3-1 彼からの手紙。
たぶんそろそろ、終わりが近付いて参ります。
彼から手紙が届いたのは大野さんに頼んで私の手紙を渡してもらってから一週間後の六月二十七日のことだった。何故手紙なのかというのも、日記が私の手許にあるせいなのだけれど。
あの手紙は私にしてみれば一世一代の賭けだった。
結果は……大野さんが二日前に届けてくれた、この手にある封筒がその戦果だ。
封筒は私が彼に送ったものよりもかなり分厚くて重い。けれどこの中に綴られている文字が彼の心の重さなのだと考えれば納得のいく重みだ。
その中に書き綴られていたのは彼の歩んできた今日まで続く物語は、一人とはいえ肉親のいた私にはやり切れない内容だった。
そのせいで届けてもらった当日に読み切ってしまったのに今日まで連絡をとるのを先延ばしにしてしまったのだ。
手紙の中身は、そう―――彼の追憶は孤児院から始まっていた。
そこでの生活は詳しい記載こそなかったけれど、園長先生がとても優しかったことや、園の子達が新しい家族に迎えられて出て行くのを見送ったこと。
新しい家族が出来そうなのに肉親を待って泣く子を宥めたり、兄弟で別々に引き取られていく姿に胸を痛めたこと。
十八歳になるまでどこにも引き取られず、両親も現れなかったこと。
それが特に悲しくもなかったことや、園長先生がお年の為に閉園することになった時、養子にならないかと言われたこと。
“お母さん”と呼ぶには歳が離れすぎているからと気をつかった園長先生に“祖母”として接するように言われたこと。
本当は一度で良いから“母さん”と呼んでみたかったことや、園長先生には遠い昔に大恋愛をした男性がいたこと。
そして―――そのせいで彼が起こした行動が“祖母”にとても大きな苦しみを与えてしまったこと……。
私は手許に引き寄せたこの臙脂色の表紙をした本が、本当は誰の為の物であったのかがようやく分かった。
表紙の表面を撫でるとややマット感のある滑らかな手触りが指の腹に伝わる。この手紙の内容で初めて彼の心の柔らかい部分に触れたのだと……触れられたのだと気付いた。
―――確かに、たった一人の“肉親”の為に彼が取った行動は軽率だったのかも知れない。
けれどそんな彼の不器用な愛情表現を私はとても……とても好ましく、愛おしく感じた。
初めて見た時からこの本が定型の印刷物ではないとは気付いていたけれど、これは彼の手によって自費出版されたものだ。
いつも昔の大恋愛を語って聞かせてくれた“祖母”が相手と交わした恋文の数々やその零れ話を書き綴っただけの自伝的な内容。裏表紙を開いて発行された年数を見れば、もう十年前だった。
人生の終盤に差し掛かった“祖母”に贈るためだけに少数発行したそれが一時とはいえ店頭に並んで、悲劇を呼ぶだなんて思いもしなかったのだろう。
幾つもの後悔の言葉と自己を否定する言葉が並ぶ便箋が、未だに彼の中に沈澱したやりきれなさを物語っていた。
いつだって、私が何もかもに嫌気がさして投げやりになっても――彼だけはそんな私を見つけて、見つめて、見守り続けてくれたのだから。
―――今度は、私の番。
たった一人で過去の重みに押し潰されそうな彼を支えるだなんて大それたことは考えていないけれど……せめて。
せめて、彼が私にそうしてくれたように、退路のような存在にでもなれたら良いのにと思わずにはいられなかった。
私は意を決して、隣にある黒電話を引き寄せて彼の親友である大野さんが教てくれた番号のダイヤルを回す。
“ジー、コロ……ジーーコロ”とダイヤルが巻き上げられては元の位置まで戻っていく。耳に当てた受話器から聞こえる呼び出し音に胸が痛くなるほど脈打っている。
けれど“プルルル”という呼び出し音が七回も続けばだんだんと不安になってきた。もしかしたら彼はディスプレイに知らない番号で着信があっても出ない人なのかも……。
だとしたらこのまま出てくれるのを待っていても無駄だろう。そう思った途端に緊張で僅かに震えていた身体が弛緩する。
残念な気持ちと少しの安堵を感じながら、十回目の呼び出し音を聞いた私が受話器を戻そうとした――その時。
“プツッ”と小さな音がして呼び出し音が途切れた。
私は慌てて戻しかけていた受話器を再び耳に当てると、何か呼びかけようと口を開きかけたけれど―――。
『……もしもし?』
どこか神経質な印象を受ける彼の声が私の鼓膜を震わせる方が早かった。まさか今日はもう彼が出るとは考えてもみなかった私は、瞬間頭の中が真っ白になってしまう。
『………もしもし?』
今度はやや警戒したような響きの声に変わったので、私は慌てて……、
「いつもお世話になっております、古書店【復刻堂】です。こちらの番号は高尾 忍さんのもので間違いなかったでしょうか?」
と――とんでもなく間抜けな対応をとってしまった。少しでも良いから電話に出てくれた時の言葉を考えておけば良かったと思ったけれどもう遅い。
『……………』
「……………」
少しの間、受話器越しに私達の世界は無音になる。けれど不思議なことに私はそれを苦痛には感じなかった。
私が受話器を耳に当てたたまま、彼は恐らくスマートフォンを耳に当てているのだろうけれど――お互いの使用している連絡ツールの世代差をおかしく感じることもない。
ただ、二人で息を詰めて。
ただ、言葉を探していた。
けれど今回は私から彼の言葉を引き出したいと、逸る心が唇を動かした。
「―――逢いたいの」
たったその一言が、この肌が切れるような緊張感と引き替えにしても言いたかった。そんな私の言葉に受話器の向こう側で彼が息を飲む気配がする。
「貴方に――逢いたいの」
黒電話のバネ状になっているコードを指先で真っ直ぐに伸ばして、私はもう一度鸚鵡のように復唱する。
これが私の心からの言葉であることが受話器越しの彼に伝わるようにと、祈りにも似た思いで受話器を握りしめた。
……それからどれくらいの時間を受話器越しに、互いの呼吸の音だけ聴いていたのか分からない。
けれど、彼の呼吸が少しだけ乱れて――泣いているのだと分かった。
それを聞いていた私の目の奥も熱く痺れて、涙が頬を濡らすのだ。
「……まだ余白が沢山あるわ」
だから――どうかお願い、頷いて――。
「もう一度私と……綴り直しませんか?」
受話器越しの提案に彼が小さく「はい」と答えてくれたのを聞いた私は、何だか自分がプロポーズをしているような気分になってしまって――。
次に彼が来店できそうな日の約束をしながら、今更になって頬が熱を保つのを感じて焦るのだった。