれるが、それ以外で結婚するともれなく不幸になる。
この説教は言い伝えのような曖昧なものではなく、純然たる事実である。
恋に燃え上がった二人が授かった宣託に異を唱え、強引に結ばれたが、結局見るも無惨な人生を過ごすことになったなどというのは良くある話。決してお伽噺話の中のものではないのだ。
事実、隣国の第二王子が婚約者の公爵令嬢との宣託を反故にし、平民上がりの男爵令嬢と結ばれた結果、王族の地位を追われ二人して国外追放となった挙げ句、平民以下の暮らしをしているという話は耳に新しい。
これはもう祝福という名の呪いである。
「あー、もうダメだわ。私の人生詰んだも同然でしょ?」
「お嬢様、逆に考えましょう。なんと言っても王太子殿下とのご結婚ですわよ。よっ!未来の正妃様!」
幼い頃からメリズローサの遊び相手兼専属侍女として側についていただけに、同じ年である侍女のカリンは主人である彼女に対して、大層ぞんざいな扱いをする。
「何言ってるのよ、どれだけ年が離れてると思うの?17よ、17!殿下が今の私の年にはもう30も半ばじゃない!」
「それはそれは、立派なおばさんですね」
「うっさいわね。けど、そうよ、おばさんよ。あんた、普通17の男の子が34のおばさん相手にその気になると思うの!?」
カリンは目線を少し上げて、考えたフリをしたあと言い放った。
「まあ、世の中にはそういった熟女趣味の人もいますからね。諦めちゃダメですよ、お嬢様」
「カーリーンー!はったおす!そこへ直りなさい!」
手に持った扇を握りしめ振り回しながら、逃げるカリンを追い回す。
「大丈夫ですよぉー。ロナリーダ男爵が祝福されたのは33歳の時でしたがぁー、ちゃんと結婚できましたしぃー、昨年とうとう奥様との間にお子様も生まれてぇー、お幸せにお過ごしのようですぅー」
「あんたっ、ロナリーダ男爵が陰で『幼女男爵』って呼ばれてるの知ってていってるでしょうにっ!」
「お嬢様ならさしずめ『若いツバメの巣令嬢』ですかねぇー?」
はったおすだなんて生ぬるい、ボコボコにしてやると、息巻いて追いかけるがそこはそれ深窓の令嬢。早々に肩で息をしだし、部屋の真ん中でヘタり込んだ。
カリンはといえば、えっほえっほとその場で足踏みをしながらメリズローサの様子を伺っている。
「っは、は……もう、ダメ……」
何もかもどうでもいいわという気持ちで、ごろんと横になると、カリンがすっと覗き込んできた。
「まあ、アレですよ。どうせ結婚諦めて修道院へ行くつもりだったんだから、一遍くらい結婚してみればいいじゃないですか。結構楽しいかもしれませんよ?結婚生活」
私も一緒について行きますから、安心してくださいな。
口も悪いが態度も酷い、それでもなんだかんだとメリズローサを思いやってくれているのだろう。そう思えば、カリンも可愛らしく思えるし、少しは気分も持ち直してくる。
「そうね、決まったことは仕方がないわ。折角の伴侶ですもの、出来るだけ仲良く過ごす努力をしないとね」
「骨は拾ってあげますよ」
ガッツポーズをしたカリンの顔に向かって、扇をぶん投げたメリズローサであった。
メリズローサが祝福宣告を告げられて直ぐに王宮より使者がやってきた。そしてそれから10日後には、王宮内の一番奥深い所に構えられている白の離宮と呼ばれる離れに、カリンと二人で押し込められたのだ。
「ちょっぱやでしたね。王室ヤバいです。恋人と別れを惜しむ時間もありませんでした」
「いやいや、カリン。あなた今まで一度も恋人なんかいたことないじゃない」
こうみえて、カリンにも女神ハンナサクーニャの祝福を受けたことがあった。しかし同じ年の婚約者は、3歳の時に病気で亡くなっている。
まれにこういったことがあるが、そういった場合でも祝福は適用されるので、残された方はみな、恋人はいても結婚はできず仕事に生きるのが通例だった。
