1-3 彼女の五月。
『五月三日。
彼が来た。少しやせた気がする。ちゃんと食べているのだろうか。今日もまたあの本を読んでいた』
彼が来ない間、明かりの下に晒されていなかった本は、少しだけ艶を増しているような気がして私まで誇らしい気分になった。日記の文字は今見てもわかるくらいに浮かれていて、我ながら単純だなと思う。
考えてみればもうこの辺りから彼は私の日常の風景として定着していたのだろうか。大切に、大切に文字にしたような感じだ。そんなことを考えていたら、一瞬、臙脂色の表紙を支えていた右手が熱くなる。私はさらに日記を読み進めた。
『五月十一日。
彼の来る日がまちまちになってきた。そろそろ飽きてきたのかもしれない。新しく仕入れる本がそうないからだろうか。今度父の友人のお店に電話してみよう』
品数をそろえようと奮闘する日々がちょっとずつだが綴られている。日記には電話をかけた日だとか、譲ってもらった本、逆に電話で乞われて譲った本の走り書きがある。
ただ、この時期の本は年代もジャンルもかなり偏りがちだ。本来好きなのもあってか、おもしろいくらいに冊数を増やしている。
『五月十九日。
久しぶり、と心の中で彼に声をかけた。本棚を見た彼が心なしか少し嬉しそうに見えた気がする。集めた品を気に入ってもらえたのだろうか。もしそうだったら嬉しい』
―――が、これが失敗だった。
専門書を幅広く手がけてこそのうちの店だったのだ。お陰で今度こそ本当にお馴染みさんだったお客が目に見えて離れだした。“学問の門は広ければ広いほど良い”とは、父が良く口にしていた言葉。
――――私は、父の店の看板を汚したのだ。――――
『五月二十二日。
どうしよう。仕入れた在庫が一向に減らない。しかも電話で注文されていた本が見つからない。もしかして、譲ってしまった本の中に紛れていたのかも……』
まさにその通り。初版の貴重本だったせいもあって、先方の店でもすぐに売れてしまったと電話で伝えられた時は足元にぽっかりと穴が開いた気がした。そこへまるで吸い込まれるように私は落ちる。
ようやく気付いた自分の馬鹿さ加減と失敗の大きさは、それまで可もなく不可もなかった私の生活を揺るがせた。
注文した品を謝って売ってしまった古書店の娘の噂は店同士の間で広がり、お馴染みさんからの電話はほどなく途絶えた。お客を根こそぎ同業者に奪われたのだ。
……あの頃の私に店をやる資格なんて、なかった。
苦みとして残る失敗の味を憂鬱な気分で飲み下し、数日分の日記を辿っていく。