1-5 彼女の八月と九月。
『八月六日。
毎年近所の商店が集まって催される夏祭りが近付く。恒例のことなので私も店のテントの下に電飾の提灯をぶら下げる。近所の子供が嬉しそうに電飾の提灯を数えて走っていく。そういえば、いったい彼はどこに住んでいるのだろう』
それまで彼がどこの誰なのかまったく気にしたことがなかった。わいて出るはずもないのだけど、すっぽりと考えから抜け落ちていたというか――。それどころか存在自体を全然考えつきもしないくらい、彼には生活感がなかった。
無色透明な人間がいないことくらい知っているけれど、彼は薄靄がかかったみたいな朧気な人という印象だったから。
『八月十八日。
この地域のどこにこんなに子供がいたのだろう。生活をかけた苦肉の策で店の前に古書を数十冊ばかり。売れるはずがないと思っていたらまさかの前冊お買い上げ。驚いて顔を上げたらもっと驚く羽目になってしまった……』
素っ気ない日記の内容からは読み取れないけれど、あの時の私は相当取り乱していた。それこそ声も出せないほどに。あんまり悔しいから日記でくらい平静を装ったのだ。
彼の好みに合わせて揃えた本達が彼を呼ぶことくらいわかっても良さそうなものなのに。それとも、私は彼に見つけて欲しかったのだろうか……。
『八月二十七日。
お祭りの日から彼の日参が始まった。毎日毎日シャッターの前に数十分ほど立ち尽くしては帰る。シャッターを叩く気配もないし、いったい何がしたいのだろう。あの本がそんなに欲しいのなら、いっそ彼にあげてしまおうか』
それで早速あの本と、彼から贈られた本を詰めた段ボール箱をこっそり夜のうちにシャッターの前に置いておいた。この時は店をたたんでしまうつもりでいたから、彼の好きそうな本を店から捜して一緒に詰めた。彼から贈られた本と、彼が気に入っていたあの本の中身は読まずじまいで。
……そういえば私は何で中身を読まなかったのか……。
読んでいたらもっと早く何かが変わったかも知れないのに。
『九月二日。
段ボール箱は置いた夜から場所を変えないでそのまま。彼はあれからも通い続けているのに持ち帰ろうとしない。代金が気になっているのだとしたらそんなの、お祭りの晩の分で充分なのに。あそこにあの日置いたのはどれも売る気のないような貴重な物ばかりだったのよ』
一冊売れれば万々歳の値札がついたあの晩の本達は父の遺したコレクションの中でも一級品。使う当てのない古書店店主にはもったいない本だった。とはいえ、誰にでもお金さえもらえれば売れるといった本でもなかった。
本の持つ価値と、私の中の父の思い出。
両方を感じさせてくれる彼だから譲っても良いかなと思った。
『九月八日。
窓の外を見やると、久しぶりの雨。シャッターの前の本を慌てて取りに下へ。待ち伏せしていたらしい彼と鉢合わせる。回れ右をして店に入ろうとしたら再びあの二冊を押しつけられた』
咄嗟のことだったし、押し返すにはちょっと彼の目が真剣すぎて怖かった。無言のまま押しつけられた本と彼を交互に見ていたら、彼は私に背を向けて帰ってしまった。透明のビニール傘がくるくると回って雨粒を弾く。本の大敵の雨粒を疎ましく感じなかったのはあれが初めて。
『九月半ば。
空の色も風も、すっかり秋。最近は朝夕肌寒く感じる日もある。橙色の夕日が傾く頃、下から彼が小さく手を振る。何となく窓を開けて、私もそれに応じてしまった』
パラパラと日記を見ていたら、もう二時間ほど経ってしまっていた。現在と過去の歯車はなかなか噛み合ってくれないのか、時間軸がずれてしまう。
それとも私がいちいち思い出に浸ってしまうからだろうか。答えは多分、後者の方だ。