「舐めてもらっては困りますよ。こうみえても、心の恋人の一人や二人くらいいますって」
心の恋人かいっ!などといちいち突っ込んでたらカリンの思う壺だ。さり気なく無視をして用意されたお茶を一口飲む。
「でも確かに、こんなに早く王宮へ入らなくてもいいと思うのだけれど」
「王太子殿下のお嫁さんに何かあったら大変だからでしょうね。主に怪我とか病気とか、悪い虫とか、エロい虫とか、ゲスい虫とか、とにかくいらん虫ですわ」
この国では自由恋愛は推奨されないが、別に恋愛が禁止されている訳ではない。ただ、恋愛から結婚に至る道筋が閉ざされているだけ。
なので祝福済みでも上手に遊ぼうと思えば遊べると、恋愛と結婚をきれいに住み分けして楽しんでいる人たちもそれなりの数がいるのも確かだ。
「あら、私は結婚相手以外には馴れ馴れしくなどしないわよ」
侯爵令嬢としての矜持は高い。
とはいえ王太子殿下サイドだって不安なのだろう。万が一メリズローサに変な虫がついてしまったらシャレにならない。メリズローサの不幸は王太子殿下の不幸、ひいては王国の不幸にもなりえるのだ。
それならば仕方がないと納得し、先ほどカリンに渡された本をぺらりと捲った。
「いかがですか?私が厳選したお嬢様用の恋愛指南書です」
「ごめん、私にはどうみてもこれ、育児書にしかみえないわ」
オムツの替え方とか、ミルクの後のゲップのさせ方とかが書かれている恋愛指南書があるなら逆に見てみたい。
「何言ってるんですか、お嬢様!王太子殿下はまだ生後1ヶ月にも満たない乳児なんですよ。まずは完璧で丁寧なお世話をしてさしあげ、愛を育んでいくんですからね。これは立派な恋愛指南書です」
また、妙に正論なのがムカつく。特にこの、ドヤァな顔が。
絶対に遊ばれてるのはわかっているが、この本が必要なのも確かだ。何せ、今日から毎日2時間から半日ほど、この白の離宮でアルヴィン王太子殿下のお世話をしなければいけない。
この婚約期間という名の育児を1年間。つまり360日過ごした後に、めでたく結婚の儀式となる、らしい。
王室、ちょヤベぇ。
カリンのように口にはしないが、メリズローサですらそう思わずにはいられなかった。
「それでは、まず王太子殿下の唇へキスをして差し上げてくださいませ」
「………………は?」
離宮の門にて、美しく編み上げられた籐製の乳母車を押し付けられ、メリズローサは何を言われているのかわからずに、気の抜けた返事を返してしまった。
「この白の離宮は、女神ウィワンナーガの加護の元にありまして、中へ入れるのは主人の他は従者一人と、主人からのキスの祝福を与えられたものだけとなります」
なるほど、道理で比較的狭めとはいえこの離宮にカリンしか侍女がいないわけだ。
見捨てられた訳じゃなかったらしい。
確かに人手のない割には離宮にはチリ一つ落ちてはいないし、空気も清浄、室温も快適である。その上なんと浴室は24時間源泉かけ流しの温泉だ。それもまあ、女神の加護だといえばそうなのだろう。料理や洗濯ものなどは離宮の外から運ばれるから問題ない。カリンなどは、余計なことを言ってくる侍女頭も執事もいないしで、お気楽なその生活をすでに満喫している。
「ですから、王太子殿下の入退室の際には必ず唇へのキスをお願いします」
「わかりました。それではお任せくださいませ」
男性とはいえ、相手は赤ちゃんだ。キスの一つや二つどうってことない。メリズローサは乳母車の中を覗き込んだ。
真っ白で見るからにもちもちの肌に、黄金に輝くふわふわの髪。すでに開いている大きな瞳は空が抜けるような青さで、そこに金色のまつげが飾られた宝石のようだ。これはもう一つの芸術品だと言っていい。
ううううう。か、可愛いっ!
