1-4 彼女の六月と七月。
『六月某日。
店に張り紙もしないで長期休暇中。私の視線の下、店の黒いテントが見える。陳列した本が日差しで傷まないようにと大きく張られたテントが、今は少し辛い。・・・彼らしき人影がその下に見えた気がしたけれど、目をそらした』
二階が住居になっているから仕事と生活を切り離せないで、それを恨んだ。家と職場を一緒にするなんて発想は気を患うにはもってこいだった。シャッターを下ろしっぱなしなものだから、下の階の湿気と熱気は想像を絶することだろう。真夏近い古書店、閉め切りの一階は蒸し風呂なんて生易しいものじゃなく、まさに地獄だ。
夜に人目を避けてシャッターを半分開けていたのも、良い経験。
『六月下旬。
本は生きていると思う。会計棚の中で、あの本は輝きを失いそうだ。彼からの何通目になるか分からないメモ用紙。紙には見知った文字でたった一言、“お元気ですか”』
ふと、彼は上が住居スペースになっているのに気付いているんだろうかと疑問を持つ。このメモ用紙もまだ持っている。もっともあの頃はお元気なわけがないでしょう、と腐っていたけれど。
『七月七日。
商店街の七夕飾りに願掛け。店にお客が戻ってきますように。今日は曇っているから効果の望みは薄そう。風になびく七夕飾りの中、思わず彼に良く似た文字を探す』
文字を追う指先をくすぐったいものが走った気がして、馬鹿だなぁと笑った。十代の女の子でもないのに何をドキドキしていたんだろう。
気分を落ち着かせるために一旦机に日記を開いたまま台所に向かい、お茶でも淹れようと思って薬缶に水を汲む。蛇口をひねるとすぐに水道水が伸びて、薬缶へと飛び込んでいく。
一人分の水は少ない。またすぐに蛇口をひねった。
……大きな決断をする前日は、なぜだかやけに昔のことを鮮明に思い出す。決断前の人生整理かもしれない。
誰でも知っている某・大手本屋のバイトを始めたのは高三。その時は就職なんて少しも考えていなかった。ただ真面目な勤務態度をかわれて、それなりに田舎の店からそれなりに都会の店へと正規雇用を勧められた。
断る理由も思いつかなかったし、十代の憧れも決断を手伝った。今時ずっと古書店を営んでいけるとは思わない程度に大人びていたのか、父にそう伝えた。父は“そうか”と言ったきり黙り込んだ。
就職してからは数ヶ月に一回、家に電話を入れるだけで特に帰省したこともなかった。母の命日には手紙を一通送る。それだけだった。
入社から何年目だったか、私はある日ふと、自分はここには馴染めないと感じた。でも、家を出てしまった手前、もうどうしようもないと諦めた。まだ毎日が当たり前にすぎていくものだと。
風景も、人も、時間も。
簡単に生活の一部が欠けたりするなんて思いもつかなかった。家を出てから十四年は何事もなく、あっという間に過ぎ去った。首をもたげた孤独も、持ち場を一つ任されてからは徐々に薄れていった。
――――明日も明後日も変わることがないと、子供みたいに信じていた。
信じたことがあっさりと裏切られたのは一昨年。健康が取り柄の父が倒れたと、病院から携帯に電話が入った。子供でいる時期が長すぎたんだと気付いたのは、毎日を出来るだけ穏やかに過ごすようにと医者に言われてからだった。
病室に、記憶の面影とすっかり異なる父の姿。本来ならもっと白いはずの病院も、やや田舎では煤けたクリーム色だった。大きい病院に移そうにも、間に合う時期はとっくに過ぎていた。ぼんやりと火にかけている薬缶を眺めているうちに湯気が上がる。私はゆっくりとした動作で沸騰した湯を湯飲みに注ぎ、湯飲みから急須に注ぐ。
軽く揺すって熱を行き渡らせた急須から湯を捨てて茶筒から茶葉を出す。緑茶の品の良い香りは勤め先で口にしていた薄い安物のコーヒーよりも私の心を解きほぐした。
茶葉に湯を注ぎ、揺する。中で茶葉が蒸れるのを感じながら、少量ずつ色目を見て湯飲みへと足していく。淹れたての緑茶を手に、私は机に向かい、再び日記をめくった。
『七月八日。
彼が控えめにシャッターを叩く音がする。音が階段を駆け上がってくるのが申し訳なくて耳をふさいだ。私には下に降りてシャッターを開ける勇気も資格もない。あの本のことが気がかりなんだろう、艶の褪せた姿が脳裏に浮かんだ』
色褪せない確かな思い出を作りたくて書き始めた日記はいらないことまでどんどん紐解いていく。
父のことも、彼のことも。
息を吹きかけて心持ち冷めた緑茶を一口すする。
……渋い。
『七月十七日。
夜、店のシャッターの前に一冊の本。手を伸ばして拾い上げた本は何だかあの本と似ていた。会計棚の中にあった本と並べるとすぐにわかった。この本とシャッターの前にあった本、装丁が対になっている』
手元に置いてあった本を二冊、日記の横に並べて頭を抱えた。本当に私みたいなのを相手にどうしてこんな手の込んだことをしようと思うのか。急に過去から現在に引き戻されそうになった私は、ごまかすためにより一層真剣に日記を追わなければならなかった。
『七月末。
今月は一度も店を開けなかったので生活分、赤字。生きているだけで赤字の女だなんて嗤ってしまう。最後のメモ用紙が挟まれてから何日目だろう。まぁ、彼がずっとメモ用紙を挟んで行くなんて思っていないけど』
どんな顔をして書いていたのか、強がった文面とは裏腹に私の文字は動揺で震えまくっていた。
今だってそうだと思いながら頁をめくる。