1-7 彼女の二月と三月。
『二月十九日。
吉日以来何となく店を開け続けている。店にも新規のお客が増えて、品揃えも思いのほか好評。何だかこのままの方向性で進んでも問題ないかもしれない。父が店をやっていた時も、そういえば品揃えは若干とはいえ偏っていた』
あぁ、店に一定の個性が大事だと気づき始めたのはこの頃だったか。専門書といっているのだから一本筋を通した風に収集してもおかしくない。物事はいろんな角度から見ないと分からないものだ。
現にその時代を選んで勉強している人は老若男女問わずにいるらしくて、学生や大学の講師、アルバム制作をしている老人会までいろいろな用途で利用してもらっている。
店との二人三脚、途中脱落、敗者復活と何だかんだとあったけれど、私は今も店をやれていた。
『二月二十五日。
彼が店の中に入って来た時、私はどんな顔をしていたんだろう。笑顔の彼なんて想像したこともなかったから油断した。私を見るや気難しそうなあの眉根の皺を僅かに緩めて不器用に微笑んだ。心臓が痛いくらい跳ねて、彼が帰るまで彼の姿を見ることも出来なかった』
思い出しただけでも心臓に悪い。いつもは何を考えているのか分からない人なのに、あの時ははっきりと私に笑いかけた。それだけで宙に浮いた感覚を味わう私もたいがい免疫がない。
でも、それくらいに珍しいことで、内心それが嬉しい自分がいることの方に私は焦った。悩んだり、驚いたり、焦ったり。彼と出会ってから、私は忙しいばかりだ。
『二月末日。
……今日、意を決して彼からもらった本を開いてみた。まるで禁書の扱いだった二冊の本は、厳密に言うと本ではなかった。覗いてはいけない秘密を書き出したそれは、誰かと誰かの交換日記。古い日付が並び、不穏な時代の中で引き離されていく二人 を綴っていた』
ここまで読んだ私は臙脂色の日記を一度閉じた。まだ瞼の裏に先日の彼の姿がうっすらとある。私は傍らに置いてあった二冊のうちの一冊を手にして開いた。
問い合わせた出版社も版元も、もう七年も前に潰れていたし、自費出版とはいえ品の良い装丁の本だ。適度に分厚くて重い。その頁は変色して黄ばみ、所々抜け落ちたような跡もある。決して状態が良いとは言えないけれど、大切にされていた風でもあった。
ただその中身は互いを思い合う日々を綴っただけの日記で……。
私は慎重にその頁をめくりながら溜め息をついた。引き寄せて開いたもう一冊の方は真新しい白。一文字も綴られていないまっさらな頁。
なる程、こちらはもう一冊を模して作られた新しい物らしかった。理由は彼の神経質そうな文字の並ぶメモ用紙の上にある。
――――私はそれに対する返信をまだする勇気が出せないでいた。
『三月二日。
夕方、いつものように彼がやってきた。またいつも、と書けるのが嬉しい。少しだけ違っているのはもう本棚に彼がご執心だったあの本がないこと。そして、彼が私に宛てた謎かけの返事が延び延びになっているということ』
…………返事がまだ、いや、もうほとんど決まってはいるのだけれど。
今日はもう九日の深夜。
明日でちょうど一年が経ってしまう。
別に返事を急かされている訳ではなかったけど、それでも自分の中で区切りをつけるだとか、勢いだとか。そういうのが必要な歳になってしまっただけだ。
メモ用紙にある文字は相変わらず淡々と一言。
《この本に、貴女の文字をくれませんか》
これがいったいどういう意味なのか。意味を取り間違えたら、相当恥ずかしいに違いない。よく考えなければならないと・と、こんなにギリギリまで粘ってしまった。
机の上にはボールペンと今まで彼がくれたメモ用紙の数々。
そして私の日々を綴ったつまらない日記が一冊。
時計が深夜の十二時を指して、今日が明日になってしまう前に。
私の震える文字が、真っ白な日記の一頁目に少しずつ綴られていく。
…………十一時五十五分。
私は何度も何度も誤字や脱字がないかを確認し、文面を憶えるまで読み上げ続けた。ふと、新発見。言葉を交わすよりも文章を交わす方が気恥ずかしくて難しい。
布団に潜り込んだのは、四時二十分。
仕上げにクリスマスに渡し損ねたプレゼントを挟んで出来上がり。
三月十日になってしまったけれど、なるようになれば良いと、思った。
――――ただ、出来ればどうか、良い方へ。