今まで見たこともないような可愛らしい赤ちゃんが、乳母車の中、美しいレースに彩られた布団にくるまれていた。
なにこれ、天使?天使に違いないでしょう!?やばい、わたしの未来の旦那様天使だった!
あまりの愛らしさに、頭の中で天上の鐘がリーンゴーンリーンゴーン鳴りだした。まさに天にも昇る気分とはこういうことをいうのだろうか。
「……あの、メリズローサさ……ま?」
コホン。王太子殿下付き侍女の呼ぶ声で我に返ったメリズローサは、あらためて殿下に向かい、その小さな唇にキスを落とした。
唇への刺激が気になったのだろうか、ちゅばっ、ちゅばっと唇をむにゅむにゅ動かす仕草も可愛らしい。
メリズローサはふにゃんとまなじりを下げた。ヤバいもうメロメロになりそうだ。
それでは本日は2時間後にと、下がる侍女たちを見送り、メリズローサは離宮内へと向かった。
「ふふふ。殿下は本当に可愛いですわ」
「やだわ、お嬢様。もう殿下に首ったけですか?お熱いですわねえ」
「なんとでもお言い。可愛いは正義よ!」
ねー、とまだ全くわからないだろう王太子殿下へ声をかける。すると、何が刺激になったのか、急にふぎゃっ、ほぎゃあ、と泣き出したのだ。
「あらっ、急にどうされましたか?殿下?」
「いやいや、直接聞いても無理ですよお、お嬢様。多分おしっこじゃないですか?おっぱいは来る前にあげたばっかっていってたんでしょ?」
ぐっ。待って、待って。キスとは違う。赤ちゃんとはいえ、男性だ。しかも婚約者の……大事なところを見てしまうのは、淑女としてはどうなのだろう。うん、勘弁してほしい。
「何言ってんですか。どうせ、そのうち見るんですよ、ちん、ごぶっ……もがぁ!」
メリズローサは無理矢理カリンの口をふさいで、あー、あー、聞こえない。
「いやいやいや。そこ言わないで、言っちゃダメえ!心の準備を頂戴っ」
「げほっ、まあ、あと十うん年ありますけどね、心の準備期間」
「そういうわけだから、カリンお願いっ!」
「仕方がないなあ。貸し一個ですからね」
そう言い放ち、王太子殿下をあやしながら別室へと連れて行くカリンは、貸しはいくつまで溜まるかなーなどと不敬なことを考えている。本当に、主従関係が破綻した二人であった。
王太子殿下との最初の逢瀬から、10日ほど経ったある晴天の日。
取り決め通り、あれから毎日2、3時間、メリズローサは王太子殿下と過ごしている。
相変わらずそのお姿は天使と見まごうばかりの可愛らしさだ。あぶー。とよだれを垂れ流している口元にだって平気でキスできる。むしろ、喜んで。けれども――――
「あのさ、カリン。なんか殿下大きくなってない?」
「そりゃまあ、大きくなりますよ。育ち盛りなんですから」
白の離宮の中庭で日向ぼっこをしながらお茶を飲むメリズローサは、カリンに渡された本をめくり同じところを何度も読み直した。
「ご自分でお座りなされてるのは、どうみてもおかしいわよ。まだ1ヶ月くらいじゃなかったっけ?」
「さあ?個人差ってやつですよ、きっと。大体私たちちっちゃい子供に縁なかったんですからわかりませんよ」
「でもね、ほらっ、ほらここっ!」
広げて該当のページを見せる。が、カリンはその手でべしっと叩き落とした。
「お嬢様。恋愛にマニュアルはないんですよ。そんなものにいつまでも頼ってるからダメなんですって」
これは、育児書だっ!
