2-1 彼の三月中旬。
滅茶苦茶お久し振りです。(>ω<;)<ひぇ……。
今回からは彼の視点が続きます。
『たった今、三月十日になりました。
貴方からのメモを拝見しました。以前から何度も励ましてくれてありがとう。私などでよければ、よろしくお願いします。これは最初の日記の記念に贈ります』
シャッターの前に置かれていた臙脂色の本には彼女からの返事がしたためられたいた頁の端に、遠慮がちに添えられていた真鍮製の栞が一枚。
彼女らしい優しい風合いの贈り物だった。文字は滑らかな丸みを帯びていて、彼女の人柄を表しているようだ。
仕事帰りに寄ったシャッターの前にこの本が置かれていたときは一瞬現実味を感じなかったが、拾い上げて手触りを確認してこれが夢ではないと分かる。
家路につく途中、嬉しくて浮き足立つ自分がいることに心底驚いた。
人らしい感覚を持つのは久しぶりで戸惑うものの、それでも本を入れてズシリと重くなった鞄が苦にならなかった。
すでに読んだ文面であるにも関わらず気になって仕方がない。あれほど店のテントの下で何度も読み直したのに、だ。そんなに都合の良いことがあるだろうかともう一度頁をめくりたくなる。
そもそも僕は以前から彼女を知っているのに、彼女が僕の存在に気付いたのはここ一年ほどのことだったはずだ。
こんなにすんなりとことが運ぶことをどこかで素直に喜べない。どちらかと言えばまだ不安が上回っているというか、疑心を持っている。彼女に僕の存在を知ってほしかったはずなのに我ながら勝手な言い草だ。
知らずに鞄を撫でる手が、中にある臙脂色の本に綴られた彼女の文字を求めている。もっと眺めたい。もっと触れたい。
しかしそう感じると同時に、それまでの高揚感が薄れていった。
目を閉じて思い出すのは夏の夕方、日差しを存分に吸い込んだアスファルトから立ち上る“夏”の匂い。
涼を求めて逃げ込んだ商店街のアーケード。
日除けに大きく取られた店先の黒いテント。
喧騒も届かない店内で唯一、大きな音を立てる黒電話の横で店番をする初老の店主は、僕が店にやってくるといつも軽く会釈をする。
余計なお喋りや詮索をする人ではなく、それがとても僕を安心させていたことなど、彼は知らないだろう。
いつもと変わらない、いつも同じ時間軸の中に彼はいた。彼女のあの穏やかさはきっとあの店主譲りのものなのだろう。
あの穏やかな時間を思い出していたら、いつの間にか足が止まっていた。
夢から醒めた気分になって辺りを見回せば、数メートル先で白い街灯の明かりがチカチカとせわしなく瞬いている。
ふと空を見上げれば街明かりに消えてしまいそうなほど身を縮こませた星々が、切れかけの街灯と同じように瞬いていた。
手許には二冊の本――もう戻らないとばかり思っていた。
いや、正確には、そう――もう、戻らないことばかりだ。
あれこれと埒もないことを考えるのは自分の悪い癖だと分かっている。しかし分かっていても改めるのが難しいのが癖というものなのだから仕方がない。
仮にとても前向きな自分を想像しようとしたら、まだ始まってもいないのに終わっていた。自分でも驚くべき後ろ向きな思考だ。
商店街から歩き始めて二十分、古い住居ばかりがある一角に出る。その中でも特に古い一軒。亡き“祖母”から譲り受けた木造平屋建ての自宅は趣があって良いのだが、僕には少々狭い。
腰までしか高さのない門を通って、玄関先にある丸い電灯の電源を入れる。電灯など点けなくとも、もうこの家において知らないことも出来ないこともないが、防犯の一環だ。
立て付けの悪い玄関の引き戸にはめ込まれたガラスは、まだ大量生産が始まる時代の前の物なので所々たわんでいるし、耐久力もさほどない。
しかし電灯の明かりがそのたわんだ箇所に留まったり流れたりするのを見るのが好きなので、取り替えようと思ったことはなかった。
まるで水面のようなその光景が好きで普段はここで二、三分ほど立ち止まって眺めるのだが、今日はそういう訳にはいかない。
