3-2 彼女からの電話。
スマートフォンのディスプレイに見知らぬ着信番号が表示された。一度は無視してしまおうと思ったのに、何となく予感めいたものが胸中を掠めて……自分でも気付かないうちに電話に出ていた。
やがて耳に届いた彼女の声に、言葉に――ようやく過去が追い付いてきたのだと知った。
彼女に出逢ってからというもの、自分を断じなければという思いは日々薄れていきそうで……そんな自分が赦せない。
恐らくそれは――――今もこれから先の人生も、きっと赦されてはいけないのに……。
けれど今、目の前にいる彼女を見ていると心の中で長年渦を巻いて荒れていた感情がゆっくりと、いずれ船を出せるように凪始めている。
「……久しぶり。少し痩せたのではない?」
確かに七月も十日目ともなればもともと食の細い僕は暑気あたりで少し痩せた。けれどすっかり馴染んだ穏やかな声は今日も耳に心地良くて、弱った身体にほんの少し力を与えてくれる。
今朝までは再びここを訪れることを心のどこかで拒んでいたのに……彼女が不器用に微笑んでくれるのを目にすれば、何故そんなことを少しでも考えたのか分からなかった。
「あぁ――実は、少し」
素直にそう答えると彼女は淡く微笑んだ。……今こうして彼女を正面から見つめて初めて気が付いたことがある。
どうやら――彼女は、微笑むのが僕と同じくらい苦手らしい、と。いつも斜めから眺めていたが、正面から見つめると眦や口許がどこかぎこちない。
けれどその微笑みが……とても、好きだと思った。
「次は――貴方の番だわ」
そう言った彼女がカウンターの上に置かれた臙脂色の表紙にそっと触れる。そういえば、毎日本と埃に触れてカサついたその手も好きだった。
先代もそうだったが、古い商品を扱うからだけでなく何か本そのものを人のように恭しく扱うその手が印象に残った。
親しい人を撫でるように背表紙に触れる指も、梱包された箱から取り出す時も、まるで赤ん坊を抱き上げるように丁寧に抱える。そんな一つ一つの所作が、優しくて好きだった。
そんな手に見入っていると「どうしたの?」と彼女の声がかけられる。
「――あ、いや……今日は僕がこの店に……先代と知り合った時の話をしようと思うんだが」
慌ててその手から視線を上げてそう言えば、不思議そうな表情で僕を見ていた。その顔に一拍遅れの不器用な微笑みが広がる。それを肯定と受け取ったものの、一体どこから話し出すべきかに迷う。
先代と彼女は切っても切れない関係であるし、彼女と離れて暮らしていた空白期間の生活を知りたいのではないかと思ったのだが――急いで記憶を掘り起こして適当な情報を話したくはない。
それに何よりこの書店を訪ねるようになるきっかけとなった“祖母” の本を先代が大切にしてくれたお陰で、こうして彼女に出逢えた。こんな時、書類を整理するように頭の中を整理出来ないことが歯痒い。
それでも俯きかけた視線を上げれば、やはり彼女は微笑んでくれる。
「――この店に来るようになったのは本当にただ、偶然が重なったせいなんだ」
遡る、遡る――。真っ暗だった僕の記憶の中に徐々に、ピンホールカメラで撮られた写真のように現れる朧な過去の映像。
「この店に来る前にも色々な古書店に立ち寄った。僕が“祖母”の記憶語りを聞き取りなが ら綴って自費出版した自叙伝が、どこかに紛れて流れているかもしれないと思って……」
そんなことは有り得ないと分かっていても、日に日に病院のベッドの上でやつれていく“祖母”を前にすると何かを……漠然としなければならないと感じたからだ。
「そもそもこんな本を出版したりしなければ良かったんだ……。貴方は僕の仕事の専攻を?」
“知っているか”と目で問えば、彼女は緩く首を横に振った。僕はそれに頷き返してから続ける。
「本を出版した当時僕の専攻は街の都市計画と人口分布図の測定、その再生と流用、荒廃を辿るものだった」
簡単に言えば、都市計画をする上で過去の人口増加と減少を割り出し、そこに見合った下敷きを用意する学問だ。
この後に緑化や都市部の交通情報網などの肉付けをしていく。いわばその設計図をひくまだ何もない初期の段階で、ピースのはめられない額縁のような物だった。
