悪役令嬢は鞭を振るう
自分が悪役令嬢のヴァレニエ・ブレッドだと気が付いた時、わたくしは5歳だった。
その日、わたくしは父に誕生日のお祝いを渡されたのだ。
それは馬用の鞭で、大人用の太く重い鞭とは違い、細く短めでわたくしの手にピッタリのサイズだった。
「レニー、お前ももう5歳だ。ブレッド家の令嬢として、自分の使用人の躾け位は出来るようになっておかなければならないよ。」
そう言いながら、お父様はにこやかに自分の鞭を自分の使用人に振り下ろした。
なんと、この馬用の鞭を使って、人間を躾けろと言うのだ。
ビシバシと鞭を振るっている父、母の姿を見ている内に、残虐非道な侯爵一家ブレッド家、という言葉が脳裏に浮かんだ。
それとともに、美しい従者の男性の姿が思い浮かぶ。その男を鞭打ち、服をズタボロに引き裂いて覗いた白い肌にいくつもの鞭跡や醜い痣をつけ、赤い血さえ流させている若い女性の姿。艶やかな長い黒髪、つり上がり気味の濡れた様なトロリとした蜂蜜色の瞳、快楽に酔いしれる様な紅い唇…そんな壮絶な場面にも関わらず美しい女。
ふ、と横を向いた時鏡の中にわたくしの姿が写り込んだ。
幼い少女ではあるが、黒髪はツヤツヤと光を放ち、金色の瞳は大きく見開かれ此方を凝視している。唇は自然なピンク色であったが、顔立ちはこのまま成長すれば、先程脳裏を過ぎった場面に大きく描かれた女性の姿になるだろう。
「ヴァレニエ・ブレッド……。」
小さく呟くと、わたくしはその場で気を失った。
わたくしの前世はよく思い出せない。だけど、この世界が前世で乙女ゲームの世界だった事は何故かストンと腑に落ちた。
……わたくしが、鞭打ち悪役令嬢のヴァレニエ・ブレッドだということも。
ヴァレニエ・ブレッドは、彼女の従者、ジャンのルートと、彼女の婚約者、ライス侯爵子息のダールのルートで登場する悪役令嬢だ。
ダールルートではそこまでは無いが、ジャンルートでは、ヴァレニエによるジャンの壮絶な虐待シーンが描かれているのだ。
屈辱に塗れつつ、鞭打たれ、足蹴にされ、日々憎しみを募らせて彼女の従者をしていたジャン。
蟻地獄の巣の中に居る様な日々の中で、ヒロインに出会い、数々のイベントをこなしてブレッド家を破滅に追い詰める。そうしてブレッド家から解放されたジャンはヒロインと幸せになるのだ。
もちろん、一番憎まれているヴァレニエが無事に済むわけは無い。
ルートに寄って、少しづつ違いはあるが、グッドエンドやノーマルエンドでは最終的に娼館に売られたり殺されたりするのだ。バッドエンドでは逆に楽しげにジャンとヒロインを苦しめていたが。
それらのスチルが脳裏に浮かんだ瞬間、どっちも嫌だ、と思った私は前世は普通の一般的な女子であったと推測される。こんなゲームをやっていた時点でどうかとも思うが。
そんな私の目の前に、従者として連れて来られた少年、ジャン。
彼が粗相をする度に鞭を振るわなければならない、わたくし。
いや、鞭打たなければ良いじゃん、と言うあなたは甘い。
わたくしが鞭打たなければ、じゃぁ私が、という輩がいるのだ。父、母、兄、執事、メイド長、と鞭が大好きな方々が、嬉々としてわたくしの手本を示しにやってくる。
彼らに任せると、ジャン少年はボロボロにされて2〜3日はベッドの住人になるだろう。我が家の他の使用人達と同じ様に。
わたくしは細心の注意を指先に込めて、彼が怪我しない程度に、だが痛そうな音が立つ様に、心の中でごめんなさいごめんなさいごめんなさいと唱えながら、鞭を振るった。
なるべく傷付けない様にと、そんな努力はしていたが、鞭を振るっている事には変わりは無い。ジャンには嫌われ憎まれる事だろう、と既に諦念の境地だった。
前世では悪役令嬢に転生した小説を読んだ事はあった様で、破滅回避の行動を、と考えた事はある。
だが、我が家の現状を見つめて、わたくしは青空へと目を向け、溢れ落ちそうになる涙を堪えた。
この家は、破滅した方が人様の為になるだろう、と。
領地での搾取も、使用人に対する扱いも、色々と暗躍している陰謀も、どうやってたかが小娘が止められると言うのか。無理難題言うなという話である。
家族の矯正?わたくしよりも長い年月をこうして生きてきた彼等の生き様をヒョイと出て来たわたくしが簡単に矯正出来たら苦労はしない。
ヒロインがどのルートを辿ろうが、巨悪退治的な場面でブレッド家は破滅させられる。それを待てば良いのだ。バッドエンドではその限りでは無いが。
バッドエンドになった時にはこの家をどうにかする為の方法を何とか考えなければならないが、現状わたくしがなんとかしようと頑張ったとして、プチッと潰される様は想像に硬く無い。
近い将来、殺されるか娼館に売られるか……どっちがマシであろうかと悩む日々ではあるが、もうなる様にしかならないと思いながら、ジャンやわたくし付きのメイドが粗相をしては鞭打つ日々を淡々と過ごしてきた。
正直、どんなに美しい少女へと成長していっても、無表情無感情になってしまうのは仕方がない事だろう。むしろゲームでのヴァレニエの方が表情豊かだ。
そうこうしている内に日々は過ぎ、わたくしはゲーム開始年齢の17歳となっていた。
わたくしはなるべく鞭打ちたくは無いので、細かい事では粗相とは認めずスルーしている。