廊下の明かりもつけずに真っ暗な中を自室まで直行する。自室に戻った僕は、これもまた“祖母”から譲り受けた文机の上に鞄を置いた。
三月の木造平屋は外の気温と変わりがないので寒い。暗いからよりそう感じるのだろうが、こうして心を鎮めないと鞄を開けられそうにないのだ。
正座をしたまましばらく待つ。そして冷静になり始めたところでようやく卓上電気のスイッチを入れた。
パッパッと明滅を繰り返してから真っ暗がりに白い光が広がる。この白熱灯の照明は明るすぎて目に痛いのであまり好きにはなれない。買い換えるために休日を使うのが面倒でそのままにしている。
しかし今はそんなことも気にならない。いつもは持ち帰った仕事と途中で買った惣菜しか入っていない鞄だが、今日は違う。
まだややどこか緊張しながらも鞄のチャックを開けてB5版ほどの大きさをした本を二冊取り出して、そっと片方を開いた。その頁に挟んであった栞が抜け落ちて文机の上でカチリと小さな音を立てる。
たったそれだけのことで、不思議と口許が綻ぶ。指先に挟んだ栞は薄く、大事に扱わなければ折れてしまいそうだ。
文机の上から栞と本以外を除いて再度その頁を見つめる。視界に入るそれらを見ているだけでかじかんだ指先に血が通うような……そんな気分だ。
じんわりと胸を温かくするその筆跡。
ずっと待ちわびたその文面。
文机の引き出しから祖母愛用だった万年筆を取り出して、さて何を書こうかと思案する。頭ではいつものように思った言葉を文字に起こせば良いと分かっているのに、いざ万年筆を動かそうとしても全く動かないのだ。
この感覚は論文を書くのに似て――いや、それ以上に難しいかと思い直す。あれこれと考えた挙げ句、結局栞のお礼を綴るのがやっとだった。
万年筆を置いた後も動悸が止まず、簡単な文面だというのに何度も内容を確認する羽目になる。それに添削する側からされる側に回るのも久し振りで落ち着かなかった。
しかも何よりこの内容で正解であるのかを知るのに四日はかかる。卓上カレンダーを眺めてスケジュール確認をしながらつい溜息がもれた。
こんな風に自分の時間があまりないということが不自由であると感じたのですら、もうかなり久々であるというのに気付いたのは翌日の早朝、彼女の店のシャッター前に本を置いて立ち去った後だった。
――――それからの四日間はあまり憶えていない。
というのも、ただただ“長い”としか感覚として残っていない。だから今こうして文机に置かれた本を開くのに戸惑っている。
書き出しは彼女。
そして自分。
今回は彼女だ。
―――そう、思いたい。
けれどもし前回綴ったあの文面で彼女が気分を害していたら? そう思うとこの二時間、表紙を開くことさえ躊躇われた。
しかしこれで文面の創作にさく時間を削るのは惜しい。明日は早めに仕事に出なければならないので睡眠時間を考えればすぐにでも取りかかるべきだろう。
意を決して表紙を開き、一息に前回綴った頁を引き当てる。恐る恐る目を通した頁が白いということはなかった。それだけで胸のつかえが軽くなる、
『三月十二日です。
貴方がこれを読んでくれるのはいつでしょうね。栞のお礼にと挟んでくれた都忘れの押し花、どうもありがとう。見ていると気分が和みます。まだ寒い日が続くそうなので、身体に気をつけて下さい』
五行の文面にこれほど力があるとは知らなかった。結局あの日はお礼に一行、天気に二行とくだらない文面しか書けずに、苦し紛れで生前“祖母”の趣味であった押し花の栞を一枚挟み込んだ。
それが彼女の心を和ませたなら、我ながら情けないが“祖母”に感謝し通しの人生だ。
けれど、そのお陰でまた新たな発見が出来た。
………彼女は花が好きらしい。
だったらと――手許にあった資料から一枚の写真を選んでつまらない自分の文章を少しでもマシなものにしてくれれば良いと挟み込んだ。一度褒められたことを繰り返すだなんてまるで犬だなと自分の行動に苦笑する。
今度は三日後になる解答にわずかな期待を込めて、その夜は表紙を閉じた。