しかし、個人差です、と魔法の言葉を吐かれるとつらい。何せ本当に子供とは接したことがなかったのだから。んー。と足りない知識で考えていると、芝生に座っている殿下から手が伸びて、メリズローサのスカートを引っ張った。
「うふふふ。殿下、ご用事でございますかー?」
今さっきまでの悩みをとっとと放棄して、王太子殿下を抱っこする。日に日に重すぎるほど育っているが、きゃっきゃきゃっきゃと喜ぶ殿下をみれば、なんか、まあいいかと思うほどに、メリズローサは殿下に骨抜きだ。
「あらあら、上手にあんよができるようになりましたねえ」
お座りが早すぎないかと悩んだそのまた20日後。なんだか悩むのがアホらしくなるほどのスピードで、殿下は成長し続けている。すでに、殿下の月齢は忘れることにした、メリズローサだった。
カリンに至っては、個人差という大義名分を捨て、次の魔法の言葉を探し出した。
王族、ぱネェっす。
「おっ、おー」
メリズローサに向けて一生懸命声を出している殿下は、最近より一層表情豊かになってきていて更に可愛さアップだ。
「おじょ、おーじょ」
「はい、はい。おじょおじょ」
殿下が同じ言葉を繰り返して喋っているが、一体何を言ってるのかはわからない。
「ねえ、何て言ってらっしゃるのかしらねえ?」
「私がお嬢様って言ってるのを聞いてらっしゃるから、お嬢様の名前呼んでるつもりなんじゃないですか?」
そういえば、確かにおじょおじょ言ってる時は、メリズローサに向かっている時だけだった。
「あらやだ。じゃあ、しっかり教えて差し上げないと。私、殿下にお嬢様って呼ばれちゃうの?」
「それよりも、私がお嬢様のことメリズローサって呼び捨てにしましょうか?殿下の御為に」
「断固として断るわ」
その日は殿下に、メリーですよ、メ、リ、ィー、と教えて半日が過ぎた。
そんなこんなで、忙しくも優しい日々が過ぎていく。
このバズウェルド王国では、30日で1ヶ月、12ヶ月で1年となる暦を使用している。そしてメリズローサたちがこの白い離宮へ連れて来られてから120日になる、ということはつまり4ヵ月が経っていた。
「早いものよねえ」
「本当に早いですねえ」
「4ヶ月……よねえ」
「4ヶ月ですよ」
既にアルヴィン王太子殿下は一人でしゃきしゃき歩くことが出来るし、メリズローサのこともメリーと愛称で呼ぶことが出来る。なんだったら普通に意思の疎通も出来るし、お茶だって一人でマナー良く飲むことが出来た。
「カリン、お茶のお代わりをよこせ」
王太子殿下らしく、少し偉そうにもなった。
「あらあら。そんなにお菓子を食べすぎると、お腹ぽんぽんで、またゲェーってなっちゃいますよー」
「っ、もうそんな年じゃない!早くしろ」
ちらりとメリズローサの方をうかがいながら、もう吐かないもんと、ぷくっと頬を膨らませる。幼児という枠を卒業したくらいの年頃なので、まだまだ仕草がいちいち可愛いと、メリズローサの頬が緩む。
「殿下、先ほどトンボがあちらの方に飛んでいくのを見ましたわ」
抱っこはもう無理だが、小さな手をぎゅっと握って歩くのが大好きなので、それとなく散歩に誘ってみる。案の定、殿下は目をキラキラ輝かせて、メリズローサの手を取った。
「よし。見に行くぞ、メリー。」
「ええ、殿下。お供しますわ」
「じゃあお菓子の残りは私が片付けておきますねー」
背中から聞こえるもぐもぐという音は聞こえないふりをして、この時間がいつまでも続けばいいのになあ、そんなふうに思うメリズローサだった。