だが、ジャンやメイドがカップを割ったり紅茶を溢したりとすれば、流石に鞭打たないという訳には行かない。こう何度も粗相されると無表情なわたくしもチベットスナギツネの様な顔になろうと言うものだ。
パシン
「ああっ、お嬢様ぁっ」
スパン
「あふぅ」
ピシィ
「あひいぃ」
ペシッ
「もっとぉぉ」
聞こえる悲鳴に耳を閉じて、淡々と鞭振るう、が、何故だろう、何かがしっくりこないのだが。
なんだかこの所、使用人の粗相が多すぎでは無いだろうか、とか、鞭打たれているはずの使用人達が痛そうな表情ではなく、何故か恍惚とした表情を浮かべているような気がするのだが、気の所為だろうか。
小首を傾げながら、ジャンを鞭打つ。
そういえば、そろそろゲームは始まっている筈だが、ヒロインと顔を合わせないな、と、ふと思った。
「ねぇ、ジャン、貴方、グラノーラ男爵令嬢を知っているかしら?」
「はい、夜会でお嬢様をお待ちしている間に何度かお会いした事は御座います。不思議な事を仰る方で。」
既に出逢っていたとは。
遠目に夜会で見かけた事はあるが、ヒロインらしくキラキラとしたご令嬢だった。
彼女が頑張ってくれれば、この家は没落し、わたくしはこの日々から解放される。
死ぬか娼館かというのは、恐ろしいものだが、この生活を享受してきたのだ、自分がやり返されるだけなのだ。決して自分が望んでいた訳では無いのだが、段々と近づく終わりに、早く来て欲しいとさえ思う様になっていた。
「お嬢様が、私を虐待しているとか失礼な事を言ってくるのです。」
「何ですって?」
「鞭ですか?ヒールですか?先程鞭は頂いたので、ヒールで踏んで頂きたいです。」
「いいえ、そうじゃなくて、ジャン、貴方、わたくしにこれだけ鞭打たれて虐待されていると思っていないの?」
「え?何がですか?お嬢様の鞭打ちはご褒美かと思う位絶妙な力加減でむしろ神業と言える気持ち良さですが。」
怪我をさせない様に細心の注意を払って鞭打ってきたが、まさか、その様に思われていたとは。
思っても見なかった従者ジャンの言葉に、目を見開く。
「貴方……、わたくしを憎いとは思っていないの……?この家から解放されたいとは……。」
そのわたくしの言葉に、ジャンも目を丸くしてわたくしを見つめる。
「お嬢様は、ずっとその様に考えていらっしゃったのですか……?」
「だって、この家は、遅かれ早かれ、悪事がバレて断罪されるわ。貴方はそれを早める事を考えていると思っていたのに。まさか、何も行動していないなんて事は……。」
ゲーム内でジャンは、この家を断罪する為の証拠を見つけ出し、破滅へと導く為の大事な協力者となるのだ。その過程でヒロインと恋に落ちるのだが、この様子では、ヒロインに協力しているとは思えない。
「お嬢様は、ブレッド侯爵家の破滅をお望みですか?」
ジャンがわたくしに問いかける。
「…………。」
わたくしはそっと目を伏せた。
その後、何がどうなったのかは分からないが、ゲームは滞りなく進み、ブレッド家は無事にというと語弊はあるが、断罪された。
当主である父やその妻である母、後継の兄は処刑。
長女であるわたくしは悪事には直接関わっていなかった事が証言され、身分を失うだけで済んだ。
処刑や娼館へ落とされる事は無かったが、貴族の令嬢であったわたくしが平民となるのだ。これから進む道は険しいだろう。それでも、領地の人々が解放され、非道な行為をされた人々は保障を受け、わたくしはホッと息をつけたのだった。
「お嬢様」
ジャンが清々しい気分で荷物の整理をしているわたくしに声を掛けてきた。変わり無く呼んでくれるジャンにふ、と笑みが溢れる。
「もう、お嬢様じゃないわ。」
「では、女王様……。」
「おやめなさい。ふざけているの?」
「いえ、真剣です。お嬢様の身柄は私が預かる事になっています。ですので、その話を……。」
ジャンによると、わたくしの使用人達や虐げられる人々を何とかしようとした日々に出会った領民達がわたくしの助命や生活の保障などを求めて嘆願してくれた様だ。
あれだけの残虐非道を行った一家の娘に随分と心の広い人々だと思う。
貴族であったわたくしが平民の暮らしを過ごす事には不安を感じていたが、ジャンが用意した家に住み、質素に暮らすならば、心穏やかに過ごせるかもしれないと、ジャンの申し出を有り難く受ける事にした。私を恨んではいないと断言したジャンであるならば、無体な事はされないに違いないと。
しかし……。
「お嬢様、これをどうぞ。」
そっとプレゼント箱を渡され、中を見ると……。
「最高級の革を使い、最高の職人に仕立て上げさせました。私のお嬢様への愛の証しです。」
にこにこと笑う、笑顔のジャンと、わたくしを囲む、わたくしの使用人達。
そっと、箱を閉じて、わたくしは、にこりと微笑んだ。
「わたくし、やはり一人で生きていくわ。」
その途端に広がる轟々とした非難の声。
「ええ!?そんな、お嬢様!」
「あの神業を味わえないなんて、そんなご無体な!!?」
「お嬢さまぁ!せめて、せめて、このピンヒールはお納めください!!、こっちの一本鞭は諦めますから!!!」
わたくしが、広がる青空にチベットスナギツネの様な表情を向けたのは、言うまでもない。
リハビリにと思って書いたのだけど、何故これを書こうと思ったのか……。