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1-1 彼女の三月。



『三月十日。

最近ちょっと変わった新規のお客がやってくる。うちみたいな古書店に四日と開けずに通うなんて相当な物好きだ。私も古い紙の匂いは嫌いじゃないけど毎日嗅げば少しは飽きる。大通りの書店にでも行けば新しい本が揃うのに変な人だ』


 簡潔な文面は間違いようもない私の文字。B5の線上に素っ気ない日々の走り書きをしてその内容を残す。


 毎日日付も含んでたったの五行だけ書かれる日記。日付は一年前。私は出来事に関係ない数日間を飛ばして目当ての記載を探す。


『三月十三日。

今日は朝から生憎の雨。雨の日は紙が湿気るから嫌い。出来れば外の湿気を持ち込むお客もお断り。……なんだけど、やっぱり今日も彼はやってきてしまった……』


 五行の日記を指先でなぞりながら、この日は彼の傘から滴る雨水で店内が湿気て大変だったなと苦笑する。店の入口にある傘立てを使ってくれればいいのに、と苛々しながら床をふいた。


『三月十七日。

新事実発見。彼は意外と若かった。数日前まで鳥の巣頭だったのに。どうやら伐採してしまったようだ』


 猫背気味の背中と鳥の巣みたいな髪型のせいで実際よりもかなり老け込んで見えた彼を思い出して、私は自分の素直な感想に吹き出した。


 この時は急に見違えたものだったから、一瞬誰だか分からなくて驚いたんだ。服装がいつものよれよれシャツと色褪せたジーンズでなかったら最後まで見分けがつかなかったに違いない。


『三月二十日。

毎度毎度、立ち読みばかりやめて欲しい 確かにその格好から資金が足りないのは分かるけど。売り物なのだからあまりパラパラめくられるとハラハラする。背表紙が剥がれたりしたら問答無用で買い取らせてしまおう』


 今は亡き父から店を引き継いだばかりの頃だったから、当時の私は新しいお客に対して厳しかったらしい。本の積み方一つとっても、マナーの悪い客には注意したものだ。……それで客層がさらに限られたのもまぁ、仕方がない。


 それに、悔しいことに私では知識が足りない。訪れるお客の注文に首を傾げてしまうことだって多い。まだそれなりに若い女が一人でやっていくには、世間の理解を得ないとならなかった。


『三月二十三日。

前から気になっているらしい本を手に二時間粘る。財布の中身と交渉中と見た。本のチョイスから明治、大正、昭和初期の辺りが好きらしいけど。確かにあの辺りは歴史としては短いけれど美しいものばかりだと思う』


 結局この日も本を見るだけで買わずに帰って行ったな……。

 

 帰るときの名残惜しそうな背中が可哀想で、私は本当はやってはいけないことだけれどその本を会計棚の下に隠した。いつか彼が買うかも知れないと思うと、その時に本がなければ気の毒だから。古本には珍しく、帯が付けられたままの本だ。


 書評は無名、おまけに個人出版だったから何故うちのような店に並んだのか不思議に思っていたけれど、臙脂のベルベットが張られた本は古書の中でもとりわけ珍しい装丁だったから私も気に入っていた。


 専門書は大体が飾りっ気のないベージュや焦げ茶のものが多くて、店の中も自然と侘しく見える。だから彼があの本に目を惹かれたとしても無理はない。それに装丁を抜きにしてもあの本は私の記憶に残っていた。


 どのお客が手にしても、数頁もめくればすぐに棚に戻してしまう。


 本にとっては不名誉だろう。親心がついたのか、彼があの本を手に取ってくれた時には嬉しかった。


『三月二十六日。

本棚にあの本がないと気付いた彼の顔。隠した私が一瞬忘れていたのにその姿を見たとたんに思い出せた。さりげなさを装って自分の足下の棚から本を取り出して彼の近くに並べる。やっぱりというか、何というか。今日も立ち読みをしただけだった……』


 せっかくお金が貯まったのかと思って持って行ったのに、彼は悪びれる様子もなく愛おしそうに本を眺め、逢瀬のように立ち読みをして帰って行った。古本屋泣かせなお客だと感じると同時に絶対にあの本を売りつけようと心に誓った日でもあった。


『三月三十日。

三月ももう終わり。これでようやく虫干しの季節。大きな店でもないから蔵書数はそれなりだ。彼は今日も私の目を気にせず本との逢瀬を楽しんでいた』


 誰も店に入ってこない日もざらにあるからそう忙しいこともないけど、彼は毎日何だか空気みたいにそこにいるのがおかしかった。彼と二人きりの日は本の息遣いが聞こえるような気がして、うつらうつらとしてしまう居心地の良さがあった。


 三月の私の日記はここで終わっている。



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