「……そんな僕にとって“祖母”の肉声で語られる戦前の歴史的な町屋の風景や、生活、戦争によっての人口の移動は実に興味深いものだった」
そうだ――まるで自分の学問の足しにするように僕は“祖母”に若い頃の話を聞いた。
「そして僕はその中で“祖母”がずっと大切にしていた思い出も一緒に本にしてみれば良いなどと、気安いことを言ったんだ。兵役に取られた恋人と交わした恋文をそのまま掲載した。けれど戦争から戻ったその恋人は、親の決めた相手と結婚して“祖母”を捨てた」
あの時、本当にただの一度もそんな話を加えた方が面白いかもしれないと思わなかったのか……今でも自分に自問自答してしまう。
―――“それは本当に祖母のためだけだったのか?”と。
「結果はまぁ……相手方の男性は既に鬼籍に入られていたんだが――妻子がまだご存命で。どこから聞きつけたのか“そちらが自費出版した本のことで話がある”と職場の僕と“祖母”に連絡が入って――」
彼女がその先に待ち受ける結末を察したのか、痛ましげに表情を歪める。
「あわや名誉毀損の裁判沙汰になるところだった騒ぎを……“祖母”は老後に僕に迷惑をかけないようにと貯めていたお金で解決した。相手への示談金と、書籍の回収費用に使い切ってしまったんだ」
暗く澱んだ過去が、ヒタヒタと足許から這い上がってきて自分を飲み込む夢を何度も見た。
「そうして全てが終わった時に“祖母”は病に倒れた。病床で“祖母”は何度も僕に謝った。せっかく書いてくれた本をみんな駄目にしてしまって申し訳ないと、何度も、何度も――」
その時の気分を思い出して知らず震える僕の肩に、彼女の手が添えられる。本と埃でカサついた優しい手。
「毎日足が棒になるまで色んな古書店を探し回って……偶然、近所の店は探していなかったと気付いた。駄目で元々の気分で、貴方に渡した見本を手にしてここに立ち寄ったんだ」
先代の手よりも一回り小さくてやや白いその手の甲に躊躇いがちに触れると、彼女は少しだけ驚いた表情をしたが、その手を振り払いはしなかった。
「そうしたら――ちょうど。先代がカウンターの中で“それ”を読んでいたところだった。最初はそんな偶然があるものかと心底驚いたけれど、僕には時間がなかったから……すぐに譲ってくれと言った。まだ読んでいる途中の相手にね」
彼女は軽く口許に笑みを浮かべるが、何も言わずに先を促す。僕もそれに頷き、続ける。
「最初は“読んでいる途中だから、読み終えるまで待ってくれ”と渋った先代に理由を説明して借してもらったんだ」
そう苦笑混じりに当時を思い出していると――、
「どうして“借りる”なの? もしかして、父が渋ったせい?」
あまりに心配そうな表情になった彼女に僕はつい、らしくもなく声を上げて笑ってしまった。そんな僕を見た彼女は困惑したように眉根を寄せる。
「そうじゃない――僕が“祖母”にこれを見せたらすぐに燃やすなり棄てるなりしそうだと思ったと言っていたし、実際そうするつもりだった。こんな物のせいで僕は恩人の晩節を汚してしまったから」
僕は病室の枕元でただその薄い胸が上下するのを止めるまで、ずっと恋文の部分を音読し続けた。そのお陰とでも言えば良いのか“祖母”は微笑んで息を引き取ってくれた。
自虐的になってしまった口調を誤魔化す為に口の端だけ持ち上げて笑おうと試みたが、肩に添えられた彼女の手に力がこもったのを感じて止める。
「だけど、その時―――先代が店の名の由来を教えてくれたよ」
その言葉が、澱んだ記憶の中で今も暖かく暗がりを照らす。
「“古書は誰かが一度手離した……いわば不要品だけど、それはかつて誰かの糧であり、拠り所でもあった物だからね”」
本は、いつでも泡沫の夢を人に見せる。
それはとても滑稽でもあり、同時にとても崇高でもある。
「“その本を読んだ最初の記憶を思い出せるように【復刻堂】と名を付けたんだよ”と。先代は――そう言ってくれたんだ」
――いつかまた、泡沫の時が懐かしくなったら思い出して。
――もう一度その時間に浸れるようにと。




